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 家から歩いて十分の居酒屋を指定すると、飯島は席につくやいなや「みんな気にしてないと思うよ」と切り出した。

「気にしてるって言ってるようなもんだよね」

「いやまあ……千石さん、ネタでああいうこと仕込む人ではないじゃん。だから解釈に戸惑ったというか」

「飯島くんの解釈は?」

「え、単純に好きだからじゃないの。女の人が女の裸見てどきどきするとか、結構普通なんだろ。だからそういうのの延長かと思って」

 そこから生中三杯と刺身盛り合わせ、牛肉のたたき、なめ茸豆腐、鶏の竜田揚げを経て、真紀は漏らした。

「あれ、わたしのじゃない」

「じゃあ旦那さん? てか結婚してたっけ?」

「一緒に暮らしてるけど結婚はしてない人、の、お兄さんが持ってた子なの」

「ややこしいね」

「そんなことないけど」

 麦のソーダ割りを頼み、指についたグラスの水分でテーブルに丸を三つ描く。

「わたしと、裕人。裕人のお兄さんのキヨちゃん。聖人って書いて、きよとだからキヨちゃん」

「神々しい名前だな」

「うん、でもキヨちゃんを知ってる人なら、誰だって名前負けだなんて思わない。頭がよくて勉強もスポーツもよくできて、やさしくて、やさしくて、やさしかった」

「三回も言うほど?」

 飯島はテーブルに肘をつき、指で口元を隠してほほ笑む。小馬鹿にしたようでも、深く感じ入っているようでもあり、サシで飲むのは初めてだけれど、お酒が入るとこんなふうに笑うんだ、と思った。

「で、千石さんは、キヨちゃんに憧れつつ裕人くんとつき合って? みたいな?」

「うーん」

 小首を傾げただけのつもりが、頭の重さに負けてへにゃっと曲がってしまった。しまった、けっこう回ってるかも。でも醒めたくないのでグラスを空け、今度はロックを注文する。醒めて家に帰ったら、裕人と話し合いとやらをしなければならない。

「はたちの時にねえ」

 濃い焼酎にとろりと舌を浸すと、声は自然と間延びした。

「キヨちゃんから電話があったの。うちに来てほしいって。裕人とカラオケにいたんだけど、ふたりですぐ出た。キヨちゃんちに行ったら、知らない女の子がいた」

 彼女が、白い開襟シャツとプリーツスカートのシンプルな夏服だったことを思い出す。顔も名前も忘れてしまったのに。

「中学生だった。キヨちゃんが、駅前で拾ったの。いや、拾ったって言い方はしてないけど、何か、家に帰れないらしくて、それで援交しませんかってキヨちゃんに声かけてきて」

「エロ漫画の導入じゃん」

「そう。でもキヨちゃんはエロ漫画に出てくる人じゃないから中学生をお金で買えなくて、そしてやさしい人だから放り出したりもできなくて、とりあえず家に連れてきて、わたしたちを呼んだの。警察も児相も何もしてくれなかった、家に帰されるくらいなら死ぬってだいぶごねられたみたい。まあ実際、リスカ痕ばりばりだったし」

 あの女子中学生が幸運だったのか、弱者だけに備わる嗅覚で自分を傷つけない人間を嗅ぎ当てたのか、どちらにしても腹が立つ。

「でも、本当には拾えないよな」

「うん。ひと晩、四人でゲームして遊んでただけ。翌朝、わたしと裕人で朝マックに連れてって解散した。すんなり帰ってくれた。あの子のスマホは一度も鳴らなかった」

「ただのいい話じゃん」

「本当にそこで終わってたらね」

 新しい麦のロックをもらい、アルコールで喉を焼いてから、話す。

「中学校に通報したの。わたしと裕人で。そちらの何年何組の生徒が男に連れられてマンションに入っていきましたよって」

 ――キヨちゃんがうろたえるとこ、見たくない?

 突然の提案に、裕人は頷いた。頷くまでの短いインターバルにどんな表情をしたのだったか。

 悪巧みの間じゅう、マクドナルドのカウンター席で肩を寄せ合っていた。傍目にはカップルがじゃれ合っているようにしか見えなかっただろう。外がまぶしくてブラインドを下ろしていて、隙間から射し込む朝の光がコーラのストローをちっぽけに輝かせていた。「悪いこと」がこんなにきらきらと美しいのを知らなかった。真紀と裕人だけが見ていた光。それに比べて、キヨちゃんがあの子にした「良いこと」はうそくさくて醜くはなかったか。

 こんなどうでもいい細部を覚えているのに、本当に、あの子の顔も名前も忘れてしまったんだろうか。忘れたことにしているだけなんだろうか。

「……何で?」

「わかんない。したかったからとしか。わたしから持ちかけた」

 真紀は、キヨちゃんの清廉さを時々ぐちゃぐちゃに踏みにじりたくなる衝動に駆られる瞬間があり、裕人はおよそ欠点の見当たらない兄へのコンプレックスを密かに抱えていた。ふたりとも、お互いの暗がりを知っていた。だから一緒にいると安心できた。

「なんか、けっこう大騒ぎになって。たぶんその子が先生に詰められてしゃべっちゃって、その子の親も出張ってきて、まあ、ほんとに何もなくても中学生を外泊させたらアウトだと思うけど」

