「あなたの母は、春を売っていた」
夜になると、決まって同じ話を聞かされた。五年ほど前のことだ。
六つ年上の姉が逮捕され、その影響で母が姿を消したとき、私は遠縁の親戚に引き取られることになった。おばさんは、毎晩のようにその話を繰り返していたが、私はそれを不快に思うことはなかった。むしろ、当時の私はその話にどこか惹かれていたようにさえ感じていた。今になって振り返れば、それは私が中学まで無知な乙女だったという証で、つまり、私の母は売春婦だったのだ。
私が生まれたのは二十年前の、西暦二〇三〇年。その少し前、厳罰化の法案が通り、売春は過去のものになったと聞いている。以前から売春は違法だったものの、路地裏ではこっそりと生き残り、マッチングアプリの普及で、さまざまな形に変わって増えていった。梅毒に罹る人や、金銭トラブル、逆恨みで刺される人も多くなり、政府は本腰を入れて根絶運動を始めたらしい。
だから、私が「春を売る」という古いフレーズの意味を知ったのは、高校一年生の公民の授業だった。知ったときには、重たいため息が出たものだ。親戚の皮肉に気づいたからじゃない。まるで初めてコンタクトレンズをつけた時に、実家の洗面台がめちゃくちゃ汚いことに気づいたような、そんな感覚だった。
それ以来、知識というものがなんとなく嫌いになった。見たくもない現実を無理やり見せてくる、外すことのできないコンタクトレンズのようなものだ。学校を嫌いになったのも当然のことだろう。あそこは、私たちの目を矯正する眼科か、あるいは偉い学者が発見した知識を教科書経由で押し売りしてくる、知識の転売ヤーだ。中退したのは、正しい選択だったと思っている。
そんな私もハタチになり、だいぶ目が良くなった──もちろん皮肉だけれど──今になってあの頃を思い出しているのは、昨夜の彼の行動のせいだ。
昨夜は添い寝の日だった。定期的に私を襲うあの不平等なアレに、彼はしばらく文句を言っていて、その時点で「は?」という感じだったのだが、本当に驚いたのはその後だ。彼は私が寝たのを横目で確認すると、端末でこっそり何かを見始めたのだ。
画面に映っていたのは、なだらかな楕円が画面を行き来する、不思議な映像だった。楕円はゆっくり左右に動き、時折上下に振動する。「変なもの見てんなぁ」と思いながら、寝たふりを続けている私の背で、彼の呼吸は次第に荒くなり、気づけば果てていた。危うく「は?」と声が出そうになったけど、なんとか堪えた。いや、少し漏れていたかもしれない。
あまりにも意味が分からなかったから、私は今朝、仲良しのはーちゃんに相談のメッセージを送った。
『昨日の夜さ、彼氏が変なモノを見てたんだよね。なんだと思う?』
そうメッセを送ると、はーちゃんは『今日会った時、教えます』なんて、めずらしく含みをもたせる言い方で返してきた。それから既読はつかなくなった。
はーちゃんは、歌舞伎町の路上で知り合った同い年の女の子だ。本名は知らないし、教えてもくれないから、たぶん聞かれたくないのだろう。彼女は私より少し背が高く、すらっとしている。いつもビル風にゆらゆらと揺られながら、気持ちよさそうにこの町を歩く。そして、私を見つけると、胸の前で小さく手を振りながら「朱里ちゃーん」と、ひょこひょこと駆け寄ってくる。
その姿に、私の胸はいつも、少しときめいてしまうのだ。
「あなた、アダルトビデオというものをご存知ない?」
第一声が、この有様でも。
「ちょ、待って、はーちゃん。アダルトビデオって、あの、動画のエロいやつ……?」
「イエス」
はーちゃんは得意げに胸を張った。「あの、です」
「え? やっぱ待って。あの楕円が? てか、禁止されたんじゃないの? 国連がエロ動画やめろっていって、国もうっすやめますって頷いたとか」
