日本中を震撼させた3年前の事件を入口に、ひとつの事件をノンフィクションとフィクションで捉えた本作は、ミステリーであることを忘れてしまう「人間の物語」が様々な文体、言葉によって示されていく。あらゆる言語に翻訳され、世界中で読まれている湊作品。本作は、原語=日本語で読むことの歓びが際立ってくる一作だ。「29作目にして一番好きな作品」と語る本作について、湊さんにうかがった。

 

取材・文=河村道子、撮影=:冨永智子

 

 

――ストーリーは、文壇の大御所にして文部科学大臣の清水義之が、全国高校生総合文化祭の式典中に刺殺されたというオンラインニュースの記事から幕を開けます。犯人は、新興宗教「世界博愛和光連合(通称:愛光教会)」に恨みを抱き、同教会と清水大臣の関係を追及して犯行に及んだという。先日、裁判の始まった3年前の事件が想起されます。

 

湊かなえ(以下=湊):どこかのタイミングで宗教と宗教二世に関わる話を書きたいと思っていました。宗教に入ったりする人って、特別な人や洗脳された人というイメージがありますが、普通に人生を送っているなかで、ちょっと曲がった先にそこへの道があったかも、という経験を持つ人はきっと多いのではないかなと。宗教への入口はそれほど特別な場所ではない、ということを著したくて、物語の入り口は、誰もが知る事件を想起させるものにしました。

 

――本作は『暁闇』と『金星』、二つの物語から構成されています。はじめの物語『暁闇』では逮捕された男が週刊誌で連載する【『暁闇』~永瀬暁の告白】という手記によって展開されていきます。獄中で執筆しているがゆえ手書き。その筆圧までも伝わってくる文体ですね。

 

湊:報道で示されていることについて私なりに思うところがあり、主人公になりきって心の内にあるものを見出だしていきたいと思いました。“これは怒りの告発なんだ、俺の声を聞け!”と一切の装飾を言葉から取り去り、あの日の自分のこと、あの日までの自分のことをぶつけるように書いていきました。ノンフィクションの形式をとって書いていきましたが、そこに浮かんできたのは、フィクションとノンフィクションとは何なのだろう? ノンフィクションは本当に事実なのか、フィクションというカテゴリーにすると逆に書ける真実があるのではないか? という思いでした。そこで、ひとつの事件を、『暁闇』というノンフィクションと、『金星』というフィクションで書いてみたいと思ったんです。

 

――暁の手記には、坂道を転げ落ちるように崩壊していった家族の姿が綴られていく。先天性の病を抱える弟と自分を置き去りにして教団施設へ向かった母。連載の合間にはSNS上の反応や関係者の証言、手紙など、様々な媒体・文体の言葉が交錯します。そしてオンラインニュースでは、暁が6歳のときに自死した父が、デビュー作から6年連続で日本最高峰と呼ばれる文学賞・桜柳賞にノミネートされた実力派作家・長瀬暁良だったことも明らかにされていきます。

 

湊:父親が作家だったことについて、おそらく暁は、自分からは言わなかったと思うんです。けれど外からの言葉に反応し、父のことも手記に綴っていく。手記の合間に様々な「言葉」を挟んでいきましたが、こうした事件を見るときって大抵、SNSのコメントを見るなど、自分の言葉を持たないまま、誰かの強い言葉に乗っかって、その事件を見ているのではないかなと思うんです。暁の書いた手記の言葉に感情を乗せて読む場合も、もちろんあると思うのですが、様々な人や媒体を通じた意見、言葉を提示することによって、読者の方が「自分はこの目線であれば、この事件をしっかり見ることができる」という足場のようなものをたくさん作っておきたいと思ったんです。

 

――入口は皆が知る事件を想起させるものではあるけれど、その奥に潜む宗教団体・愛光教会は、湊さんが一から作りあげた、文字の力で世界平和を目指していく団体。作家を取り込み、文字の力を持つ業界を内側から操ろうとする宗教団体です。

 

湊:人は言葉に誘導されたり、救われたりする生き物なので、言葉を重んじる宗教にしようと。ということは出版社と癒着をしているかも? というところへも構想を広げ、経典や教義、儀式も文字で世の中を変えるためものをつくっていきました。今回の装画は、作家・黒川博行さんの奥様、日本画家の黒川雅子さんに描いていただいたのですが、描かれた龍は、作中の重要なモチーフとなっている龍の最高位「応龍」なんです。私は大事な日に雨が降る雨女なので竜神様にご縁を感じ、竜神様を祀る神社によくお参りに行っているのですが、そのことを雅子さんにお話ししたら、「応龍って知ってる?」と訊かれて。調べてみると、龍は進化するということがわかり、それを教義や教本、宗教団体のなかの格付けにも使おうと考えたんです。

 

