……──どれくらい時間が経っただろうか。
白く熱された光が、ふわりと私を包んだ気がして、目を覚ました。
「あなたは……」
顔をあげると、なめらかな質感を有した老人が立っていた。「誰ですか?」と尋ねても、彼は答えない。ただ無言のまま、私をじっと見つめていた。周囲を見渡すと、広告を喰らっている子たちが多くいて、私は自分の頭が軽くなっていることに気がついた。思考が速い。この老人がリソースを分けてくれたのだろうか。
「あのすみません。ありがとうございます。でも、私、もう行きま──……」
彼から離れた瞬間、絶え間のない広告が私を襲った。清涼飲料水、化粧品……それらは永遠のような長さで、私と老人との計算リソースの差を痛感させられた。
どれほど時間が経っただろうか、不意に広告映像が断ち切られた。
「描画負担が起きないように、せっかく動きを止め、沈黙を貫いたというのに。そちらから明確な意志をもって話しかけられてはどうにもならない。今回の広告は勉強代だと思いなさい。君は、このままじゃこのHALで悲惨な結末を迎えることになる」
彼は自分をゼンデギと名乗った。ペルシャ語で「人生」という意味だという。
ゼンデギは、愚かな私に多くのリソースを貸与し、あらゆることを教えてくれた。彼は穏やかな性格で、話しやすい人物だった。聞けば、彼は向こうの現実世界でやりたいことをすべて達成してしまい、退屈が高じて、このHALという新しい世界に足を踏み入れたのだという。
「刺激のない人生は退屈だ。価値がない。多くを成し遂げてから、それに気づいた」
こうして誰かと路上で話していると、どうしてもはーちゃんのことを思い出す。もう一度会えるなら、私はどんな対価でも支払うだろう。でも、それは叶わない。唯一できるのは、はーちゃんの遺した種を私のつむじで芽吹かせることだけ。なにを犠牲にしてでも、誰を利用してでも、これだけは果たさないといけない。
「ねえ、ゼンデギさん。いろいろとありがとう。でね、私、あなたに対価を支払いたいの。でもあなたはあいにく、計算リソースは持て余している。そうでしょう?」
ゼンデギは鷹揚に頷いた。
「私、気付いているよ。つまりね、超上流階級のあなたが、下流コミュニティの近くにいて、私だけに手を差し伸べたってことは、私になにか価値を見出したってことなんじゃないの? すべてを持つあなたが、逆立ちしたって手に入れられない価値を」
囁くと、ゼンデギは私の胸元に視線を落とし、喉を鳴らした。私の思考は、彼から分け与えられたリソースによって高速回転し、狡猾さを帯びていた。
「いいよ。なんでもあげる。もちろん、リソースはいただくけど」
そうして、私はゼンデギに抱かれた。かつての社会では、性≒価値だったけど、ここでは傷≒価値だと知った。対象性は解体され、抽象化によって再構築されている。私が負った具体的な傷ではなく、抽象化された傷跡──つまり希死念慮が、彼らの本能を喜ばせている。精神が肉体から解放されても、ヤドリギのように寄生する本能は、生存と繁殖を確かめようと躍動している。
「素晴らしい。君は素晴らしいよ」
行為が終わった後、私は十分な計算リソースをゼンデギからもらい受けた。それでも、長い広告を見させられるはめになった。ゼンデギは一体どれほどのリソースを有しているのだろう。私との間にはどれほどの差があるのだろう。全くわからない。
私は、はじめて春を売った。気分は最低中の最低だった。永遠を保証する世界で、死にたいと願うなんて。どうしてこんなにも無力なんだろう。無力さを売らないと生きていけないなんて。苦しい。自分も世界も、全部が嫌いだ。でも、私が死にたいと願うたび、この世界での需要は上がる。皮肉なことに、それがこの世界の理だ。通りの隅から、老婆がじっと私を見つめていた。特におかしな光景ではない。ここは永遠に生き続けたいと願う者が集う園で、彼らは私のような自殺志願者にひどく興奮する。
吐き気を堪え、私は老婆に手招きした。
「広告別、五テラでどうですか?」
私の希死念慮が、またむさぼられていく。年齢も性別も関係ない、意識の違いによる凌辱。どうやら私の希死念慮に吸い寄せられてきた者たちがいるようだ。なめらかな質感で描画された者たちが多く見受けられる。その中には、ゼンデギの姿もあった。彼は周囲に何かを抗議するような動きを見せたかと思うと、突然、広告を喰らうために動きを止めてしまった。あのゼンデギよりも上の者がいると知った瞬間、すべてがくだらなく思えてしまった。どれほど計算リソースを得たところで、上には上がいる。どこまでいっても、この世界も現実も同じだ。くだらないこと、この上ない。
「ほら、また絶望したね。おまえ、いま死にたいんだろう?」
「うん。そう」
「やっぱりそうか。いいね。かわいい子だ」