「だから、抜け道のやつです。朱里ちゃん、オナホってご存じか?」
私は咄嗟に首を横に振った。「ご存じない。興味ないもん」
はーちゃんはにやりと口の端を上げ、自分の端末を操作して、いくつかの画像を見せてくれた。硬そうな筒状のものから、ナマコみたいにぼてっとしたもの、尻がついた大物、さらには完全にアソコを模したものまで、オナホにはいろんな種類があった。
「これが、です。オナホって凹凸で再現した、いわば抽象化されたアソコではないですか? つまり、それの映像版なんですね。朱里ちゃんが見たやつとは、なだらかな楕円だったですね? それって、いわば女の裸を抽象化したやつです」
「……はあ?」
理解できない私を見かねたのか、はーちゃんが左手首に口を寄せる。
「今の会話を参考に、AVの現状について要約を。もちろん日本のです」
『お答えします。日本のアダルトビデオは──……』
はーちゃんの手首に光る端末から、私のピアス型端末に回答が転送されてきた。
二十年前、性を売り物にするなという流れで、AVをはじめとしたアダルトコンテンツにもかなりの規制が入った。当然の結果として、性産業は一時期解体寸前にまで追い込まれたが、完膚なきまでに崩壊したわけではなかった。性産業は団結し、知恵を絞り、“抽象化の隠れ蓑”を纏うことで、社会の陰で生き続けているというのだ。
骨伝導で流れ込んでくる情報に、私は面食らった。
「いまは、学校とかそういうところでないと、生身はもちろん、AIの生成した画像でも、えろい肉体を表現したら捕まりますからね」
その言葉に、私はふと思い出した。たしか、どこかの省庁が運営している判定AIが承認を出さない限り、表現物は世に出せないのだ。私も、以前お風呂上がりに自撮りをSNSにアップしようとした際、端末に『性的なコンテンツは云々』という警告文が出て戸惑ったことがある。
「そのAV、女向けのも少ないけどありますよ。結構いいって聞きますから」
かつお節がたっぷりとかかったたこ焼きを頬張りながら、はーちゃんは端末を差し出してきた。「でも、模様に興奮する人間はちょっと、ですね?」
言われるがまま、私はあの男にメッセを送り、関係に終止符を打った。バーチャルアイドルに興奮するならまだしも、幾何学模様に興奮する男なんて願い下げだ。
「あー、もう最悪。男を見る目まで濁ってたなんて……」
「養われたですよ。朱里ちゃん」
愚痴をこぼす私のつむじに、はーちゃんがちょんと触れた。はーちゃんは、私が怒ったり拗ねたりすると、まるで子どもをあやすように、つむじを優しく撫でてくる。
「朱里ちゃんの目は、養われたのです」
怒りや偏見で頭がガチガチの私と違って、はーちゃんの頭は今日もお花畑で癒される。これは別にばかにしているわけではないし、比喩でもなんでもない。
はーちゃんの頭には、本当に花が生えている。
いつだったのかは知らないが、はーちゃんは怪しいブローカーから頭皮を担保にお金を借りたらしい。「どうしても必要だった」と語っていたけれど、無論、返済できなかった。結果、はーちゃんの頭皮は金持ちの変態に売られ、手術で剥がされたそうだ。
今では、特殊なバイオフィルムが頭蓋骨を覆い、そこにローズマリーが根を張っている。薄紫色の小さな蕾は、今となっては、はーちゃんのチャームポイントだ。
