「兄貴が死んだって」
そう切り出してすぐ、裕人は妙に居心地悪そうに小首を傾げた。自分で口にした「兄貴」という響きに馴染まなかったのだろう。裕人は実兄を「あの人」と呼んでいた。その前は「キヨちゃん」で、「兄貴」なんて変に大人ぶった若干マッチョな呼称は使わなかったのに、訃報は人に背伸びをさせるらしい──そう、訃報。くだらない感想をひと揉みしてからようやく「死」という事実が脳にちゃんと届き、真紀は目を見開いて「どうして」と言った。
「脳出血? 脳溢血? そんな感じの……親が言うには、家で倒れてそのまま、だったみたい」
「誰が見つけてくれたの」
「さあ、まだ詳しく聞いてない。とりあえず病院行ってくる」
「わたしも行ったほうがいい?」
裕人はさっきと反対方向に小首を傾げてから「いや、大丈夫」と答えた。「もう遅いし」
遅いと言っても午後十一時過ぎ、そもそもこんな緊急事態に遅いも何もないはずなのに、やはり動揺のせいか裕人の受け答えは微妙にピントがずれていた。
「そっか。お母さんたちによろしくね」
「うん」
何をよろしくしてもらえばいいか真紀にはわからなかったし、裕人もただ機械的に頷いただけのようだった。
玄関先で裕人を見送ってから、あんなふうに訊いたのはよくなかったな、と反省した。行くか行かないかは自分で決めて結論を伝えればよかったのに、裕人に選択させてしまった。わたしも動揺してるのかも。
聖人とは、もう十五年以上会っていなかった。なので、長らく真紀の人生にいなかった「同棲相手の兄」が、これからもずっといないことが確定した、言うなればただそれだけの話なのだけれど、何となく、身体の中のちいさなねじが永遠に失われてしまったような喪失感が足元をつめたくさせた。そのねじが失くなっても駆動に何の支障もない。でも、「ないこと」は「あること」とそれだけで絶対に違う。真紀は冷蔵庫から飲みかけの赤ワインを取り出し、うっすらコーヒーが残ったままのマグカップになみなみと注いで飲んだ。
半分ほど残っていたワインを空にするとひとり飲みに妙な弾みがつき、コンビニで買い足してきた白を啜っているうちに午前二時を過ぎた。裕人からLINEが届く。
『もうすぐ着く。ちょっと荷物ある』
『下まで行こうか?』
『大丈夫』
荷物って何だろ。形見とか遺品ってこと? 気が重くなる。何もきょう持って帰ってこなくたっていいのに。ひょっとして冷蔵庫の中身だったり? 賞味期限が近くてとか──裕人は変に律儀だからありえる。死んだ人のところにあったものって抵抗ある。死にたてでも何かいや……「死にたて」ってえぐいな。漏れたため息には、自身の冷淡さへの嫌悪も含まれていた。
しばらくして玄関のドアが開く音がしたので立ち上がって出迎えに行くと、裕人は毛布に包まれた細長い荷物を抱えたまま身体を捩じ込もうと何やら苦戦していた。
「どうしたの」
真紀が慌てて手を突っ張り扉を押し開けると、「ありがとう」と言いながらその物体Xとともに帰宅を果たし、大きく息を吐いた。
「何それ。楽器? ハーフボード?」
どっちにせよいらないし、場所を塞ぎそうなものを断りもなく持ち帰ってきてほしくなかった。
「いや……」
裕人は微妙に言葉を濁し、リビングのソファに包みを立てかけるとそっとほどいた。
「これなんだけど」
布の間から生白いものが覗いた瞬間、真紀は「ひっ」と裏返った声を上げて後ずさった。
これ、というのは、女だった。正確には女の人形、もっと正確に言えば。
「え……これ、あれだよね」
なめらかすぎる肌、東洋とも西洋ともつかない、若い女の子がSNSの重加工や整形で目指しそうな非現実的に整いすぎた目鼻立ちと、桜の色素を注入されたような唇。白いノースリーブのワンピースから伸びた細い手足。
「……ラブドール」
その単語を、生まれて初めて口にした。裕人がちいさく「うん」と答える。
聖人の死因は、脳出血だったらしい。自分で異変に気づいて一一九番通報をしたものの、玄関先まで這いずって鍵を開けたところで意識を失い、搬送先の病院で息を引き取った──ということだった。裕人は病院で兄の遺体と対面し、今後の段取りについてはいったん両親に任せて町田にある聖人のマンションにひとりで向かい──嘔吐や失禁があったので、取り急ぎ片づけるため──今度はこのいかがわしい人形と対面した。
「ありえなくない?」
関節を動かしてソファに座る姿勢を取らせたドールを見下ろし、真紀は言った。言ってから疑問形にする必要はないと気づき「ありえないんだけど」と言い直した。
「わかってる」
その隣に平気で腰を下ろしていられる裕人の神経がわからない。そりゃ、疲れたんだろうけど。
「でも、ほかにどうしようもなかったんだよ。親がこんなもん見たらそれこそ心臓止まるだろ」
