次の日、はーちゃんの手を引いて、ハローワークを訪れた。
「ここ、以前の職業の欄、朱里ちゃんなににしました?」
「ねー。どれにも当てはまらない人は何を選んだらいいんだろ……でもまあ、無難に学生じゃない? 私ら、中学は出てるんだし」
学生、会社員、個人事業主。誰にでも当てはまる選択肢を選ぶのにも、私たちは苦労する。困っても「その他」は選ばないし、選べない。「できるだけ具体的に記入してください」という文言は、曖昧に生きてきた私たちへの脅迫のようだ。具体的に書ける経験があったら、こんな生活はしていない。
結局、綱渡りのような入力を終えても、求人ポータルへの登録すらできなかった。登録時に受ける簡単なテストや面接で──AIに求人を占領させる愉快犯がいるから──はーちゃんはAIに「人間じゃない」と判定されてしまった。
つまり、逆チューリングテストに引っかかってしまったのだ。
「ごめんねえ、朱里ちゃん。私、バカですから」
はーちゃんがへらっと笑う。こういうテストは、どのポータルサイトでもほぼ共通の仕様だから、どこを受けても受かるはずがないことは明らかだった。誰かを頼ろうにも、ハローワークはほぼ無人化されていて、有人窓口は数日待ち。仮に行ったとしても、ポータルにすら登録できない人を雇う企業があるとは思えない。
「大丈夫だよ、はーちゃん」
私は俯く親友の手を強く握った。この子を見捨てることなんてできない。
はーちゃんは私にとって、本当に理想的な友人だ。見た目も、性格も、神様にオーダーメイドしたって、こんなにぴったりの子は与えてくれないだろう。
何を差し出すことになろうと、私は彼女を守りたい。
ハローワークを出た私は、はーちゃんの背中をそっと撫でながら、眼前に広がる街を眺めていた。どこかに仕事はないか。眉間に皺ができるくらい街を凝視していると、私たちと同い年くらいの男の子が、怖い人たちに連れていかれる光景が目に入った。
あの子、なんかやっちゃったんだなと思った瞬間、「ああ、そっか」と私は天啓を得た。
「差し出すんじゃなくてさ、こっちがもらえばいいんだ」
「もらう? なにをですか?」
「この街にある、幸せの対価。社会ってさ、結局需要と供給でできてるでしょ? 私たちが職を求めたように、私にはーちゃんが必要だったように、そういう風にできているから、私の助けが必要そうな事柄は、きっと仕事になるはずだよ」
私が目をつけたのは、この町にいる若者たち──そのなかでも特に、『Xist』と呼ばれる仮想空間にのめり込む子たちだった。
Xistは、親世代の表現を借りて言えば、バーチャルキャバクラや電脳ホストと呼ばれるものだ。アニメや漫画に出てくる王子様との理想の学園生活や、絶対に自分を好いてくれるヒロインとの同棲生活などを、脳に直接書き込むことで“実際に”体験できるバーチャルアミューズメント施設。もちろん五感も再現されるが、みだらな行為にはフィルターがかかる仕組みになっている。
初回料金は数千円で、九十分遊び放題という設定の店舗が多いので、最初の入店のハードルは低い。しかし、一度ハマると泥沼だ。オプションを付け始めると、費用はどんどん高くなる。特に広告の削除は必須で、広告を消さないと口説きの途中でミネラルウォーターを勧められることになるらしい。
決済は後払いやリボ払いが選べるため、気づかぬ間に借金が膨れ上がる子も多い。そういう子は決まってどこかに“出稼ぎ”に行く。いや、行かされる。そして行ったきり帰って来ない。たまに帰ってくる子もいるが、人が変わったようになっていて、またXistで散財し、何度目かで帰って来なくなる。
言ってしまえば、Xistは、運営元にとっては機械を置いておくだけで金が入る理想郷で、利用者にとっては天国の皮をかぶった地獄だ。やはり、幸せの総量は変わってないし、はーちゃんの持論は世界の真理なのかもしれない。
私は、この状況からあの子たちを救うことを仕事にできないかと考えた。
「で、どうやるんです?」
はーちゃんに痛いところをつかれ、私は「うーん」と眉根を寄せた。