はーちゃんも、私の母とは違う形で春を売ったんだなと、ふと思った。政府が売春を禁止した結果、身体の売り方はむしろ多様化してしまった。はーちゃんのように土地の代わりに皮膚を売って金持ちの花壇になる子もいれば、身体に絵を描かれてキャンバス代わりになる子、あるいは、豚由来の培養臓器を嫌う人のために体内で腎臓を育てる子もいると聞いたことがある。たぶんそれも広義の売春で、抽象化された身体売買だ。ただ、何を売って稼ごうと、それはその人の自由だと思う。私が気がかりなのは、花の根が脳に絡まったらどうするんだろう、という一点だけ。ローズマリーは根が浅い方らしいけど、それでも三十センチは根を張るとネットで見た記憶がある。
「ねえ、はーちゃん。その……根っこさ」
恐る恐る懸念をぶつけてみても、「でも、お金がないと、もっと早く死んでいたですよ」と、まるで他人事のように呟くのが、はーちゃんという女の子だった。私などでは到達できない悟りの境地に立っている。だというのに、「はーちゃん的には、その花は咲かせたいの?」と単刀直入に聞くと、いつも困った顔をして、「それはわからないです」と肩をすくめる。はーちゃんは、自分の願いに無頓着だ。
ちなみに、はーちゃんの喋り方が独特なのは、花のせいではない。はーちゃんの母親が「今さら日本語を覚えても無駄」という主張の人で──私たちが生まれた三十年代には、そういう考え方をする人がある程度いた──しかし、インターナショナルスクールに行かせるお金もなく、代わりにAI翻訳を通して会話をしてきたらしい。学校には「耳が悪いから」と嘘をつき、補聴器の機能も持つスマートイヤホンを装着させて、授業もAI翻訳を通して聞かせていたという。イヤホンからは英語、中国語、スペイン語が同時に流れてきて、先生の丁寧な言葉遣いと同級生のフランクな言葉が入り混じる。さらに親の仕事の都合で転校が多く、方言も混じったから大変だったらしい。私たちが子どもの頃のAI翻訳は、表現や言い回し、イントネーションなど、まだまだ拙かったのだ。
「朱里ちゃんは、まだお金ダイジョブですか?」
「どうかなぁ。でもまあ、腐っても旅人の聖地だし、なんかあるよ、きっと」
言って、私はしゃがんだまま空を見た。
歌舞伎町が旅人の聖地になったのが、具体的にいつなのかは知らない。昔はタイの方が物価が安く、そこが聖地だったらしいが、今となっては考えられない話だ。
カプセルホテルが乱立し、蛸モドキを使ったたこ焼き屋が軒を連ねる。コインランドリーは、開けるまで下着が残っているかどうかがわからない、まるでシュレーディンガーの猫のような状態。路地裏には大麻の臭いが漂い、大通りにはナンパする人間と補導ロボットが幅を利かせている。歩くだけでも一苦労だ。空を見上げても、目に入るのは電子看板ばかりで、下を見れば吐き捨てられた唾やガムの跡が散らばっている。正直、これのどこが聖地なのか、首をかしげざるを得ない。今も客引きのお姉さんが、堂々と治安維持用のロボを蹴り飛ばしている。
「私、ああいう大人にはなりたくないな」
言葉を吐き捨てるついでに、たこ焼きのトレイも地面に投げ捨てた。
「朱里ちゃん、それは呪いの言葉ですよ。人は、なりたくないと思ったものになってしまうんですから」
「えー……それ、夢なくない?」
「はい。でもここは現実です。私は金持ちで嫌なマダムには、なりたくてもなれません。逆に、苛ついてロボットを蹴る嫌なおばさんには、なるかもです。共通しているところが多いから、なる想像ができてしまうんです。男のアソコを抽象化してもオナホは作れませんが、女のアソコではできてしまうのと同じ理屈です」
「はーちゃんって、意外と頭の中ピンクだよねえ」
ごまかそうとしてみたけれど、図星だった。なぜなら、私が嫌っている母も若い頃、この町で生きていたからだ。母の時代、この町は「行き場のない子たちの楽園」と呼ばれていたらしい。無垢だった頃の私が「楽園ってどんなところ?」と尋ねた時、母は「そう思い込むしかないところ」と苦笑した。
「……どうせこの世はディストピアかぁ。私らのユートピアはないのかね」
