リリーの世話を始めてから、日々が充実していると感じるようになった。物言わぬリリー、身長百五十三センチ体重三十五キロの、少女でも女でもあるようなないような顔立ちの、性具。真紀は毎朝髪を梳かし、ヘアアレンジもする。ずっと同じ姿勢のままだと劣化が早まるとサイトにあったので、出勤前には全身を伸ばしてソファに横たえる。指の関節もまっすぐに揃え、気をつけの姿勢を取らせると、頑張って死んだふりをしているみたいですごくかわいい。人間ほどスムーズじゃない関節の可動性も、リリーの不器用さの表れみたいでいじらしかった。
帰ってきたら座るポーズに変え、週末にはゆっくりとメイクやネイルを施す。タルカムパウダーを忘れずはたいて寝る時には忘れずまぶたを下ろさせる。聖人がしただろうことも、できるならしてあげたかっただろうことも、叶えたかった。「よろしくたのむ」ってそういうことでしょ? すごく意味がある。生活に張り合いが出た。子どもがいたらこんな感じなのかも、と思う。リリーが我が子という意味では絶対になく、アウトプットとして得られる実感が似ている気がした。ぬいぐるみでもアクスタでもシルバニアでも駄目で、ロボットのペットでも駄目で、聖人がリリーを必要とした気持ちはよくわかる。
真紀はリリーによく話しかけた。といっても挨拶や「きょうの髪形気に入った?」と尋ねる程度の、まあ自分では他愛のない声掛けに過ぎないと思っているのだけれど、裕人はいつも「やばいって」と顔をしかめた。
「ていうか、キモいと思わない? それ、使用済みなのに」
そんなわけないじゃん、と真紀は一蹴した。
「そんなことのために買ったんじゃないよ」
「そんなことのためでしかないだろ」
「違う」
「何でわかんの」
「裕人こそ、何でわかんないの? キヨちゃんがそんなことするはずないのに。考えてもみてよ、リリーはしゃべれないんだから、同意が得られないでしょ」
「いや同意って」
「同意が得られない相手に好き放題やるようなクズじゃなかったよ、キヨちゃんは」
まっすぐに裕人の目を見て言い切ると、裕人が先に逸らした。納得してくれたんならいいんだけど。会社帰りに駅ビルで買ったシルバーのバレッタは、見立てどおりリリーによく似合っていた。服を脱がせて着替えさせるのはリリーに申し訳なくてできないから、ほかの部分でうんとかわいくしてあげたい。
聖人はいつだってやさしくて誠実な人だった。コンクリートの上で干上がりそうなみみずや、目やにで目がふさがった野良猫さえ見過ごせなくて立ち止まってしまうような。いつも姿勢がよくて、分け隔てをせず、何でもよくできた。リリーに触れるたびよみがえる聖人の記憶は、自分の中から発掘されたというより、リリーを通じて流れ込んでくるようだった。リリーを介して出会う聖人は、真紀がひとりで思い出すよりずっと鮮やかで色濃かった。真紀はリリーに感謝した。
「きょう、なんの日だか知ってる?」
GWも終わり、夏日も珍しくないような陽気が続いていた。裕人は帰ってくるなり唐突に問いかけてきて、リリーにブルーのカラーマスカラを試していた真紀はさして深く考えずに「さあ」と返事をした。どちらの誕生日でもないので、それ以上の心当たりがなかった。
「四十九日」
「……ああ、もうそんなに経つんだ。法要とかしなくていい感じ?」
「しなくていいけど、なあ、もう、いい加減それ返品しようよ」
「それとか言わないで」
「おかしいよ真紀、ラブドールとおままごととか」
「裕人が連れてきたくせに」
「だってこんなことになると思わないだろ、親の目に触れないように仮置き場くらいのつもりで……真紀だって気味悪がってたじゃん」
「うん、でも気味悪くなくなったの。誰にも迷惑かけてないし」
「真紀」
「だってキヨちゃんの遺志だよ。知ってる? シリコンのドールの耐用年数って五年くらいなんだって。もちろんまめにケアしてあげればもっと延びるけど……この子、寿命が近いの。キヨちゃんもそれをわかってたんだと思う」
「死んだとか、言わなきゃよかった」
裕人はいまいましげに吐き捨てた。
「なに言ってんの」
「だってそうだろ? 黙ってても不都合なかったし。ただ、俺は、真紀がほっとするかなと思って」
「やめてよ」
わけのわからないことを言うから、手元が狂ってリリーのまぶたをマスカラが掠めた。
「あ、ごめん」
「誰に話しかけてんだよ」
