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求めていた「強さ」との遭遇

 

 その後、気持ちも新たに極真会館城南支部に足を運んだ。忘れもしない、同年6月1日のことだ。初日にショッキングな場面に出くわした。ちょうど昇級審査のための組手をやっていたが、一方が放った上段回し蹴りがクリーンヒットしたため、もうひとりは激しくKOされてしまったのだ。床に倒されたほうは痙攣していた。

 その凄まじいKOシーンを目の当たりにして、わたしは入門を決めた。極真空手には自分が求めている「強さ」があると直感したのだ。

 高校を退学し、空手に専念しようと思ったので、稽古の日々が続いた。城南支部を束ねていたひろしげつよし師範の指導力は群を抜いていた。初心者には空手の面白さや長所を楽しく理解させることに務め、本気で強くなりたい者は次のステップとして帯研と呼ばれる専門部のクラスを用意していた。

 城南支部は月曜、水曜、金曜に白帯のクラスがあり、その間の火曜・木曜・土曜に帯研という名の色帯のクラスがあった。当時、極真の帯の色は昇級するにつれ、白→青→黄→緑→茶→黒へと変わっていくシステムだった。努力の甲斐あって、わたしは入門3カ月後には飛び級で黄帯に、6カ月後には緑帯に昇級した。

 周囲の白帯からは「帯研に行ったら、殺されるぞ」と脅されたが、強くなることに貪欲だったので、帯研にも参加した。

 すると、うれしいことに当時城南支部でトップだったFさん、茶帯のYさん、そして大会に頻繁に出ていたKさんを、立て続けに全てベニー・ユキーデ(アメリカ)ばりの後ろ蹴りで倒すことができた。城南支部での日々の稽古はもちろん、黒崎道場での自主トレや藤原さん、ウィリーと対峙したことは決して無駄ではなかった。

 道場の稽古だけではない。何しろ十代は多感な時期。極真会館の創始・大山おおやま倍達ますたつ総裁の自伝や啓蒙書からも数えきれないほど刺激を受けた。同様に前述した黒崎先生の自伝『必死の力・必死の心 -闘いの根源から若者たちへのメッセージ!』にも感化された。

「どうしても寝つけないと思ったら、今日は3人しか殴っていなかった。あと何人殴りにいくか」といったことも書かれていたので、緑帯になったことをきっかけに16、17歳の頃は川崎駅や蒲田駅までケンカを売りに行っていた。

 決めゼリフは「ケンカ、買わない?」。〝ケンカ十段〞と呼ばれた芦原英幸さんがケンカを売るときの常套句だ。それを模倣して、わたしは強くなろうとしていた。

 さすがに最初は緊張と不安で足が震えたが、慣れてくると決め台詞もスムーズに発することができるようになった。しかも、ほとんどの勝負は右回し蹴り一発でケリがついた。

 複数人を相手にしたケンカも経験した。2〜3人なら1分以内に倒す自信があった。相手が4〜5名のグループだったら、必ずハッタリをかました。

「下段、中段、上段。どの蹴りがいい?」

「なんだ、それ。お前、頭がおかしいのか?」

「下段は足を折る。中段は内蔵を破裂させる。上段は首を折る。どれがいい?」

 こんなやりとりをすると、相手のグループは顔を見合せ、きびすを返して退散した。それでも襲いかかってくる奴もいたが、素人の突きや蹴りはスピードもなく大振りだったので、簡単に見切ることができた。いま同じことをしたら警察沙汰になると思うが、80年代初めの頃の日本の社会は、まだケンカに対して寛容だったように思う。

 

弱かった自分との別離

 

 その頃、自宅近所の体育館でサンドバックを蹴っていると、遠くから近づいてくる一団がいた。中学生の頃、散々わたしをいじめていたグループだ。

 実をいうと、その直前にケンカをやめなければならないアクシデントがあった。いつものようにケンカを買われたまではよかったが、自分が放った回し蹴りが相手のこめかみを直撃し、腰からストンと落ちるや動かなくなってしまったのだ。意識はなく、みるみるうちに顔色が青くなっていった。幸い意識を取り戻してことなきを得たが、それ以来「もう自分の技を路上で使ってはいけない」と心に誓っていたのだ。

 そんなタイミングで久々に不良グループに遭遇するなんて運が悪いとしかいいようがない。一団のひとりがニヤリとして呟いた。

「おう、実験台がいるぞ」

 彼らのひとりがわたしの肩に手をかけようとしたとき、それを振り切るようにわたしはサンドバックに思い切り上段回し蹴りをぶち込んだ。

 集団で暴力をふるう者たちは、自分たちより強い者に対しては何もできない。逆に臆病になる。このときもそうだった。立場が逆転したことを察したかのように、何も言わずいなくなった。

「勝った」と思った。その一方で、何かやるせない気持ちにもなった。この不良グループに「絶対ギャフンと言わせよう」と始めた空手なのに、実際に修行を続けていると、そんな瑣末さまつなことは始めるきっかけに過ぎないことがわかった瞬間だった。

 しかし、当時わたしは17歳の少年にすぎなかった。自分をイジメ続けていた不良グループをビビらせたことで、ひとつの目標は達成できたように思えたが、次に何を目標にしていいのかがわからなくなってしまった。

 そんなことをいうと、「極真を学ぶなら、極真の大会での優勝を目指して稽古に励むのが当然」と反論されるだろう。しかしながら、この時期のわたしは強くなることだけに邁進し、周囲とのコミュニケーションをとることを怠っていたので、道場でも明らかに浮いた存在だった。

「強ければそれでいいんだ」と納得すればするほど、まわりの者は「この野郎!」「生意気だ」という捨て台詞を吐きそうな勢いでわたしに向かってきた。ケンカにあけくれていたときと同様、道場でのわたしは一匹狼だった。

 不運なときには重なるもので、道場から足が遠のきかけた時期に、わたしはバイク事故を起こしてしまう。コーナーを曲がり切れず、ガードレールに突っ込み右足を骨折、2カ月の入院生活を余儀なくされた。この事故をきっかけに、わたしは完全に道場に背を向けてしまった。後述するが、アメリカでもわたしは交通事故に遭遇し、それが転機となった。もう二度と交通事故には遭遇したくないが、人生の大きな節目に事故に遭っていることは確かだ。

 このときは「高校に入り直そうか」「どこかに就職しようか」と空手を辞めることばかり考えていた。そんな矢先、自宅に一通の手紙が届く。廣重師範からだった。両親に宛てたものだったが、文面にはわたしに対する熱い思いがしたためられていた。

「息子さんは空手のチャンピオンになれる素質をもっています。どうか1日も早く道場に復帰するよう、お父さんからも言ってください。お願いします」

 それまで息子に「世の中はそんなに甘くない。早く仕事に就きなさい」と諭していた父は態度を軟化させ、こう語りかけた。

「いい先生じゃないか。もう少し空手をやってみたらどうだ?」

 

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