「おー、やっぱり天気がいいね」
この窓は東を向いているため、朝日が二人を直撃する。浜地は極限まで目を細めながら、途端に恥ずかしくなった。こんなジイサンが「工責」で大丈夫かなんて、どの口が言えるのだろう? それを言うなら、たった一日の現場経験も持たない自分を「安全衛生管理責任者」に据えて、台島はそれでいいのだろうか?
徐々に慣れてきた視界のほぼ全ては、広大な建設地に占められている。剥き出しの地面は週末の降雨で海のように光っており、そんな中で三機の杭打機がそれぞれの場所で始業を待っている。杭打機は高さおよそ三十五メートル、ビルの十二階くらいに相当し、三点支持と呼ばれる型らしく、一本の支柱を二本の斜め材が添木のように支えている。近くで見るとだいぶ迫力があるが、こうして見るとジオラマのようだ。
「あー、今日はいい天気だ」
何度同じことを言うのだろう。確かに先の土曜は久しぶりに降った雨のせいで思うように杭を打てなかったようだが、こうもお天道さまに大感謝されると、工事って神頼みなのかと疑う。
「今日は六本いけるかねえ。調子がよかったら七本、八本……」
上田が引き出しからオムロンの機器を取り出し、日課の血圧測定に入る。浜地は大変不躾であるが、毎朝この光景を見せられると、老人ホームにいるかのような気持ちになる。
今日は三月十日、月曜日だ。三月一日に始まった杭工事には約二か月の期間が与えられ、全三百か所強の施工ポイントを達成するには「一日六本」を死守することが絶対条件のようだが、早くも遅れが出はじめているらしい。いまのところ「里山レイクタウン」のオープンは再来年の春ごろと、漠然と未来のことに思われるが、この東京ドーム数個分といった威圧的なまでの広さを前にすると、逆に約二年で完工するのだろうかと訝りたくなる。
浜地はとても上田がやるとは思えないので、事務所の照明スイッチをつけて回り、来客用出入口を内側から開け、共用のポットを満水にすると、ようやく安全チームの自分のパイプ椅子に腰を下ろした。はじめ、工事現場に勤務すると聞いたときは机など与えられないと思っていた。
時刻は七時三十五分。始業まで、あと二十五分だ。
「浜地さん、ちょっと悪いんだけどさあ」
上田は血圧計を引き出しにしまった。
「ついでに俺のコーヒーもお願いできる?」
嫌だ、と脊髄反射で思った。俺はあなたのウェイターじゃない。が、ここでお断りしても何も得るものはない。
「……インスタントでいいですか?」
「いいよ、インスタントで」
浜地は秒で沸いた湯に忌々しい気持ちになりながら、再びポットの前に立った。何でも上田は継続雇用の嘱託らしく、契約社員の自分からすると、立場も年齢も上だ。
浜地が始業よりやや早めに到着したのは、なにもやる気があるからではない。元請ならびに協力会社、全員参加の朝礼の準備をするためだ。上田は優雅なコーヒータイムだが、自分はそうもいかない。二口三口、唇を濡らすようにだけ飲むと、しぶしぶ身支度をはじめた。
朝礼には作業員でなくてもフル装備で参加しなければならない。ヘルメット、保護メガネ、保護グローブ、安全靴、そして安全帯。浜地はその全部が苦手だ。苦手というよりコスプレ感が拭えない。特にヘルメットが似合っておらず、ヘルメットなんて人生で避難訓練のときにしか世話になったことがないが、事実、自分の場合はヘルメットを「被っている」というより「(かつらのように)頭の上に載せている」感じだ。かと言ってバッチリ似合っていたら、それはそれで嫌だが。
職員用出入口の必ず目につく位置には、姿見が設置されている。今朝もこちらをよそよそしく見返すのは、立派な工事現場のオッサンだった。
*
浜地は転職エージェントに騙されていた。
「あの、例の求人の件ですけど……」
いまから遡ること一か月前、浜地は「ミドルのハイクラス転職」を謳うエージェントのキャリアアドバイザーに電話を入れた。
「積算業務って聞いて入社したら、現場に飛ばされることになって……」
浜地が三岸地所を自己都合退職したのは、そのさらに前のことだ。ある重大事故の「引責」により、積算部から「三岸みらい推進部」に左遷された浜地は、これに納得できなかった。
「三岸みらい推進部」は社内のレクリエーションを運営する部門だ。すなわちビンゴ大会とかBBQとかウォーキングイベントとかビアパーティーとか、そんなあってもなくてもいい、だけどあるってことは豊かさだよね、というような活動をするママゴト部門である。異動の理由は「長年の積算業務で培った企画力を多方面で活かすため」と言われたが、勘弁してくれ、企画するもののスケールに雲泥の差があった。それもいきなり「三岸みらい推進部長」になった浜地は、最初の会合(ビンゴ大会の景品を何にするか)に参加したその日に、辞意を固めざるを得なかった。
とは言え、浜地は三岸地所を愛している。そんなグータラ部門が存在するのも(自分が一員でなければ)愛嬌の範疇であって、浜地も同部の企画した三岸ゴルフコンペには幾度となく参加した。が、やはりこれはどう言い繕っても、自分のやるべき仕事ではなかった。
