わたしを救った一冊の漫画
「どうすれば、この地獄のような日々から抜け出せるのか」
中学時代、わたしはいじめのターゲットになっていた。その後の八巻建志を知る者にとっては信じられないかもしれないが、十代前半の頃はノッポでヒョロヒョロ。しかも性格は内向的で気が弱かった。
中学入学をきっかけに、わたしは長髪からスポーツ刈りにしたまではよかったが、3歳上の兄の「スポーツ刈りには剃り込みがよく似合う」というアドバイスを真に受け、兄の手によって左右の生え際に剃り込みを入れられてしまった。
ヤンキー顔負けの剃り込みが目立ち、いやがうえにも不良グループの目に留まった。運が悪いことにわたしが入学した中学は、神奈川県下でも校庭をバイクで疾走するようなワルが集まることで有名な学校だった。
案の定、入学してから数日後には体育館の裏に連れ込まれ、「生意気」という理由で集団リンチの洗礼を受けた。それまで格闘技の経験もなく、ケンカのケの字もない生活を送っていたわたしはサンドバックのようにめった打ちにされるしかなかった。
痛かった。
怖かった。
それ以降、やり返す気持ちもなければ、腕力もないわたしは不良グループの格好の標的となり、なにかにつけ呼び出されてはボコボコにされた。少しでも抵抗すれば、暴力の度合は増すばかりだった。学校には、いじめられるために行くようなものだった。
教師に告げ口したら、報復される。
家族に相談したら、ことが大きくなってしまう。
そう思ったら、足がすくみ何もできず、冒頭のように途方に暮れるしかなかった。
正直、自殺することも考えた。ビルの屋上まで足を運び、真下を見下ろしながら、「いま飛び下りたら、どんなに楽になることか」と思ったことも一度や二度ではない。
それゆえに、いまもいじめが原因で子供が自ら命を絶ったり、命を奪われたりするニュースを目の当たりにすると、胸が痛む。他人事ではないのだ。
そんなわたしに勇気を与え、空手の世界に導いてくれたのは漫画だった。いつものように不良グループに理不尽なヤキを入れられ顔を腫らして帰宅すると、兄が購入した一冊の漫画が目に留まった。原作・梶原一騎、作画・つのだじろうの『虹をよぶ拳』だった。昭和の格闘技ファンなら一度は聞いたことがあるだろう。そう、のちに大ヒットを記録する『空手バカ一代』のモデルとなった漫画だ。
ページをめくるうちに、わたしはひ弱で運動が苦手という設定の主人公・春日牧彦と自分を重ね合わせた。春日は空手と出会うことで、心身ともに強い少年になっていく。知らず知らずのうちに、わたしはその漫画をむさぼるように読んでいた。
「自分も空手をやれば、強くなれる」
何か根拠があったわけではないが、身体の奥底から湧き出てくるエネルギーを感じた。
「空手を修行して強い男になる。そして、いじめたやつらを絶対見返してやる」
そう思いながら立ち上がったことが、わたしの原点だ。『虹をよぶ拳』に出会わなければ、のちの八巻建志はいない。
試合に出たかったわけではない。ましてや試合で勝ちたかったわけでもない。
ただ、強くなりたかった。それだけだった。
強くなりたい一心で
子供ながら、思い立ったら行動は早い。1979年8月、わたしは地元で柔道や他流派の空手を少々習ったのちに、当時巣鴨にあった「新格闘術黒崎道場」に通うことにした。この道場は『少年マガジン』で連載されていた『四角いジャングル』の舞台であった。同級生はみな高校進学のために学習塾に通っていたが、わたしだけは意気揚々と巣鴨に通っていた。大事な高校受験の時期に勉強もせず、格闘技に熱中する息子の行動を親がよく思うはずもない。月謝や交通費を稼ぐために、わたしはアルバイトにも励んだ。
黒崎道場とは〝鬼の黒崎〞こと黒崎健時先生が設立したキックボクシングを軸とした鍛練道場だ。当時は、外国人として初めてムエタイの二大殿堂のひとつラジャダムナン・スタジアムで王者となった藤原敏男さんを筆頭に、斎藤京二さんなど日本チャンピオンやトップランカーがひしめき合い、黄金時代を迎えていた。
指導は典型的な「習うより盗め」のスタイルで、ワンツー以外にこと細かに教わった記憶はない。意を決してジムにいた先輩に「教えてください」と頼んだこともあったが、
「ワンツーが一番大事なんだ。黙ってやってろ」と怒鳴られる始末だった。
多忙だったのか、ジムで黒崎さんを見たことはほとんどなかった。先輩たちの動きをまねてシャドーボクシングやミット打ちを反復するしかなかった。
その頃の藤原さんはまさに全盛期で、ムエタイの現役チャンピオンとも互角以上の攻防を繰り広げていた。当然、見た目も厳つく、強い格闘家ならではのオーラを放っていた。
対戦相手と対峙したら、まず目で射抜く。格闘技としてはごく初歩的な技術を、知らず知らずのうちに藤原さんから学んだ気がする。
他の選手は、まだひよっこのわたしに目もくれなかったが、ある日マスコミが集まった道場で、藤原さんから「お前、ちょっとリングに上がれ」と声をかけられた。ほかに相手がいなかったので、公開練習のパートナーを務めることになったのだ。
まだ受け方すらわからなかったので、ヘッドギアの上からボコボコにされた。対峙したときの藤原さんからは闘気がただよい、別次元にいる人のように思えた。だからといっていじめられているなどとは一切思わなかった。人一倍「もっと強くなりたい」と願う自分は感動するしかなかった。
藤原さんは当時の流行歌の一節である「ダメなダメな、本当にダメな、いつまでたってもダメなわたしね」(敏いとうとハッピー&ブルー『よせばいいのに』)と口ずさみながらジムに入ってきていたのも懐かしい思い出だ。
わたしが黒崎道場に通っていたのは同年8月から翌年5月のわずか9カ月。黒崎道場で練習しながら、アメリカ人選手を相手に日本武道館のリングでキックボクサーとしてのデビュー戦を行った佐山聡さん(のちの初代タイガーマスク)とは会っていない。佐山さんのほうが2年ほど通っている時期が早かったからだ。あの時代に道場で会っていれば、どんな会話をしていたのだろうか。
黒崎道場では〝熊殺し〞ウィリー・ウィリアムス(アメリカ)ともスパーリングをした。
藤原さん同様、ウィリーも怖かった。もともと身長は2m級と大きかったし、クリンチ状態になったときには振り回された記憶がある。しかしながら、対峙してみてわたしの力量を計ってくれたのだろう。かなり手加減してくれているようにも感じた。
80年2月2日、ウィリーはアントニオ猪木と異種格闘技戦を行っているが、会場となった東京・蔵前国技館には控室で待機するウィリー側のその他大勢のひとりとしてわたしもいた。スパーリングは試合の少し前のことだったと思う。
同年5月、わたしは黒崎道場を離れなくてはならなくなった。なぜ離れたかといえば、ジムが巣鴨から埼玉県戸田市に移転することになったからだ。わたしは川崎に住んでいたので都内だったらまだ通えるが、さすがに埼玉は遠く諦めるしかなかった。
「八巻建志自伝 真、未だ極まらず」は全2回で連日公開予定