深いため息が、真紀を責める。何で? わたし、何か悪いことした? したけど、あの時は、だって、裕人も。
「親があの人に連絡したんだって」
その「あの人」が聖人を指していないのは明白だった。聖人はもう死んだ。四十九日で完全にあの世に行く、だなんてばかばかしい。とっくにいないじゃない。
「……何で?」
「スマホに連絡先残ってたから。アドレス帳、仕事先の倉庫と実家とあの人だけだったって……全三件ってことある? 笑うよな」
言いながら、裕人はちっとも笑っていなかった。「それで?」と真紀は続きを促す。
「番号変わってなくて、死にましたっつったら、そうですか、みたいなあっさりした反応だったらしいけど。まあそんなもんか。もう忘れてたのかもしんないし」
「そうだね。わたしももう、名前とか覚えてない」
「俺は覚えてるよ」
「言わないで」
「顔も覚えてる……ちょっと、そいつに似てた」
裕人がリリーを指差し、真紀はマスカラの容器を投げつけた。あまりに軽いそれはすぐ床に落ち、しかし粘度の高い液体は溢れなかった。
「うそ」
「ほんとだよ」
「リリーはリリーだよ」
「いい加減にしろって!」
裕人が怒鳴るところを初めて見た。声を荒らげたのはそのひと言だけで、すぐ元に戻ったけれど。
「死ねばいいのにって思ってた」
リリーの青いまつげがふるえた気がした。
「ずっと……黙ったまま死んでくれたら、俺たちは楽になれて、真紀と先に進める気がしてた。ドールなんか適当に山に捨てたってよかったのにわざわざ持って帰ってきたのは、真紀があの人に完全にドン引きして幻滅したらいいって思ったから。普通、引くだろ。俺も引いたし。それを何でかわいがれるんだよ、意味わかんなすぎだよ」
「だって、キヨちゃんが」
あんなに最期の力を振り絞って、必死に。
「その呼び方、やめろって」
「裕人がしてるのをまねたんだよ」
裕人と出会ったのは、中三の時。塾の夏期講習で隣の席になったのがきっかけだった。講師よりうちの兄ちゃんのほうが教えるのうまいよ、と言われて初めて家に行った。とっくに声変わりも済んでいたのに、七つ上の兄を「キヨちゃん」と慕う裕人を、かわいいと思った。真紀も「キヨちゃん」と呼ぶと、聖人は最初照れくさそうに笑っていた。そういう年月のすべてを振り落とそうとするように裕人は頭を打ち振って家を出て行った。
二日経っても、裕人は帰ってこなかった。三日目の朝、『ずっと連絡せずにごめん』とLINEがきた。連絡しなかったのは真紀もなのに、裕人のこういうところがいいと思う。
『きょうは遅くなるかもしれないけどちゃんと帰るから、話し合おう』
何を話し合うのかわからなかった。先に進むことについてだろうか。裕人、わたしと結婚したいのかな。知らなかった。逆に別れるとか? どちらにしても、真紀にとっては解約しそびれ続けているサブスクのような関係という認識だったので、裕人が何らかの変化を望んでいたこと自体に驚いた。
そして、本当に話をしなければいけなかった相手とは、もう口もきけない。
リモート勤務の日だった。朝と昼を食べた後、片づけていないキッチンとテーブルがいやになり、それでも面倒だったのでソファでパソコンを叩いているとオンライン会議十五分前のリマインダーが鳴り、慌てて最低ラインのやや下くらいの化粧をすませミーティングに参加する。
「お疲れさまです」
真紀の姿が表示されると、十人ほどの参加者はモニター上に分割された小窓の中で一様に引きつった笑みを浮かべた。よくないビンゴが揃ったみたいだった。
『千石さん、ちょっと映り込みが……』
うつむいた飯島の言葉で、隣のリリーがフレームインしているのに気づいた。背景にはちゃんとぼかしがかかっているのに、カメラがリリーを人間と認識してご親切にも切り抜いてくれたらしい。
「すみません」
すぐさまリリーを強く押して倒し、画面の外に追いやった。ごめん、と心の中で謝る。
『えーと、じゃあ始めましょうか。けさ共有した資料を見ていただいて……』
上司も同僚もちゃんとした大人ばかりだったので、リリーについて何も訊かれなかった。そのほうがいっそう、自分の異常性を突きつけられたようでいたたまれなかった。ほら見ろ、と想像の中の裕人が言う。
『大丈夫?』
飯島から個人チャットが飛んできた。漠然とした問いに、真紀も漠然と「たぶん」と打ち返す。
『夜、ちょっと飲む? 千石さんちの近くまで行くし』
すこし迷って「行く」と答えた。
(つづく)