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 いってしまえば、HALは超巨大な計算機だった。
 パソコンのように、たくさんのアプリケーションがあるわけではなく、単純に計算に特化した機械だ。なにを計算するのかというと、サーバー上に構築された世界と、そこにプログラミングされた人々の行動。人間の神経回路をコンピュータ上にプログラミングする技術を用いて、HALがそれを計算し、結果を描画する構成らしい。
 まあ、正直言って、よくわからない。
「だから読んでおくようにといったのに」
 ダラムが眉間を指で押さえる。先日渡された数冊のSF小説は、栞ごと売ってしまった。紙の本はめずらしいから高く売れるかと思ったけど、そんなことはなかった。本当、本って使えない。特にSFなんて、小難しいだけで価値がない。それに読んだところできっとわからないし、私の選択は間違いだったとは思わない。
「まあいい。それじゃ、はじめるよ」
 私は今、流線型のカプセルの中に入っていて、スピーカー越しにダラムと話している。今日は試運転の日だ。本来なら、肉体を仮死状態に凍結し、意識だけを仮想空間にアップロードするらしいけど、試運転は全身麻酔で行うみたいだ。カプセルは二メートルくらいの大きさで、中は青白い光に満ちている。
 消毒液の匂いが、少しきつくて、なんとなく息苦しい。
「いまから麻酔をカプセル内に噴霧する。ゆっくり呼吸して。目が覚めたら──」
 私は言われた通りに深呼吸をした。
「君はHALの中にいる」
 次の瞬間、私は見知らぬ部屋のなかにいた。どうやら私はいま、HAL世界のなかに立っているらしい。いや、立っている。といっていいのかわからない。その感覚だけがある。前後も左右も上下も、不確かなのに、接地している、直立しているという感覚だけがある。なぜだか舌が苦い。鼻は甘い香りに支配され、目が回り、三半規管は悲鳴をあげている。皮膚は焼けるように痛む。身体感覚が先鋭化され、神経が世界に根を張っていくようだ。世界に接続されたような気味の悪い感覚。
 助けて──! 私は叫びだしそうになった。
「落ち着いて。五感の調整をしているだけだ」
 どこからか聞こえるダラムの声が、鼓膜の裏側をひっかいた。
「いまからマニュアルと、忘れてきた宿題をインプットしていく」
 今度は脳が揺れた。むき出しの脳みそに水が注がれ、波打つ感覚だ。ああ、これが知識か。瞬間的にそう理解した。いや、させられた。自身の脳に、マニュアルと呼ばれるものを強制的にインプットされたのだ。ついでに、売り払ったはずのSF小説のあらすじも脳に刻まれた。「この世界を理解するのに役立つからね」と、諭すようなダラムの声が、耳の裏で木霊した。
「落ち着いたかな? そうしたら、周りを観察してみてくれ」
 私は“良くなった目”で周囲を見渡した。千駄ヶ谷のバーに飾られていたのと同じ絵が宙に浮かんでいる。それがヒエロニムス・ボスの『快楽の園』であることにすぐに気が付いたのは──また、ダラムがその絵を視野テストに採用した理由を察することが出来たのは──美術の成績が2で、読書嫌いな私には本来あり得ないことだった。
「うん。周辺状況の描画はうまく機能しているようだね」
 次に、ダラムは遠くを見るように言った。遠く? この部屋の中で遠くを見る?
 すると、部屋に窓が開き──壁ではなく宙にだ──遠くに人影が見えた。あれはHALの住人だろうか。マニュアルによれば、まだ現実世界で存命している利用者の方が多いらしい。さらに高いお金を払えば、肉体の仮死状態を解いて現実世界に復帰することもできるという。もちろん、すでに死んでいる人も少なくはなく、彼らはHALから出る際、専用のヒューマノイドに精神をコピーして動かしているそうだ。
 HALには死もなければ、性別も年齢もない。設定することはできるが、それはただの0と1でできた情報に過ぎない(あるいは現実もそうかもしれないが)。ここには、生殖の圧力もなければ、老化する義務もない。日常生活を営む上で必要なことはほとんどできるし、必要ないものはすべて省略オミツト可能だ。生理機能も含め、人間らしい生活をすることもできるが、それさえ自由にカスタマイズできる。
 HALの核となる技術は、人の精神活動をモデル化し、それを仮想現実世界で走らせることだ。膨大な数のプロセッサで計算されているが、リアルタイムで完全に処理することはできない。現実世界の三十秒に対して、仮想空間では一秒の時間が流れる。私たちはその時間差を知覚できないが、現実世界で十分が経っても、ここではたった二十秒しか経過していない計算になる。
 つまり、HALにいればいるほど、現実世界からどんどん置いていかれる。
 そういう意味では、ここは遠い宇宙──人類の新天地と言えるのかもしれない。
「OK。機能チェックも済んだし、だいぶ世界がわかってきたようだね」
 仮想鼓膜を通して、ダラムの声が響く。「一度終えようか」
 体感では約十分の試運転だったが、外では五時間が経過していた。