積算は営業や事業開発に比べると地味だろうが、社業の要である。積算部の仕事は自分たちの「これから」手掛ける案件を金額という最も重要な数字に落とし込むことだ。浜地の弾いた数字は経営会議に持ち込まれ、それをもとに重役および株主たちが大判断を下す。大きなものだとウン百億、ことによったらウン千億の採決だ。
そんな自分がママゴト部門に配置されたのは、間接的な肩叩きでしかない。結果として浜地は三岸地所を「勇退」し「新天地」で「さらなるご活躍」をすることになった。いまの状況をファイナンシャルプランナーに相談したら「悪いことは言わないから残りの十年を全力で会社にしがみつけ(あなたは来年五十路なのだから)」とアドバイスされることだろうが、それはあまりに屈辱的で、そして露骨な辞令だったのだ。
果たして、キャリアアドバイザーはこう言った。
「申し訳ありませんが、弊社は仲介するだけですので、その件は企業さまにお問い合わせいただけますか?」
*
嫌みなほど青い空の下で朝礼の準備をはじめる。朝礼は全国津々浦々の工事現場で必ず行われるもののようだが、当然ながら浜地にはまったくもって馴染みのない文化だ。前職はフレックスタイム制、それもリモート勤務も可能だったため、このように「いっせーの」で仕事をはじめることに、失礼であるが、刑務所のような錯覚を起こす。
「浜地さーん、ちょっとこっち来てもらえます?」
プレハブ事務所の一階にある物置からアンプを引きずり出していると、教育担当の松本が自分を呼ばわった。
「ちょっと待ってください! これを置いてから!」
松本は朝礼広場から二十メートルほど離れた建設地の出入口に立っている。朝礼の進行役なのにいつもギリギリに来るため毎度ヒヤヒヤさせられる。
「いいから早く早く!」
朝っぱらからうるさいやつだ。松本はまだ三十手前のニイチャンであるが、どうして自分がそんなやつに「教育」されなければならないのだろう? 浜地は「ちょっと待って!」と応じながらアンプの電源を入れた。
ぞろぞろと職人および現場監督が朝礼広場に集まってくる。マイクの電源を入れた浜地は「あー、あー、マイクテスト」とはせず、その口をポンポンと雑に叩いて動作確認をした。そして急ぎラジオ体操のCDをセットし、五分後に流れるようにした。
「浜地さーん、早く!」
速やかに松本のもとに駆けつけると、犬にでもなったかのような屈辱を覚えた。
「この泥引き、ちょっと洗ってもらえます?」
見ると、現場から出て去る方向に、泥のタイヤ痕が残されている。一体どこまで続いているのか、この片側一車線の名もなき道路を、二本のタイヤ痕は互いの距離を保ちながらひた走っている。
「え、これを全部ですか……?」
よりによって週末の雨で現場の地面はいつも以上にぬかるんでおり、それを墨汁にして書かれた豪快な習字のようだ。
「そうですね、できる限りお願いします。こういう泥引きって工事現場が嫌われる原因の筆頭ですから」
松本は片手でヘルメットの顎紐を締めた。この人はなぜか事務所ではなく通勤車に保護具を置いている。
「まあこの辺は住宅地じゃないからまだいいけど、僻地にポツンでもないから」
確かにすぐ近くには高速のインターに通じる交差点があり、大手運送業者の物流倉庫があり、農協の古い建物があり、あとは珍しい野鳥でも生息しているのか、バードウォッチャーもよく見かける。もし誰かしらの目に留まったら行政から指導を受けるかもしれないという。
「この辺でいま工事やってんのうちらだけだから、うちらの泥引きってバレバレなんですよね」
松本は歩きながらえっちらおっちらハーネスを着装した。松本は何も頭が小さいわけでもないのに、ヘルメットがよく似合っている。
「もー、現場から出るときはタイヤ洗浄しろって言ってんのに……」
クソ野郎! と毒づく。浜地は些か身が強ばるのを感じながら、泥引きに目を戻した。この松本という「元方安全」であるが、耳には蜂の巣のように穴が穿たれ、金のネックレス、右の小指だけ長い爪と、ひと口に言って柄が悪い。こういうやつに指示を仰ぐ日が来るとは思わなかった。
「でも先週、私が帰るときにはこんな泥引きありませんでしたけど……」
「あれっすよ、夜の搬入っすよ」
松本は最後に保護メガネをつけた。タマムシ色の遮光仕様のそれは、トンボの目のようにも見える。
「この現場の杭って一本十二メートルなんで、特車で来るんですよね。特車って夜しか走れないから」
だからタイヤ洗浄をすっぽかすんだ! と再び言い捨てる。そして「すみません、僕は朝礼の司会をやるんで」と歩み去ろうとするその背中を、浜地は「あの」と勇気を出して呼び止めた。
「……これって安全の仕事なんですかね?」
窘められるかもしれないと身構える。もちろん朝礼の司会はまだ浜地にはできないのでこのように分担するしかないが、普通に考えたら泥引きの処理は泥引きした当人が行うべきでは?
「ええ、うちらの仕事ですね」
松本は特にこだわりなく答えた。
「厳密に言うとこれをつけたドライバーの仕事だけど、その人いまここにいないからね。安全衛生管理責任者だから、僕ら」
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