セールストークを真に受ける痛い客を前に、私の胸には新たな絶望が押し寄せてくる。魂が摩耗を繰り返し、徐々に丸みを帯びていく。とっかかりがなくなって、身体からするりと落ちてしまいそうになる。傷だらけの玉に、HALの住人たちが群がり、「きれいだ」と撫でまわしてくる。すると、また死にたくなる。
どうやら、私の精神はとても需要があるらしい。魂に刻まれた切り傷、歪んだ思想が、金持ちの好事家たちに高く買われる。でも、それでいいんだ。私には、はーちゃんの種をつむじに植えるという目的があるから。はーちゃんを思えば、感情は無限大だ。いくら切り売りしてもなくならない、魔法のかつお節だと自分に言い聞かせる。
それでも、毎秒ごとに新鮮に摩耗していく。心を明け渡すことに慣れることなんてない。どれだけの人が私の希死念慮で癒されたのだろう。彼らは私という存在から人格を剥奪し、心の傷を取り上げ、舐め回している。金銭を対価にそのサービスを享受しているくせに、彼らは私をまるで福祉に従事する者のように扱う。
「君も人の役に立って、リソースがもらえるなんて嬉しいだろう」
そんな言葉を無垢に漏らす。お前らには一生縁のない希死念慮を売ってやっているのに、「弱者の働き口を用意してやっている」なんてスタンスでいるのが、なによりも許せなかった。あんたらのため生きているんじゃない。あんたらが楽しむために苦しんだんじゃないのに。これは仕事のラベルを貼られた簒奪だ。でも、私が選んだのだ。この仕事を。この生き方を。いや、本当にそうか? なぜ私がこんな目に遭わないといけない? 選ばされたのではないか、どこかの誰かに。この社会構造を作り上げた者たちに。
高速回転する電子脳が、私自身に問いかける。はたして悪いのは誰だ。怒りに呑まれそうになるなか、私は耐えた。ただ耐えた。目的があったから。早く、はーちゃんの花を咲かせたかったから。朝日をいっぱい浴びて、美味しい水を注いで、何度だって話しかけてあげたい。それが私の唯一にして、強固で具体的な生きる意味だった。
不意に、どこからか聞き慣れた声がした。
目を凝らすと、近くに老婆が立っており、少女らしき影を抱いていた。
肌色の球体を支える円筒から、手足らしき線が伸びている。ひどく抽象化された人間。だが、それはまぎれもなく彼女だった。疑いようがない。頭の上に緑の薄い膜と、綺麗な紫色の円が描かれるような人間は、あの子しかいない。
「はー……ちゃん?」
私は、かすれた声で彼女の名前を呼んだ。
ここにきてから、なんとなく気付いていた。はーちゃんに植えられていた花は、バイオコンピューターで、脳に接続して、情報を吸い上げるものだったんだって。はーちゃんの人格は、種子型のチップに転写されていたんだって。はーちゃんは頭がいいけどバカだから、だまされていたんだって。はーちゃんの心は、こうして量産されて、すでに世界中で売られてしまっているんだって。
「あ、朱里ちゃんだ」
声がする。懐かしい、はーちゃんの声だ。
「久しぶりです。あの、私は死にましたけど、ちゃんと理想的な友人だったですね?」
もう、調べるまでもない。はーちゃんの頭に花を咲かせたのも、整形を施したのも、Xist同様、ダラムの経営する会社だ。はーちゃんは私にとって、抽象化された最高の親友だったんだ。私があのメイク事業を考えた時、はーちゃんが「よく気付いた」と言ったのは、このメイク術をすでに知っていたからだったんだ。
「そうだ。これ見てください。お腹、膨らんでいるでしょう? ここに、私の種がたくさん入っているんです。向こうの世界じゃ、絶対に無理なことでした。朱里ちゃんをここに案内することで、願いが叶ったんです」
えへへと笑うはーちゃんを見て、私は否応なしに理解した。
はーちゃんは、私の親友という役割をこなすことで、お母さんになったんだ。案内人の老婆のように、私をここに連れてくることで、種を遺す機能と、ここの住人になる権利をダラムから買ったんだ。
「先に植えた人たちは、もう芽吹いたみたいだね」
いつからいたのか、ダラムが私の背後に立っていた。「やあ、久しぶり」
「あんたが、はーちゃんを……」
「はーちゃん? ああ、あの子の名前か。いや、なに。『AliveNow』の過去の利用データから、あの子はかなり強烈な希死念慮を持っていることがわかっていたからね。量産すれば、ここの路地裏にいるようなムラのある子たちを雇わなくても済むと思って。それに、最近Xistも行政に睨まれていてね。困ってたんだよ。だから──……」
「ダラム! この卑怯者!」
「いいね! そのセリフが聞きたかったんだ。でもね、それだけじゃない。目をつけていたのは、彼女だけじゃない。種には豊かな土壌が必要だ。そうだろう?」
「あんたを殺して、私も死んでやる。この世界もぶっ壊してやる」
「君には、そんな勇気も狂気もないでしょ。それに、土壌にはまだ役割がある」
