●
2050年、春。私の人生には厳しい冬が訪れていた。
頭皮を花壇に変えるバイオシートは、途方もないほど高価で、はーちゃんの種を私のつむじに植えるには、今の私では何年かかっても無理だということがわかった。仕事を探しても、見つからない。「これなら」と思う仕事があっても、スマートグラス使用者限定で、端末所有格差や、経済的な障壁に阻まれた。
覚悟を決めてデートアプリを入れてみたものの、身体を売る勇気はどうしても出ない。そんな中、運よく金持ちに出会い、その人からお金を貸してもらって、ようやくスマートグラスを手に入れることができた。
でも、本当はスマートグラスなんかつけたくない。かっこいいと思っていた英語のトートバッグが、スマートグラスをつけた友達に嘲笑されたあの日から、こんなもの世界から消えればいいと思っていた。スマートグラスの自動補正は、今までぼんやりと見えていたものの輪郭を強調する。本能が抽象化されていくこの世界で、科学の発展は多くのモノをするどく具体化させていく。つまるところ、スマートグラスは知識の強制装置で、曖昧な世界を許さない。汚い町の片隅で、地べたに座りながら、安いたこ焼きを分け合って、「タコとイカってなにが違うんだろうね」って何時間も話すのが楽しい私みたいな存在を許さない。
でも、そうやって背伸びして社会に溶け込もうとしても、私みたいな経歴のやつには、仕事はやっぱり残ってない。はーちゃんを助けようとして、機械を蹴飛ばした名誉の負傷は、世間的にはただの前科でしかないらしい。残ったのは借金だけだ。
ぼーっと空を見上げる。視界の端に変な影が映る。街路樹だ。でもなんだろう、あの木。なんか変。そう思った時には、もう骨伝導で伝えられている。『あれはヤドリギです』スマートグラスが、私の目の動きを感知してツルを振るわせる。
『古くからヨーロッパでは宗教的に神聖な木とされ幸運を呼ぶ木とされてきました。冬の間でも落葉樹に半寄生した常緑樹は、強い生命力の象徴とみなされ、西洋・東洋を問わず、神が宿る木として知られています──……』
これが? と、嘲笑いたくなる。だって、宿主である桜の木はヤドリギに栄養を奪われ、やつれきっている。でも、あれが今の私たちの姿なのかも。私たちも生殖と繁栄という本能に寄生された肉塊だ。私たちの肉体は、本能が生き延びるための船に過ぎない。私たちは人工肉という抽象化された家畜を食べながら、平面に映し出される抽象化された快楽をむさぼっている。だけど、それは私たちの本能が求めるもの? 私たちに寄生した本能はどこに向かっているの? このまま抽象化された代替品で良いというのなら、いずれ人類はやせ衰える。性行為を捨てた男の爪が伸び、出生率が下がり続けるこの状況は、私たちに寄生する本能も損しているだけなんじゃないの?
文明の進化は、私たちの本能さえも駆逐していってしまうの?
私はそれでいい。けれど、生物としてはどうなの? 文明の発展の先には、種の滅びしか待っていないって、じゃあ今までなんのために発展してきたの? わからない。
スマートグラスの解説は、いつの間にか終わっていた。今度は、私の心音がやかましく響く。生存本能が脈打ち、行き着く先が虚無だと知らず、私の身体に「生きろ、生きろ」と血を流し続ける。生きたところで、何になるんだ。子を成すつもりもないし、独りを楽しむ余裕もない。生きたって、何になるんだ。あんたら本能が望むものは、この肉体にも、この社会にも、もうほとんど残っていないのに。
とはいえ、能動的に死ぬ勇気もない私は、ある決意をした。
それは、お金を貸してくれた人物からの呼び出しに応じることだった。
千駄ヶ谷にあるこぢんまりとしたバーのカウンター席に、彼はいた。半袖にジーンズ姿で、鷹揚に足を組みながら、手元の板状デバイスに目を通している。デキャンタに入ったワインはほとんど飲み干されていて、時間通りに来たはずなのに、少し遅れたような申し訳なさを感じさせられる。嫌な気分だったが、それを態度に出すことはできない。なにせ彼は、身元保証もない私に、お金を貸してくれた人物なのだから。
「やあ、君が朱里さんか。写真と印象が違うのは、そのスマートグラスのせいかな?」
「あ、すみません。外します」