Xistは直接的な性描写を禁止している。もちろん演者はこの世に存在しない存在だから、アフターもない。テレビ電話サービスなどもあるが、そこでさえ性的な話題は禁止されている。つまり、寸止めの搾取装置にほかならないが、彼らにとってはユートピアだ。これを辞めさせるのは無理だろう。人生の楽しみを奪うことは難しい。
であれば、これに通うお金を稼がせるビジネスを作って、私とはーちゃんが手数料で儲けられればいいのだが……。
「……そもそも、なぜ人はXistに通うんですかねぇ」
「たぶん、本能的なものじゃない?」
「本能? AVを見たい、みたいな気持ちですか?」
「直接そうではないけど、似たようなものだと思う。満たされたい、的な」
これは近い気がする。彼らはなんにせよ、満たされたいのだ。
「Xistはこの“満たされ感”をビジネスにしているんだと思う……ああ、でも、そこを狙ってもダメだな。競合が強すぎる」
「じゃあ、Xistで“満たされない人”を狙うのはどうです? 実際問題、Xistを虚構だと冷笑する人たちの方が多いと思います」
たしかにそうだ。リアルしか愛せない、愛したいと思わない人はまだ多くいる。私の元カレも、抽象化された性で満足できるくせに、具体的な私を愛することに固執していた。しかし、それを実行するとなると売春に近づく。売春は禁止されているし、やらせるつもりもない。それに──これは失礼な言い方だとわかっているけれど──Xistに通う子たちがみんな性的な魅力にあふれているというわけでもない。商売にするならそこはシビアに考えないといけないと思う。
「ああ、どうしよう。この町にいる女の子をさ、強制的にAI美女みたいにできないもんかなぁ。そしたら、Xistよろしく、デートするだけでも金とれそうなのに」
「ですねぇ」
「はーちゃん、ちゃんと考えてくれてる? てか、なに見てんの?」
「前言ってた、女向けのAVです。この細長いのが男のアソコのモチーフですね」
「……はーちゃん、これで興奮できるの」
「ばっちしできます」
「まじかぁ……」と声が漏れた途端、また閃きが降りてきた。
最新のAVが抽象的な記号で性的興奮を催させることができるのなら、同じように、抽象的化を突き詰めていけば、野暮ったい男子を理想の王子様に錯覚させるメイクや、地味な女子を理想のヒロインに昇格させるメイクを生み出せるのではないか。つまり、抽象化の作業を経ることで、人の感情をコントロールするメイクが可能になるということだから、それは理想の人とデートしたいという需要を満たせるのではないか。
「これだ。これかも、はーちゃん」
「へ? AVですか」
「ちがうちがう。なんか、その、すごいメイクでその人の魅力を上書きするの」
このメイク術を開発すれば、利用者は理想の人と現実でデートを楽しむことができ、私たちにはお金が入ってくる。誰も実際に身体を売る必要はないわけだ。これなら、売春に手を染めることなく、需要を満たすビジネスが成立する。
「朱里ちゃん、それに気づくとはさすがですね」
はーちゃんが胸の前で小さく拍手をするものだから、私は得意げになって、お金もないのにドンキに駆け込んだ。食品フロアを蹂躙し、抱えきれないほどのおつまみとビールを路上に並べ、冬が最後の悪あがきを見せる歌舞伎町の片隅で、ひっそりと決起集会を催した。私はビールを三本も飲んだ。フェイクビアと違って味が濃く、飲みにくかったけれど、格好つけて喉を鳴らしてみせた。はーちゃんもお酒が好きなはずなのに、今日はなぜかノンアルのフルーツカクテルばかりを飲んでいた。
結局、吐いたのは私だけだった。
次の日、技術的なことは一度置き、道行く子たちに声をかけた。プロモーションを兼ねた市場調査だ。実際にこのメイク術に需要があるのか、確かめる必要があった。
「ね、お金ほしくない? 有名にもなれるかもよ」
話を聞いてもらうには、この一言が一番効いた。アニメは倍速で見る。音楽はサビまで飛ばす。教科書は冗長で読めない。私たち世代は短くて具体的な言葉が好きで、長くてわかりにくい説明は受け付けない。性欲は抽象的に解体されたけれど、承認欲求や金銭欲求なんかは短くても具体的なものが好まれる。欲求でも、抽象化されるものもあれば、具体化していくものもあるんだな。と、少し賢ぶってみる。