――恐ろしいものではあるけれど、その描写は、文字や言葉を尊ぶ人にとって、美しさを感じてしまうものでもあります。

 

湊:教本も色ごとに分けたら読む方もイメージしやすいかなとか、文字のなかに龍の姿で見えてきたら――など、イメージがどんどん膨らんでいきました。さらに「おうりゅう」という文字を変換して、桜柳賞という文学賞を作ったり、作家ならうっかり入ってしまうかもしれないような仕組みを作ったりしていきました。

 

――暁の手記で、怒りとともに語られていく「宗教二世」の心情はどこから連れてきたのでしょうか。

 

湊:宗教二世の方々の生きづらさはどこにあるのだろう、なぜ抜け出せないのだろうと考えたとき、彼らは宗教そのものではなく、宗教にハマった親や家族にがんじがらめにされ、宗教をやめたい=親を捨てる、家族と縁を切るとなるから切り離せないのでは、と思ったんです。思想や教義に囚われてしまってはいるけれど、本当に囚われているのは、家族や親、自分をそこに連れて行った人と切れないからなのではないかなと。さらに考えたのが、暁のように宗教にハマった親に捨てられた子と、親に連れられて、自身も宗教に入ってしまった子の違いでした。

 

――『暁闇』に続いて展開されていく『金星』は、まったく同じ事件をフィクションで提示したものですが、そこで主人公となっているのは、自身も宗教に巻き込まれていってしまった少女です。

 

湊:『金星』を書き始めたとき、暁も本当につらい思いをしたけれど、こちらの主人公・星賀の方がもっと大変だなと感じました。二つの物語を通し、子どもを巻き込む罪と子供を捨てていく罪、どちらが重いのだろうということも考えていけたらいいなと思いました。そして同じ宗教二世でも外側にいる人と内側にいる人の視点、双方から描きたかった。それがこの二人の立ち位置となっています。

 

――“彼と初めて出会ったのは、小学校二年生の夏休みのある一日だった”というひと言から始まる小説『金星』は、宗教二世の女性・星賀の視点で進み、暁をモデルにしたと思われる“暁生”を捉えていきます。『金星』は事件当時、表彰式のアシスタントゲストとして舞台袖にいた作家・金谷灯里が著わした小説。手記である『暁闇』から読み進んだとき、改めてノンフィクションとフィクションの違いに気付かされた気がしました。

 

湊:『金星』を書いているとき、もしこれをノンフィクションの形で著していたら、ここまで辛いことを書くことはできなかっただろうなと感じました。フィクションだからこそ、客観的に主人公を見つめて、本当に辛かったことを書けたし、読者の方々が「これは物語だ」という認識のもとで読むという前提が自分のなかにあったからこそ書けたこともあった。本当のことを書くことができるのって、ノンフィクションではなく、案外、物語の方ではないかなと思いながら書き進めていました。

 

――宗教にのめり込み、変貌していく母、その娘であることから学校でも皆から距離を置かれ、孤独な星賀の友だちは本だけ。そしてあることから書かされることになった作文で見出された彼女の“書く”才も、愛光教会に絡めとられていくわけですが、幼い頃から本を読むのが好きで書く才能を持つ星賀には湊さんご自身の思いや経験も重なっているのではないでしょうか。

 

湊:家に親の持っている本がいっぱいあった、という環境は一緒ですね。小さい時から大人向けの本を読んでる人って、いきなり書店に行って大人向けの本を買ったのではなく、家に親の本があり、それを手に取った人が多いんじゃないかなと思うんです。私の家の本棚にも、親の本がいっぱいあって、図書館で探してもなかった本が、家の本棚にあった、ということが幾度かあったんです。作家になってから改めて、私は読書をする上でとても恵まれた環境にいたんだなっていうことに気づいたので、そのエピソードは入れたいなと思いました。

 

 

あらすじ
ただ、星を守りたかっただけ――。現役の文部科学大臣であり文壇の大御所作家が衆人環視の場で刺殺される事件が起きた。犯人は逮捕されたが、週刊誌で獄中手記を発表する。殺害の動機は母親が新興宗教にハマった末、家族を捨て多額の献金をしていたこと。大臣はこの新興宗教と深い関わりがあるため、凶行に及んだという。一方、大臣刺殺事件の現場に居合わせた作家は、この事件をもとに小説を執筆する。手記というノンフィクション、小説というフィクション、ふたつの物語が繋がった瞬間に見える景色とは!? 著者である湊かなえさんも「29作目にして一番好きな作品です」と断言し、本書を読んだ書店員さんたちからは「読みながら涙を流した本はいくつもありますが、読み終わってからも涙が止まらなかったのははじめて」「すぐに2回目を読まずにはいられませんでした」など絶賛の声を相次いでいる湊かなえの「新たなる代表作」。

 

〈後編〉に続きます。