これは2022年 10月20日に発売された『変な絵』の前日譚です。

 

2022年3月12日 朝

「優太くーん! 早くしないと遅れちゃうよー!」

 ドアの外から米沢美羽の声が響く。熊井優太は慣れない手つきでネクタイと格闘している。

お父さん、ダメだよ。やっぱり細いほうが長くなりすぎちゃう」

「あれだ、だから巻く前に細いほうを思い切って短くしとくんだ。それで……えーとだな、ちょっと貸してみろ」

 熊井勇は優太の後ろに立つ。そういう熊井も、実はネクタイの結び方をよく知らない。スーツとは無縁の人生だったからだ。誰かの結婚式だか葬式だかの日を必死に思い出しながら、優太のまだ細い首にネクタイを巻き付ける。

 養父となってから6年半。年老いた男が、たった一人で子供を育てるのは大変な苦労だった。しかし、何とか今日まで……小学校を卒業するこの日まで、無事に二人で生きてこられた。

「よし!これで大丈夫だ……たぶんな」

「ありがとう! じゃあ、行ってくるね」

「おお! 俺も後で行くからな! 式のときは猫背に気をつけろよ! 背筋ピン……だ!」

 優太はドアノブに手をかけながら振り向いて、笑顔で「はーい!」と返事した。こうして見ると、本当に成長したものだ。外には、灰色のブレザーの上にジャケットを羽織った少女が待っていた。美羽も、この6年半で見違えるほど大きくなった。

 おせっかいな女友達は、片方の手で優太の手を引きながら、もう片方の手をこちらに向けて大きく振った。

「優太くんのお父さん! おはよう! 行ってきまーす!」

「行ってらっしゃい! 美羽ちゃんも卒業おめでとう!」遠のいていく二人の足音を聞きながら、熊井は思った。

(たった一人で育てた……? 俺もずいぶんバカなことを考えたもんだ。一人じゃない。いろんな人の協力があって俺たちの生活が成り立ってきたんだ。あのオシャマな女の子や、米沢のオヤジさん、それから……)

 熊井は、一人の青年の姿を思い浮かべた。

 

・・・

 

 卒業式が終わり、まだ日の高い午後。優太は熊井と並んで歩く。

 

「それにしても、俺の頃は卒業といえば『仰げば尊し』だったけど、今はあれだな。ずいぶんポップなんだな」

「ヒゲダン?」

「ああ、名前は聞いたことがある。そうか、そのロックバンドの歌なのか。今度レコード屋で買ってみるか」

「ロックバンドっていうか……うん」

 しばらく歩くと、公園が見えてくる。優太は今でもあの日のことを……あの公園の遊具の中で過ごした長い長い時間を思い出すことができる。そして、今はもうそばにいない『ママ』のことも。

 二人は横断歩道を渡り、公園の向かい側にある、さくら霊園の門をくぐった。ここに来るのは昨年末以来だ。

『今野由紀 之墓』と彫られた墓前で、優太は筒の中から卒業証書を取り出し、供台にそっと置いた。ここには優太の『お母さん』由紀が眠っている。

 墓参りを済ませ、霊園を出ようとすると、事務所の中から白髪の老年男性が小走りにやってきた。30 年以上、この霊園の管理をしている小林だ。かつて優太が冒険をした日、彼に保護され、事務所の中で麦茶とせんべいを御馳走ごちそうになったことは、今でも忘れられない。

「熊井さんと優太くん!」

「ああ、どうも! お世話様です。いらっしゃらないかと思って」熊井が頭を下げる。それにならって優太もペコリとする。

「ちょっと奥で昼飯食ってましてね。いやあ、会えてよかった」小林は、優太と熊井の服装を見て、ニコッと笑った。

「今日は卒業式ですね。どうも、おめでとう」

「ありがとうございます!」

 優太の声が静かな霊園に響く。人から何かをしてもらったり、嬉しい言葉をもらったら大きな声でお礼を言う……昔から、熊井に厳しく教えられてきたことだった。

「おお、元気な声だ。立派なお兄さんになったねえ。実は、今日は優太くんに渡したいものがありまして。ある人から預かってるお手紙なんですけどね」

 小林は片手に持った封筒を、優太に丁寧に手渡した。そこには、こう書かれていた。

 

『大きくなった君へ』

 

「実はですね、もう 10年くらい前になるかな……いや、こういうのははっきりしたほうがいいですね。えーと、たしかロンドンオリンピックの年だから……2012年、そうだ。2012年だ。てことはやっぱり10年前になるのか。今野武司さんからこの封筒を預かりまして、2022年に優太くんに渡してほしいと懇願されましてね」

 

 優太も熊井も息をのんだ。

 今野武司……優太の父親の名前だ。

 

・・・

 

 2012年11月、さくら霊園の事務所に、一人の若い男がやってきた。

 小林の目には、彼の精神がただならぬ状態にあるように映った。

「えーと、あなたはたしか……今野由紀さんの旦那さんの……」

「今野武司です」

 彼がたびたび、小さな男の子を連れて墓参りに来ているのを、小林は見たことがあった。健康そうな若者だったが、今日の彼は生気を失ったように青ざめていた。

「僕には息子が一人います。優太という名前です。2022年……優太は小学校を卒業します。そしたら……これを渡していただけないでしょうか」

 彼が差し出した封筒には『大きくなった君へ』と書かれていた。

「本当に、わがままで迷惑なお願いであることはわかっています……でも……僕にはもう、これくらいしかできることがなくて」

「えーと、今野武司さん……でしたね? その……少し冷静でいらっしゃらない気がしますので、奥の部屋でお休みになります? 顔色もあまりよくないようだし」

 

 

「すみません……」

 小さな謝罪と封筒を残して、今野武司は走り去ってしまった。小林は何となく不安 を覚えたが、すぐあとに法要が控えていたため、ひとまず棚に上げておくことにした。

 夕方、法要を終えた小林は、やはり先ほどのことが気にかかり、名簿を調べて武司の携帯に電話をかけた。しかし、つながることはなかった。

 それもそのはずだ。そのときすでに、武司はこの世にいなかったのだから。

 

「続・変な絵」は全2回で連日公開予定