「ただのでっかい人形としか思わないんじゃない?」
「それでもやばすぎるって。まさかマンションのごみ捨て場に持ってくわけにもいかないし」
「うちのごみとして捨てるわけにもいかないよね? てかこれ粗大ごみでいいんだっけ……」
「処分方法はおいおい考えるから」
裕人はジャケットのポケットから折りたたんだ紙切れを取り出し、ローテーブルに置いた。
「何それ」
「遺言……のようなもの」
正直、見たくも触れたくもなかったが裕人の目線は明らかにそれを求めていたので仕方なく手に取り、開いた。DMが入っていたと思しき封筒の裏に、感電したみみずみたいな筆跡で、たったのひと言。
『ぼくのリリーをよろしくたのむ』
後悔した。見るんじゃなかった。こんな、いかにも今際の際に苦しんで書きましたみたいな文字。脳に刻まれて消えてくれそうにない。真紀は投げやりな仕草にならないよう気をつけてそのメモを戻し「リリーって、これのこと?」と顎で人形を示した。
「たぶん。てか、ほかにいないだろ」
「何なの」
裕人に当たったって仕方がないとわかっていても苛立った声が出る。「よろしくって」
「さあ。とりあえず、きょうはもう寝ていい? へとへとだよ」
そう言われると、だらだらと酒を飲んでいただけの真紀はそれ以上追及できなかった。お人形の、くるりと上向いた長いまつげが憎たらしい。
翌朝もリリーはソファに座ったままだった。夢じゃなかった。カーテンを開けて朝の日光を採り入れると、しわもしみもない肌が真珠のような光沢を帯びて輝く。この家の主のような存在感に改めて気が滅入ったけれど、1LDKの間取りで、まさかふたりの寝室に押し込むわけにもいかない。
裕人はリリーに触れようともせず淡々と朝食を食べている。
「お葬式とかは?」
「あした」
トーストをかじる音の次に返事が聞こえる。
「火葬まで全部すませる。会社には忌引きじゃなくてただの有休もらう。弔電とか送られたらやだし」
「わたし、行かないね」
今度はちゃんと自己申告した。
「うん」
「あと、きょう親とごはん食べて帰ってくるね。結婚記念日らしいから」
「何年目?」
「四十年。ルビー婚式だって」
「すごいね。言ってくれたら俺からもお祝い用意したのに」
「いいよ別に」
言ってからそっけなさすぎたかなと反省し「じゃあ今度、連名で旅行券でも贈る?」とフォローした。
「そうだね」
リリーの件は棚上げのまま出勤した。会社のカフェテリアで弁当を広げていると、飯島が近づいてきた。
「お疲れ。きょう出勤日だっけ?」
「うん」
「ずっとリモートでいいのにな」
その言葉に真紀はちいさく笑った。
「うん?」
「そういうミュージシャンいたなあと思って」
「ああ、『ずっと真夜中でいいのに。』だっけ? マル、いる?」
「たぶんいる」
「若者の歌じゃない? よく知ってんね」
「若者の歌かどうかもわかんないくらい知らない。ていうか飯島くん、率先して年寄りサイドに降りてくのやめて? ずるいよ」
「だってもう絶対に若くないじゃん。先月、若手に取った職場改善アンケートの内容見た?『リモートできないんだったら、デスクのフリーアドレス制やめてほしい』って意見があったんだよ」
「何で」
「自分だけのスペースにアクスタとかぬいぐるみとか飾りたいから」
「うそでしょ」
「まじで。祭壇みたいにしたいらしいよ。労働という地獄の時間を慰めてくれる癒しがないと耐えられません、だって」
「ああ、そういえばうちに今年入ってきた子も、シルバニアファミリーのマスコットみたいなのスマホにぶら下げてる」
「今は、大人になってもそういうの卒業しなくていいんだな」
飯島は呆れたように笑ってからすっと笑顔を引っ込め「人、死んだらしいよ」と声をひそめた。
「え?」
「相模原のセンターで働いてた人」
「社員?」
「いや、非正規。俺らよりちょっと上のおっさんだって。自宅で倒れてそのまま死んじゃったみたいだから、まあ直接関係はないんだけど。これが勤務中だったら労災とかの手続きしなきゃだし、最悪、過労死だなんだって揉める可能性あったから、悪いけどほっとした」
「そうなんだ」
「独身だったし。奥さんがごねる時あるじゃん。子どもいたら特に。こっちは法令守って労務管理に気ぃ遣ってんのに、労基署にあれ見せろこれ見せろって首突っ込まれんのいやすぎる」
「週刊誌に潜入ルポ書かれた時、ひどかったもんね」
「そうそう。トラウマになっちゃう」
適当に話を合わせながら、胸騒ぎが止まらなかった。飯島の薄情な口ぶりにではなく、それが聖人のことを指している気がして。町田から相模原はすぐだし、状況も似ている。でも孤独死する中年男性なんかたくさんいるに違いない、と考えると侘しい気分になった。キヨちゃん、何の仕事してたんだろう。
(つづく)