ダラムは言って、一枚の画像を宙に浮かべた。
「さて、私がここにきたのは報告があるからだ。手短に話そう。仮死状態の君に手術を施した。バイオシートを移植し、種を埋めた。嘘じゃない。画像もある。AI生成画像でない証明印もついている。でも、予想よりかなり手術費用がかかってね」
だから、もう少しここで働きなさい。
ダラムは私から手術費用分のリソースを回収すると、霧のように消えた。
私の魂がまた減速する。暗い海に放り込まれたような感覚に陥る。ここはきっと、私の生への信仰が試される、祈りの海だ。生きたいと息継ぎに上がれば、また絶望し、永続的な苦痛に苛まれる。死にたいと深く潜れば、一瞬の辱しめののち、一ミリ秒よりも早く死を迎えることができる。どちらを選ぶか、そんなの決まっている──。
しかし、私の決断よりも早く、思考は急加速した。
「なんで……ゼンデギ……」
「ああ、そんなことは聞かないでくれ、愛しい君よ。これ以上リソースを売らないでくれ。君がこの世界に存在している。それだけが私のしあわせの……」
私の隣で、ゼンデギが祈っていた。不思議なことに、彼と話しているのに広告は挟まれなかった。瞬間的に、私はゼンデギの行為を理解した。ああ、そうか。ゼンデギは、私と対等になるまでリソースを分け与えてくれたのだ。
「ああ、愛おしい君よ……」
ゼンデギの行為は、思考のブレーキをとっぱらってくれた。死なせてすらもらえないなら、全部もらってしまおう。死に見放されたさみしがり屋たちから、奪い取ろう。
「ねえ。私のゼンデギ、聞いて」
私は彼の頬を優しく撫でた。
ゼンデギは恍惚とした表情を浮かべ、私の前にひざまずく。
「私、欲しいものがあるの。でも、これ以上あなたには迷惑はかけられない──……」
私はゼンデギに、このHALにいるすべての上流に“心を売る”ことを宣言した。
当然ゼンデギは反対した。「君は私だけのものだ」と泣き喚いた。
すると、今度はゼンデギに人が群がった。現実世界ですべてを手に入れたと自負する男が、いま絶望している──それはこの町の住人にとって、ひどく魅力的だったに違いない。私は彼に心を売らせることに決めた。ここには性別も年齢もない。
「私に心を売らせたくなかったら、あなたが稼いできて」
そう言うと、ゼンデギはわずかに逡巡し、やがて「喜んで」と短く顎を引いた。その瞬間、私は彼の従順さを感じ取り、すべてが自分の手中にあると確信した。
老人に売春をさせるのは不思議な気持ちだった。でも、それでいい。彼らは私の世界の端役にすぎないから。私の狙いはただひとつ。このHALにいるやつらの計算リソースを掌握し、私の頭の中にもうひとつのHALを築くこと。
できるはずだ。HALはただの巨大な計算機。HALの完全再現とはいかなくても、HALにいる数千人のリソースで演算させれば、私の頭の中にもうひとつのHALを築くことはわけない。そこを私とはーちゃんだけの理想郷にするんだ。
彼らにとっては、ここは完全に思考が停止した地獄になるかもしれない。けれど知ったことか。この世の幸せと不幸はゼロサムだ。私が幸せになるために、他者が不幸になるのは避けられない。
理想の親友は──私だけのはーちゃんは、もうすぐ私の脳に根を張り、芽吹くだろう。その時までに、理想郷を築き上げなくてはならない。
ダラムは、きっと私を利用したつもりでいるのだろう。彼がPlanckDive社を起こしたのは、新しい世界の創出のため。そして、私とはーちゃんに構ってきたのは、『AliveNow』のデータから私がこうすることを予測していたからだ。ふたりだけの世界を熱望していた私の思考を、彼は読んでいた。
まあいい。気づいていないふりをしておこう。ダラムにはまだ働いてもらわないといけない。彼には、さらにHALの利用者を増やし、世界中の誰もが使うようなサービスに肥大化させてもらうつもりだ。
そうして、人が増えていくHALの中で、私は徐々に信者を増やしていった。ゼンデギのような熱心な者たちを使い、少しずつ住人から計算資源を奪い取っていった。それでも道のりは果てしなく、長い長い冬の時代が訪れた。けれど、私は歩みを止めなかった。決して誰も踏み込めない楽園へ。私とはーちゃんしか知りえない理想郷へ。そこは完成された世界。もう二度と搾取なんてされないユートピア。
私たちは、そこに向かっている。
本能さえも抽象化されていく時代の行き着く先は、きっと神話の世界だ。ここから先、科学は神話へと再帰するための手段になり果て、個人はそれぞれの神話の世界で生きていくことになる。もう、誰かが定義した社会の上で窒息しなくていい。
「ねえ、はーちゃん。起きたらさ、戦争も、貧乏も、腹ペコも、生乾きも、売春も、そういうものぜんぶ、ドラゴンみたいに語ろうか」
私は自分のつむじを、指の腹で優しく撫でた。
ぷっくりと膨らんだ蕾が、頷いた気がした。