朝帰りの子を捕まえるとき、はーちゃんも散歩がてらについてきた。この街の住人はほとんどが夜型だけど、はーちゃんは早寝早起きが好きだ。朝から日光浴をすると、身体の調子が良くなるらしい。日傘なんて絶対にささない。でも、雨の日は地下道から出ないことすらある。都会の雨はまずくて、一度浴びたとき、すごく体調が悪くなったと言っていた。
「いつか、綺麗な山で雨を浴びてみたいですね」
声かけの合間に、はーちゃんがめずらしく願望を口にした。「白神山地とか」
「行こうよ! というか、起業が成功したらさ、別荘建てちゃったりして!」
「いいですねぇ、それ」
私は少し高揚していた。たぶん、これが青春ってやつなのだろう。学校の行事ではしゃいでいた同級生たちの気持ちが、なんとなくわかる気がしたし、通勤通学の時間に、周りの人と歩調をあわせて歩いていると、社会の一員になれたような気がした。
夢見心地で数日を過ごしていた頃、事件が起きた。
その日、声かけを終えた私は、ジムに着くなりヨガマットに寝転がった。少し仮眠をとるつもりだった。そろそろ技術的なことも進めないといけない。エンジニアを雇う方法や、出資者を募ることを考えなければならない。アイデアを思いついたときから気分はすでに成功者だから、こうした地道な作業を思うと気が滅入った。
めんどうなことは誰か代わりにやってくれないかな。そんなことを考えながら、たこ焼き味の完全栄養食バーをかじる。食べたのは穀物の塊なのに、たこ焼きの特徴だけが抽出されていて、たこ焼きを食べた印象だけが残るのが、少し不気味だった。
少しして、ピピピッと音が鳴った。寝ぼけ眼で端末を見ると、『利用時間まであと五分です』と表示されていた。ああ、いつの間にか寝ていた。アラームのセットさえ忘れていた。隣には、いつ来たのか、はーちゃんが寝転がっていた。
『二号店に行ってるね』
横で眠るはーちゃんを起こさないように、端末に伝言を送る。
「……はーちゃん?」
ちらりとはーちゃんの寝顔を覗き込むと、少し、おかしかった。顔色が悪い。いつも以上に白い。それだけじゃない。空気を求めた肺が皮膚を破るくらい大きく膨らんだり、縮んだりしている。胸がざわつき、私は焦り始めた。
「はーちゃん、平気?」
言葉を切るように、端末が再び音を立てた。『利用時間内にご退店をお願いします』
「ちょっと待ってよ、はーちゃんが、いま」
融通が利かない世の中だということはわかっているのに、なんで私は機械に訴えているんだろう。腰を上げ、ウォーターサーバーまで走った。「はーちゃん、お水あるよ」紙コップを顔の前に差し出してみるけれど、はーちゃんは呼吸するのに精一杯で気付かない。
たまらず、私はAliveNowを起動した。AliveNowには、自傷や自殺を防ぐために脈拍や体温から自動通報する機能がついている。救急車を呼ぶべきかどうか判断がつかない私は、その決断をAIに委ねた。
『非常に危険な状態です。端末の位置情報から救急車を手配しました』
AliveNowがそう告げた。私は、少しでも早くはーちゃんが救急車に乗れるようにジムの外で待とうとしたが、扉が開かない。端末を見ると、『利用時間超過です。係りの者が向かいます。そこで待っていてください』と、ジムの入退室管理アプリから警告文が表示されていた。
「超過って……いまそれどころじゃないの!」
『利用時間超過です。係りの者が向かいます。そこで待っていてください』
焦りと怒りで胸が詰まる。時間超過だなんて、今はそんなこと言ってる場合じゃないのに。私は扉に何度も身体を打ち付けた。警備員代わりの清掃ロボットが立ちはだかる。「どいてよ!」懸命に叫んでも、ロボットには通じない。ちょっと前に機械を打ち壊した人がいたけれど──まさしく私の姉だ──今なら、その気持ちがなんとなくわかる気がした。
私は、怒りと焦燥を施設にぶつけた。隣では、はーちゃんが苦しそうに喘いでいる。そして突然、なんの前触れもなく扉が開いた。赤い光が目に飛び込み、同時に私は安堵の息をついた。しかし、それは一時的な幻に過ぎなかった。
赤い光は、救急車のものではなかった。
私は、器物損壊の罪で逮捕された。
●
勾留を免れた私は、はーちゃんが入院している病院へ向かっていた。
バスの座席が揺れるのは、私の貧乏ゆすりのせいだ。
──君、この供述、ハルってない?