テーブルに置くと、『スキャン途中に身体から離れたため、スピーカーへ移行します──はじめて出会う人物です。登録しますか?』と、機械的な音声が垂れ流される。
「ちょ、なんで勝手に……」
「I don't mind. But, if you don't wear the glasses」
彼の指がグラスを指していると気づき、急いで掛け直した。
「we never 会話ができないだろう? 嫌味な言い方になってわるかったね。ただ顔が青白く見えたから、ちゃんと食べているか気になっただけなんだ」
彼は笑みを浮かべると、メニューを差し出してきた。「好きなのを頼むといい」
「ありがとうございます。えっと……」
「ダラムだ。突然だけど、スキャンの自動機能はOFFにしておいた方がいい。これは私見だが、昨今のデバイスの多くは機能過多で美しくない。特にデフォルトの設定でそれがONになっているのは、機能を見せつけたい開発者の傲慢だよ」
言いながら、彼は隣に座るよう促してくる。あまり怖い人ではないのかもしれない。
ダラムとはアプリで知り合った。チャットで何度かやりとりはしていたけれど、実際に会うのはこれが初めてだ。正直、気が進まなかったが、ダラムにはスマートグラスの購入費以外にも大きな借りがある。器物損壊で科せられた三十万円の罰金。どういうわけだか、彼はそれを進んで肩代わりしてくれた。理由を聞いても、「気が向いたら、一晩ぼくに付き合ってくれればいい」と語るのみで、かえって不気味だった。
「……それで、私に、何の用ですか?」
私は彼の忠告通りに、グラスの設定をいじりながら、届いたBLTサンドを口に運んだ。久しぶりに食べた天然物のトマトは、味が薄くてどこか物足りなかった。
店内の視界が悪いのは、奥のソファ席でマダムたちが煙を吹かしているからで、私の視界がまどろんでいるのは、私も同じ物を吸っているから。壁にかけている高そうな絵の価値がわからないのは、私に教養がないから。質のいいガンジャでも酔えないのは、隣にいるのがあの子じゃないから。
「ぼくは、実業家みたいなものでね。ここ数年は、ハルを売っているんだ」
思わず、むせ返った。しかし、私の考えがまったくの見当違いであるということは、すぐにわかった。ダラムの言う“ハル”とは、彼の会社が提供しているサービスのことで、私の思うものとは似ても似つかぬものだったからだ。
「HAL──正式名称はHuman-Awareness-Linkageというんだけど、簡単にまとめると、つまりは人の電脳化を行うサービスだ」
人の電脳化。それは「不老不死の実現」という枕詞とともに、度々聞くワードだった。しかし、日本では法整備が遅々として進まず、結局どこのニュースも取り上げるのをやめてしまっていた。だから、私も詳しくは知らない。
でも、そうか。ダラムは外国の人だから、人の電脳化を商売にできるのだ。
「もちろん覚えなくていい。君はこの製品のセールスマンじゃないからね。ただ、この製品のプロモーションを手伝ってほしいんだ」
「私が、ですか……?」
「日本も凋落したとはいえ、不老不死に金を出したがる潜在顧客はまだまだ多い。日本国内で開発はできなくても、サービスの利用は罪じゃないからね」
「はあ……プロモーション……」
「あれ、あんま興味ないかな? 人の電脳化とか、不老不死って、ぼくらの世代だと結構ホットなテーマだったんだけど……そうか」
「ダラムさんは、不老不死に興味があって、いまの会社を興したんですか?」
「というより、その過程かな。電脳化っていうのはブラックホールに飛び込むようなものなんだ。消えてなくなるかもしれない。次の瞬間には無に帰しているかもしれない。無事電脳化が成功したと思っても、それが連続した精神かどうかの判断は他者からは難しい。本人しか結果を知ることのできない実験。決して他者による検証のできない、探求者の自己満足にすぎない実験。ぼくはそれがやりたくて今の会社を興した」
差し出された名刺には、「PlanckDive.Ltd」と記されていた。
「ともかく、私はね、新しい世界が創造される瞬間が見たいんだ」
「はあ……?」
「実は君に声をかけたのも、その一環でね。君なら新たな世界が拓けると見込んでのことなんだ。私の望みは、ただ一点。新世界の創造を見届ける、これだけなんだ」
