個室で懐石のコースを食べ終え、熱いお茶が出されたタイミングで真紀は「聖人さん、亡くなったの」と報告した。きょう言う話ではないのかもしれないけれど、きょう言わなかったらずっと言わない気がする。それで何か問題あったっけ? と考えても特に思い当たらず、だからこそ言いたくなった。
え、と絶句する両親に「家で、倒れて。脳出血だって」と畳み掛ける。
「そう……」
頑張ってこしらえた感じの深刻な表情で母が問う。
「裕人のご両親から何も聞いてなかった?」
「ないわよ。もう何年も連絡なんて……おいくつだったっけ?」
「四十二? 三? たぶんそれくらい」
「まだ若いのにな」と、父も過剰な重々しさで言った。
「お葬式とかは?」
「あしたフルコースでやっちゃうって。家族だけで。わたしは行かない」
「お香典は?」
「んー……別にいいんじゃない? お母さんたちから何かしてもらったら裕人も却って気づまりだと思うし」
「なら、お悔やみだけ伝えておいて」
「わかった」
母はお茶をひと口含み「真紀ちゃん、どうするの」とそっと吐き出した。この人、未だにちょいちょいちゃん付けだよなあ、と思いながら「何が」と訊き返す。
「裕人くんと籍入れるの?」
「何で」
「だって……」
「いいよ、今さら」
「今さらってことはないでしょう」
「だってもう三十五だし」
「まだまだ若いじゃない。子どもだってできるかもしれないし」
「いらない」
ひと言で切って捨てると、母は一瞬口をつぐみ、それから「根に持ってるの?」と漏らした。「お母さんたちが、あの時反対したから……」
「別に気にしてないよ。もっともだと思う。でも、原因が死んじゃったらそれでチャラなんだーって釈然とはしないかな」
「夫婦にもならない、子どももつくらないんじゃ、わざわざ一緒にいる意味がないだろう」
「お父さんたちの四十年の意味って、戸籍とわたしだけなの? それはそれで少なすぎない?」
娘の減らず口に、父はあからさまに機嫌を損ねて口角を引き下げる。
ああ、やっぱり言わなきゃよかった。両親の記念日に泥を塗った……とまではいかないが泥を跳ねさせてしまった。わたしが悪いのに悪いことしたなあ、と上品なサイズの湯呑みで手のひらを温めながら思う。わたしと、裕人が。
家に帰ってまず、裕人に確かめた。
「キヨちゃんてどこで働いてた?」
「え、物流センターの倉庫だって」
「……うちの?」
「うん」
やっぱり。どっと足に疲労が溜まるのを感じ、真紀はソファに座り込んだ。足を上げたい。ローテーブルに膝から下を投げ出す。隣ではリリーが、朝と寸分違わない姿勢で腰掛けている。
「真紀、行儀悪い」
ダイニングテーブルから、裕人の注意が飛んでくる。真紀は背中を向けたまま「見逃して」と応えた。
「寝覚め悪いとか思ってる?」
「別に」
真紀が勤める大手通販会社は全国にいくつもの物流拠点を展開していて、相模原のセンターはその中でも大規模な方だった。一度見学に行ったことがある。東京ドーム三個分の敷地の中に気が遠くなるほどの棚と商品が並び、道路工事の作業員みたいな蛍光色のビブスを身に着けた倉庫スタッフは絶えず動き回って注文の入った商品をピックアップし続ける。
「いつから知ってたの?」
「きのう、親から聞いて。納得した」
「何が?」
「全然太ってなかったから。不摂生な感じゼロ。むしろ俺のがやばい。倉庫の作業ってきついんだろ?」
「ちょっと前は、常時小走りくらいじゃないとノルマこなせなかったと思うけど、今はだいぶ楽だよ。機械化進んでるし」
……と会社は謳っているが、真紀自身が体験したわけでもスタッフから直接聞いたわけでもない。
「ふうん」
時給千三百円スタートの倉庫スタッフのためにターミナル駅からの無料バスが出ていて、無料Wi-Fiも飛んでいるし、格安の食堂も完備されている。棚の横にはウォーターサーバーと椅子が設置され、休憩時間以外でも自分の裁量で水を飲んだりひと息ついたりすることもできる。そうやって、シャーペンの替え芯ひとつを当日届けて欲しがるような「お客さま」の需要に応え続けている。真紀が本社のオフィスで処理する大量の勤怠管理の一部に聖人も含まれていたのかもしれない。
キヨちゃん、いいところにお勤めだったのにね。倉庫が悪いってわけじゃないけど、機械に指示されて単純作業を繰り返すのが天職じゃなかったはず。
「調べたんだけどさ」と裕人が言う。
「うん?」
「その、ドール。メーカーに返却すれば処分してくれるらしい。有料だけど」
「そうなの? アフターフォローが行き届いてるね」
「困って山に捨てるやつとかいるんじゃない。『里帰り』ってサイトに書いてあった。修理してまた発送したりもするんだって」
「へえ」
横目でリリーを見る。すっとした鼻すじ、美容整形のアフター画像みたいに理想的なEライン。整っていればいるほど人間味から遠ざかっていくこれに、深い愛着を抱くユーザーもいるのか。ラブドールなんて名づけた人間は笑いのセンスがありすぎる。