 聖人と裕人の両親に、呼ばれた。あの晩、あなたたちも聖人と一緒にいたって本当なの、と。

 裕人は、まっすぐ親の目を見て答えた。

 ――知らない。

 あ、まだやめないんだ、と思った。意外だったけれど異存はなく、真紀も、知りません、と言って、裕人と初めて手を繋いだ。裕人の手は汗ばんでタルカムパウダーを必要としていた。

 ――あの晩は、カラオケした後、ふたりで……ホテルに行って朝まで一緒でした。キヨちゃんから着信はあったけど、いま取り込み中だからってすぐに切っちゃいました。

 聖人は、焦りも怒りもせず、ぼうっと熱に浮かされたように無防備な目で真紀を見ていた。初めて見る表情に満足した。同時に、ああ、裕人と本当につき合わなきゃ辻褄が合わなくなるな、とも考えていた。

 裕人の両親は、聖人と裕人なら、聖人の主張を信じただろう。申し分のない優等生だった兄と、何につけてもそれよりはワンランク劣る下位互換の弟。でもそこに真紀が加われば天秤の傾きは違ってくる。キヨちゃんキヨちゃんと慕ってくれていた真紀ちゃんが、聖人を陥れるようなまねをするはずがない――。

「あんなガバガバのうそが通ると思わなくてさ。もっと突っ込んでくれたらごめんなさいできたのに。その後のことはよくわかんない。別に逮捕とかはされなくて、でも、あの子の親にお金は払ったんじゃないかな。キヨちゃんは堅い仕事だったから会社も辞めて……きっとまた誰かにチクられると思ったのかな」

「『誰かに』」

 飯島が復唱する。

「そう。うちの父は警察官だったから、裕人と結婚することだけは許さないって言われて、ただ一緒にいる。キヨちゃんは呆気なく死んで、リリーが遺された」

「あの人形のこと?」

「いい名前でしょ」

 飯島はまた、さっきと同じ顔で笑った。

 

 気がつくと、ベッドの上だった。ホテルじゃない、家だ。起き上がると吐き気でえずきそうになったがこらえる。リビングに通じる引き戸を開けると、しゃがみ込む飯島の背中が見えた。大きく開かせたリリーの脚の間に。

「あ、大丈夫?」

 飯島は真紀の気配に気づいて振り返ると、悪びれたようすもなく笑いかけてきた。いつもの、会社で見せる屈託ない笑顔だった。

「水飲んだほうがいいよ」

「ありがと」

 真紀も笑って尋ねた。

「何やってんの?」

「やっぱほら気になっちゃって、ここはどうなってんのかなって。いや、すごいね、まじでよくできてる。俺も欲しくなっちゃう」

「そ」

 真紀はにこにこしたまま、両手で飯島の頭をつかみ、ローテーブルのガラス天板に叩きつけた。めしゃ、と案外くぐもった音を立ててガラスがひび割れる。どうしてこんな腕力が出せたのか自分でもわからない――ううん、知ってる。キヨちゃんだ。この力も、この怒りも、キヨちゃんのものだ。

 まだここにいるんだね。嬉しい。やっぱり四十九日なんてうそ。キヨちゃんはずっとリリーの傍にいた。

 飯島は血だらけの顔で「え? え?」とまだ事態を把握できていないようだった。真紀はキッチンに駆け、いちばん最初に目についたフライパンを引っ掴むと再び飯島に躍りかかり、何度も振り下ろした。今度は金属同士がぶつかったような、かいん、と高い音がした。「え」と「ちょ」しか言わない男を鉄の拳で黙らせながら、真紀は――聖人は、お前が悪い、と思っていた。

 ぼくのリリーを汚しやがって。

 ぼくらのリリーを汚しやがって。

 何度殴打したのか、柄がぼっきり折れて鍋部分がすっ飛んでいった。飯島はいつの間にか動かなくなっていた。それを足で雑に転がすとリリーの脚を元通りにきちんと閉じさせ、ぎゅっと抱きしめた。両腕の筋肉という筋肉が痛む。リリーが知ることのない痛み。汗だくだから、シリコンにはよくないのに。

「ごめんね」

 言葉も鼓動も体温も返してくれないリリーをそのまま抱いていると、玄関の鍵が開いて裕人が帰ってきた。

「ごめん、遅くなった、てか誰か来てる?」

 靴が、と言いながらダイニングに入ってきた裕人はリビングの惨状を見て絶句する。あの時のキヨちゃんとおんなじ顔、と思った。

 なに、と裕人が言う。

「どういうこと」

 真紀はリリーから身体を離し、「リリーにいやなことをされたの」とつぶやいた。悲しみも後悔も感じていないはずなのに、涙がぼろぼろ出てきた。

「いやだったんだもん……」

 そのまま子どものように泣きじゃくると、裕人がそっと抱きしめてくれた。

「ごめんな」

「どうして?」

「わかんないけど」

「裕人、泣いてるの?」

「ちょっとだけ」

「大丈夫?」

 大丈夫、と裕人は真紀の手を握る。

「どっかの山に埋めよう。リリーじゃなくてこいつを。それで、帰ってきたら俺と結婚してください」

 すこし考えて、尋ねた。

「朝マック食べてからでいい?」

「もちろん」

 裕人が笑う。真紀は、あの朝のストローに光っていたような希望をそこに見つける。

 

 

(つづく)