「誰かにとってのユートピアは、誰かにとってのディストピアですよ」
はーちゃんが私のつむじをつつく。
「これは私の持論というやつですが、幸せの総量とはきっと決まっているモノで、結局どっちの立ち位置にいるかでしかないのです。この町も、善良な市民にはディストピアですが、あくどい輩にとってはユートピアですね。なんでも買えますから」
「そんなもんかなぁ」
「もんです。なので、朱里ちゃんは、いま自分はどっちにいるとお思いですか?」
「うーん。どっちだろ」
「直感でおーけーです」
「なら……がっつりど真ん中ディストピア、の」
「の?」
「飛び地にあるユートピア」
「なにですか。それ?」
「さて、なにでしょう」
はーちゃんの手を握り、大通りを駆けた。電子看板はスポットライトで、補導ロボは私たちのおっかけ。そう考えれば気分も上々だ。「飛び地ってなにです?」「あ、そっちがわかってなかったの?」顔を見合わせ、笑い合う。きっと、いまここだけはユートピアに違いない。ディストピアで、こんな楽しく笑えるわけがないのだから。
と、強がって数日を過ごしたが、やはりお金がないと世界は地獄だ。
まず、家賃が払えない。私とはーちゃんは、二十四時間営業のジムで暮らしている。サブスク代と言った方が正確かもしれない。全国チェーンゆえにどこにでも部屋がある状態なのは便利だが、一回の滞在時間が三時間未満に設定されているため、ずっと滞在することはできない。だいたい二時間半で目覚ましをセットし、最寄りのジムをはしごする生活を送っている。
正直、もっとぐっすり寝たいという気持ちはある。けれど、空調が常時稼働する清潔な寝床は、そうそう見つからない。ウォーターサーバーやシャワーも完備されていて、これで一か月一万円だというのだから破格だ。汚い安宿に泊まる選択肢は、ほとんどない。あとは無料のスナックさえあれば、新築アパートだって目じゃない城だ。
「戦争とか、貧乏とか、腹ペコとか、生乾きとか。いつかそういうものぜんぶドラゴンになっちゃえばいいと思うんです」
紙コップに入った水を見つめながら、はーちゃんがつぶやいた。
私は「ドラゴン?」と返しながら、使い放題の脱毛機器を肌に当てていた。
「です。がおーって火ぃ吹くやつです。みんな知ってて怖いけど、実際には存在しないもの。物語のなかにしか出てこないもの」
「そうだったら……うん。幸せだね」
私は相槌を打ちつつ、はーちゃんを抱き寄せ、端末のインカメラで写真を撮った。映りを少しだけ確認し、「ドラゴンと腹ペコが同じになりますように」と文字を打つ。そして、『AliveNow』に投稿する。『AliveNow』は自撮りとともに血圧や脈拍を投稿するSNSで、AIではない生きた人間の証明であるコミュニティだ。
「朱里ちゃん、体温高いですねえ。赤ちゃんみたいです」
と、肩を揺らすはーちゃんは、随分前にアカウントを消してしまった。理由は聞いていない。本当は辞めてほしくなかった。はーちゃんはあまりに純粋で、曖昧で、ぼんやりしていて、いつも世界に溶けかかっている。はーちゃんがこの世界に、もっと根を張ってくれたらいいのに。私たちは、もっと世界に根を張れたらいいのに。その願いを込めて、こうして記録を残している。フォローとフォロワーがゼロのアカウントでも、それくらいの願いは込められる。
「はーちゃん、おなか減ったよね。ガンジャでごまかす? 少し余ってるからさ」
「……わからないです」
はーちゃんは、マットに寝転がったまま、右腕をじっと見つめていた。端末でキャッシュの残高を確認しているのではないことは、すぐにわかった。今度は腕の皮膚を売ろうとしている。嫌だな、と心が騒いだ。