白いワンピースから覗く胸元に青い静脈が走っているのが見え、こんな細部まで作り込まれているのかと思わず指先で触れた。体温のない肌は予想に反して油じみていてすぐに引っ込める。もっとさらさらしているのかと思った。
「裕人、ポテチ食べた手で触ったりした?」
「してないよ」
「何か油っぽいんだよね」
「シリコンだからじゃない。経年で加水分解するのかも」
「え、いやなんだけど」
「待って、調べる……メーカーのサイトに書いてあった。やっぱそういうもんみたい。タルカムパウダーでケアしてください……タルカムパウダーって何だろ」
今度は真紀がスマホで調べた。
「ベビーパウダーだって」
「あの人の家にあるかも。火葬と納骨が終わったら片づけに行くから、そん時見とくよ」
「業者にお願いしないの?」
「するけど、それが届いた時の段ボールとか、説明書みたいなのがあると思う。見られたら恥ずすぎるだろ」
「わたしも行く」
と言うと、背後の裕人が驚いたのが、気配でわかった。
「……いいの?」
「うん」
ローテーブルの上で足を組みながら、通販サイトでタルカムパウダーをカートに入れ、「超特急便」で決済した。
聖人の部屋は六畳の1Kで、改めて片づけるほどのものもなかった。狭いクローゼットには、裕人の読みどおりに細長い段ボールが畳んで立てかけられていた。家電の取り扱い説明書が綴じられたファイルからリリーの保証書やらを発見した時にはちょっと笑えた。それらを抜かりなく回収して、残りは裕人の両親に渡すもの、業者に売却と処分を頼むもの、に分けた。掃除を含めても一日かからなかった。ひたすらに質素ではあったものの荒んだ気配のない部屋にほっとした。キヨちゃんは昔からきれい好きだった、と思い出す。昔の部屋には趣味のものがたくさんあり、遊びに行くたびに漫画を読んだり写真集を眺めたりルールがよくわからない外国のボードゲームに苦戦したり、そんな時間が大好きだった。
帰宅後、リリーに関する書類を改めて読み直すと、里帰りという名の回収についてもちゃんと記載があった。
「返送されたら、メーカーの人にはわかるらしいよ」
ビール片手にタブレットでドールのサイトを見ていた裕人がつぶやく。
「何が」
「どういうふうに使われてたのか」
「紳士的に扱ってたかってこと?」
「まあ、そういうのも含めてじゃない。どういう体勢が好きだったか、とか」
ドールの種類は多岐にわたっていて、体格から肌や髪の色、胸や性器の形状まで呆れ返るほどさまざまなカスタマイズができるようになっていた。リリーの素体は「ゆりえ」という古風な名前のシリーズで、聖人はここから名づけたんだろうと推察された。
納品書の日付は、二〇二〇年の八月だった。それを見た瞬間、突き上げてくるような切実さで聖人の孤独が胸に迫ってきた。
寂しかったんだね、と真紀は言った。
「誰にも会えずに」
「コロナと関係なく前からだろ」
「だからだよ。みんなは――わたしたちも含めて――コロナが落ち着いたら会おうっていう希望を語り合えてたでしょ。あの頃って何かさ、先が見えない心細さで逆にラブアンドピース最高みたいな気色悪いノリがあったじゃない。好きじゃない人も元気でいてほしいとか会いたいとか……リリーはきっと、キヨちゃんにとってのシルバニアだったんだよ」
「いや、だいぶ違うだろ」
「より人型に近いものが欲しくなったんだと思う。考えてもみてよ、この世の全てが詰まったようなあの倉庫で、来る日も来る日も他人の物欲を調達し続けて……それって地獄じゃない? 体力的にきついのとかと全然別問題で」
「え、それで結局どうしたいの」
真紀は立ち上がり、ソファに掛けたリリーの前にしゃがみ込む。やわらかな乳白色の膝頭を撫でると、さらさらして気持ちがいい。入念にタルカムパウダーを馴染ませた甲斐があった。聖人もこんなふうに彼女に触れ、慰められた夜があったんだろうか。見上げたリリーの瞳は真紀を映してはいない。
「裕人がキヨちゃんちに行った時、この子はどこにいたの」
この子って……と若干引きつつ裕人は「ベッド」と答えた。
「横になってた?」
「座ってた……座らされてた? 最初見た時、一瞬びびって声出た。救急隊員の人もびっくりしただろうな」
そうか、じゃあこの子は、キヨちゃんが倒れてから死ぬまでの一部始終を見ていたんだ。ふるえる手で必死にメモを遺し、玄関に這っていくキヨちゃんを。つらかっただろうね。そっとまぶたを閉じさせた。
「リリーは、うちに置いとく」
「え?」
「だって、『よろしくたのむ』って遺言なんでしょ。裕人が言ってたじゃん」
「言ったけど」
「キヨちゃんの最後の頼みくらい聞いてあげようよ」
リリーの肩越しに裕人と目が合う。聖人とは似ていない兄弟だった。リリーの黒いセミロングの髪がすこしふよふよしている。後で梳かしてあげなきゃ。
「いつまで」
どこか緊張した面持ちで尋ねる裕人に、真紀は「気が済むまで」と答えた。
(つづく)