刑事の意地悪な顔が、頭から離れない。五十近いだろうか。若者言葉を使ってすり寄ってくるその態度が、どうにも苦手だった。
“ハルってる”とは、ハルシネーションの略で、まるでAIが嘘をついているような状態を指す。ハルシネーションは幻覚のことだ。昔のAIはもっともらしいことを言いながらも、実際は事実ではないことを次々と出力していて、それが幻覚を見ているかのように感じられたことから、このスラングが生まれた。
しかし、今のAIにそんなことはありえない。彼らはもう嘘をつかない。本当のことしか言わないのだから、“ハルってる”という言葉も、今では死語に等しい。
なにより、私は器物損壊の件についてはハルっていない。あれは、はーちゃんを助けるために行った正しい選択だった。
病院に着くと、連携しているAliveNowを受付の端末にかざした。はーちゃんのいる病室が表示される。患者名は匿名希望となっており、病室前の電子ネームプレートも病院関係者以外には見えないように黒塗りにされていた。
病室に一歩足を踏み入れると、絶望と安堵が同時に押し寄せてきた。とても歪な光景だった。はーちゃんは人工呼吸器をつけられていて、遠目で見てもぼろぼろ。だというのに、頭のローズマリーは美しく咲き誇っている。きっと脳から栄養を吸ったんだ。はーちゃんの素敵な部分を全部吸い上げたから、あんなに綺麗に咲いているんだ。私はただ悔しかった。悔しくて、泣いた。
「朱里ちゃん、すみませんが、カーテンを開けてくれます?」
はーちゃんが薄い笑みを浮かべた。「光合成、させないと」
私はカーテンを開けた。射し込んだ陽光に目がくらみ、思わず顔を背ける。すると、今度はつむじがじんわりと温められた。くすぐったくて、私は指先でつむじを掻いた。
「開けたよ」
「ありがとうです」
つかの間の沈黙。病室は射し込む日光で白くぼやけていて、はーちゃんの影だけがくっきりと質感を持っていた。嫌だな。はーちゃんの本体はそっちじゃないのに。
入院の費用、どうにかしなくちゃ。はーちゃんは家族と疎遠だと聞いている。私がどうにかしてあげなくちゃ。たとえば、体の一部を売ったりして──……
そんなことが頭をよぎったとき、
「知ってましたか。優しさって、かつお節なんですよ」
はーちゃんが不意に言った。「削っていくしかないんです。大きさも質も、小さい頃にどう熟成されたか次第です。小さくなるし、いずれなくなっちゃうものなんです」
真意が掴めず、私は眉根を寄せた。
「削りすぎて尖ったりしたら、めっちゃ嫌な奴になるんです。だから朱里ちゃんも、もう少し自分勝手に生きていいです。私だけに優しさ削らないでいいです」
「なんでよ。削るよ。私、はーちゃんのためなら、いくらだって削る」
私はひとつ息を吸った。「むしろ、はーちゃんの方こそ削らないでよ。私は別にどんなはーちゃんでもいいし。それより、他の人にはーちゃんが嫌なやつって誤解されちゃうのがいや。だから、他の人に削ってあげてよ」
「ほら、朱里ちゃん、また削ってる」
はーちゃんが笑う顔を見て、私は伝えたくなった。違うよ。違うんだよ、はーちゃん。たしかに私が持っているのは、削ったらすぐになくなる小さなかつお節かもしれない。でもね、これははーちゃんのためにあるんだよ。それ以外に削っても意味がないんだよ。
「ねえ、はーちゃん、私ね──」
「朱里ちゃんは、身体にお花、埋めない方がいいですよ」
「なに、それ。私、別に、そんな」
「朱里ちゃん、カーテン開けた時、つむじ、売ろうと思いましたね」
「そうだよ。いけない? 私、はーちゃんを助けるためなら、いくらだって……」
「だめです」
「……なんでよ」
「だって、朱里ちゃんのつむじ、めっちゃかわいいですから」