「……なんか、漠然としてますね」
「言葉で説明するのは難しい。で、どうだい。HALのなかでバイトしてみないかい」
「……いや、というか、利用者ってもういるんですか?」
「もちろんさ。僕は以前、シナプスコネクトっていう医療機器メーカーで働いていてね。方向性の違いで辞めたんだけど──まあ、言っても大企業だ。知り合いも多い。そのツテで不老不死に興味のあるお金持ちをたくさん紹介してもらったんだ」
シナプスコネクトなら、私でも知っている。有名な先進医療機器メーカーだ。
「ただね、不老不死を望む金持ちっていうのは、たいがい老人だ。だから君みたいな等身大の若者が入ってくると嬉しいってわけさ。それに、利用者データも改善できる。今、HALの利用者データは老人ばかりで、マーケティング的に不利だからね」
つまり、永遠の命を売る手伝いをすれば、今の状況から解放されるってわけだ。
「私は、HALのなかにいればいいだけですか?」
「基本はそう。ただ、たまに老人たちの話し相手になってやってほしい。どうだい。報酬は弾むよ。人生の切り売りをしてもらうわけだからね」
私はそこで、「ああ、そうか」と気が付いた。本能がこのまま駆逐されるわけない。違う方法で、繁殖を続けるだけ。電脳化によって、人類の繁殖場所が肉体的な空間から精神的な空間に移っただけ。結局人類は生殖と繁栄──本能から逃れられないのだ。
「……違法じゃないんですよね?」
「それを訊くってことは、興味があるってことでいいのかな」
「……はい。まあ、少しは」
ああ、私、いまハルってる。それっぽい返答で乗り切ろうとしている。
「なら契約成立だ。まあ、安心してよ。君のほかにもすでに何人も参加しているから──ただ、君は社長自らスカウトした特別枠ってだけ」
「みんなに言ってるんでしょ、それ」
「本音なんだけどね。君は他の端役とは違う。その証拠に、君にはHALで暮らすに困らない程度の計算リソースを渡すと約束しよう。まあ、通貨みたいなものだ。──あとそうだ! これも渡しておこう」
ひとりで盛り上がる彼は、鞄から数冊の本を取り出した。
「私のコレクションの一部だ。HALへの移住に際し、読んでおくように」
それは海外の、それも同じ作家の本だった。
「私の故郷の作家なんだ。それに、実は私は彼に憧れていてね、幼い頃は、SF作家を目指していた。でも、知っての通り、今は作家自体がほとんどいない」
「まあ……たしかにそうですけど、それが?」
「思うに。SF作家が描いたディストピアというのはね、提案じゃなくて警告で、予知じゃなくて警報なんだ。それを避けるために、僕みたいな実業家はSFを読んで先見性を磨く。だから君にも、HALがどのような警告から生まれたサービスか、事前に知っておいてほしいんだ」
ダラムは初めて心から楽しそうな笑みを浮かべた。私は、SF作家の書く未来がまるで現実であるかのような彼の口ぶりに、どこか腹立たしさを覚えた。まるで、私たちの未来は彼らの掌の中にあると言われているかのようで、嘘が巧くて権威があれば、ただの妄想も予言になるのかよ、と。
しかし、まあ、もらえるものはもらっておくことにした。紙の本なんてあまり見かけないし、案外高く売れるかもしれない。その程度の利用価値はあるだろう。
「あの、これ」
本の間に短冊状の紙が挟まっていた。
「それは栞──って、そうか。君の世代だと紙の本はあまり読まないか」
「はい。元の……紙の栞って、こんなんなんですね」
言って、栞をひっくり返す。「なんか、文字書いてありますけど」
「栞には金言が刻まれていることもあるのさ──ああ、偶然、君の故郷の作家の言葉が書いてあるじゃないか。このまま読むときに使うといい」
私は突き返された栞に視線を落とした。
この小説から希望を読みとるか、絶望を読みとるかは、むろん読者の自由である。しかしいずれにしても、未来の残酷さとの対決はさけられまい。この試練をさけては、たとえ未来に希望をもつ思想に立つにしても、その希望は単なる願望の域を出るものではないのだ。
──安部公房『第四間氷期』(あとがきより)
(引用文献)『第四間氷期』安部公房 新潮文庫