知らなかったでしょう? と、いたずらな笑みを浮かべるはーちゃんに、私は胸が詰まった。はーちゃんのつむじの持ち主は、今どこにいるんだろう。いま、こんなに咲き誇っているのに、見に来ないなら、花なんて埋めないでよ。
「ねえ、朱里ちゃん。私、きっといまが人生のピークです」
はーちゃんは静かに語った。削りかすみたいな、細い声だった。
「だって見てください。種。すごくないですか? 私、女なのに、種出したんですよ」
はーちゃんの掌には、ゴマ粒みたいな種子が、ひとつ載せられていた。
その時、私はなんとなく気が付いた。ガンジャを吸わなくなったり、お酒を呑まなくなったり、はーちゃんは、きっと花を咲かせたかったのだ。「咲かせたいの?」と聞いた時も、「わからない」って首を横に振るだけだったけれど、きっとそうに違いない。
多くの人は、「これがやりたい」ってつまることなく言うことができる。でも、言えない人もいる。経済的にも精神的にも貧しい環境で育った私たちのような者は、欲望が芽生えず、具体的な望みを自覚できないことがある。仮に「やりたいこと」があったとしても、そこにたどり着くまでの多くのハードルを越える自信がなくて、抽象化されたモデルケースに自分の居場所を見つけられず、つい口を噤んでしまうのだ。
「朱里ちゃんの親友になれたから、死なずに、こんな良い思いできました」
「私……なんにもしてないよ……」
「朱里ちゃん……私がいなくなるの、怖いですか?」
「怖いよ、あたりまえでしょ──ねえ、はーちゃん、私ね、自分を傷つけないために、頑張って鈍感になったのに、いま、心は、もっと怖がれって言ってくる。はーちゃんがいない明日が、どうしようもなく怖い」
「防衛本能ってやつですよ」
はーちゃんが、こほっ、と咳をした。
「だから、恐れることはないです。既に名前がある感情なんて、たいしたことないです。歴史上の人たちが既に悩んでくれていることなんて、恐れることないです。本当に恐怖すべきは、まだ名前のないものにぶち当たった時です」
「なにそれ……でも、なんかわかるかも。はーちゃん、やっぱすごいよ」
「はい。だから、そんなすごい私から、ひとつお願いです」
はーちゃんは私の手を取り、そっと囁く。
「朱里ちゃん、この子を、埋めてください。とびっきり綺麗な場所に」
「種? 埋める? たとえばどこ? 白神山地? だとしたら何合目がいい? いいよ、私にはやさしさなんて削らないでいい。全部言って。私、絶対嫌いにならないし、失望もしない。だから、願いごとぜんぶ言って。この種、どこに埋めればいい?」
私が鼻を啜ってから一秒して、はーちゃんは言った。
「朱里ちゃんのつむじ」
次の日、面会に行くと、はーちゃんが死んでいた。はーちゃんの顔も、傷跡の残る手首も、ひんやりと冷たくなっていた。色があるのは頭上の花だけで、私は、ああ、綺麗だなと思ってしまい、死にたいくらいの自己嫌悪に陥った。
でも、AliveNowを起動しても、救急車を呼んでくれない。ぼんやりとした希死念慮じゃなくて、具体的な病名が診断されないと連れて行ってはくれないらしい。
私は待合室で、掌に映し出された画面をスクロールしていた。日常を切り取った記録が流れては泣きたくなる。映画みたいに綺麗ではないし、物語にしては起承転結がなさすぎるけれど、これが私たちの生きた証だった。神話のなかの神様みたいに、零れ落ちた血から子どもが生まれることなんてない、傷だらけな私たちの現実だった。
はーちゃんの身体は、夜遅くに家族が引き取っていった。知らぬ間に整形していたらしく、両親は驚いていたし、私も驚いた。どうやらはーちゃんは、整形をするために頭皮を担保にお金を借りたらしい。
結局、私は最後まで、はーちゃんの元の顔も、本名も知らないままだった。でも、それでいいと思った。はーちゃんは、私にとって、はーちゃん以外の何者でもないのだから。