 戻ってくると、私は施設内の豪華な部屋に案内され、食事を摂った。内装は豪奢で、場違いかもしれないが、ルームサービスで選んだのはたこ焼きだった。届いたのは工場で培養された蛸──食感や風味を再現したものではなく、本物の蛸が入ったたこ焼き。しかし、食べてみても違いがよくわからない。ああ、私は偽物でもいいんだな──そんなことを考えながら、ぴかぴかのジャグジーで身体を洗い、全自動のエステマシンに身をゆだねた。リラクゼーション用のガンジャを吸い、ふかふかのベッドの上でリラックスしていると、部屋のパネルが不意にアクティブになった。
「調子はどうだい」
 やはりと言うべきか、声の主はダラムだった。
「最低で最高。ねえ、私ずっとこの部屋で暮らせないの?」
「残念。データの解析が終わったら本格移住になる。およそ三日後だ。それまではそこを好きに使ってくれ。他に要望があれば、できるだけ叶えよう」
「なら、そこに飾ってある白い花どけてよ」
 私は部屋の隅にある室内花壇を指して言った。「なんか、辛気臭いし」
春紫苑ハルジオンは嫌いかい? 気に入ると思って生花を用意したんだが……」
「だってこれ、貧乏草でしょ? アメリカだとそう言わないの?」
「さあ。ぼくはオーストラリア生まれだから。それより、他に欲しいものは?」
「それじゃ、理想の友人つれてきてよ。ここ、暇だし」
「人をひとり用意するのに、どれだけ時間がかかるか知らないのかい?」
「知らないし、まあ、本当は別にいらないけど……──あ、そうだ。ならさ、私のつむじにバイオシートを移植して、この種を植えてよ」
 私は、はーちゃんが遺した種を掌に載せた。
 なぜだろう。この種を植えれば、はーちゃんに会える気がしたのだ。
「ああ、それはいいね。それなら時間は短縮できる。わかった。叶えよう。──とはいえ、三日では手術の手配は無理だ。君がHALに移住している仮死状態の間に手術を行おう。無事終えたら私から伝えに行く。どうだい?」
「ならそれで。よろしくです」
 ガンジャでキマッたまま、私は掌に載せた種を見つめていた。
 私、これからどうなるんだろう。どうするんだろう。きっと、未来の残酷さとの対決はさけられない。この試練をさけては、たとえ未来に希望をもつ思想に立つにしても、その希望は単なる願望の域を出るものではない。いや、違うな。これは私の思想じゃない。誰かの体験から抽出された、思想の影だ。誰かの経験から借りた言葉は具体性の欠片ももたない。わかっているのに、刷り込まれた文章が私の思考を埋めつくし、ついに、口から零れ落ちた。
「わたしは、自分がそれ以外の結論に達するとでも思っていたのだろうか?」

 カプセル内に噴霧された仮死化剤が全身を巡ると、強烈な眠気が襲ってきた。VIPルームでの三日間を思い返す間もなく、私は再びHALの中に降り立った。
 座標R124C41+──Gernsbackガーンズバツクの石碑が立つ丘から、宙に浮く標識に従い、ゆっくりと進む。透明な川が流れ、青く茂る樹木が立ち並び、蝶が舞い、鳥が啼いている。そよ風が肌を撫で、まるで本当に生きているかのように、この道を歩んでいるのだと錯覚させてくる。少し先に街が見えた。門の前には、青年を背負った老婆が立っていて、その手には小さなラッパが握られていた。彼女は私に気付くと、パッパパーとラッパを吹き、音色にあわせて門が開く。老婆は躊躇いもなく奥へ進んでいく。
 私は戸惑いながらも、彼らとともに街へと足を踏み入れた。
 試運転の時はわからなかったが、HALのなかには、社会と生活があった。社会的生物である人間は、意識のみの世界でも、他者と関わらないと鬱病になってしまうらしく、こうしたコミュニケーション用のサーバーが用意されているのだ。
 私は老婆にお願いして、この街で一番高い時計塔に連れて行ってもらった。街全体を俯瞰し、理解したかったからだ。「みなさんそうします」と、老婆が呟いた。自由意思で登ったと思っていたが、これは無意識に仕込まれたチュートリアルなのかもしれないなと思った。老婆が私の思考を読んでいるのが、その証拠だった。
「ねえ、おばさん、もしかしてNPC人間じやない?」
「残念ながら人間です。ただ、チュートリアルであることは否定しません」
 時計塔の頂上に着いた。地平線の先まで都市が広がっているように見えるが、それらのほとんどが、ただの映像だという。足元に広がる町と見分けがつかないほどリアルだが、よく見ると、丸や四角などの記号だけで形成された町もあった。
「町という概念から共通項を抜き出し、描き出しているのです」
「ふぅん……じゃあさ、そんな町で生きるあなたや私は生きてるの?」
「存在することが自己の連続性を示すのではなく、自己の連続性こそが存在の根源であると定めれば、電脳に複製された人格は存在するでしょう」
「……はあ?」
「定義の問題です。自己が存在し続けているから、自己の連続性を認識できるという因果を否定し、自己の連続性を認識することによって、自己は存在し続けると再定義する。ダラムはその着想を得て、この世界を──永遠の命の楽園を創造しました」
「よくわかんないけど、強引だし、曖昧じゃない?」
「強引かつ曖昧でいいのです。生きている、という状態をひどく具体的に定義してしまえば、千年の命というものは保証されないでしょう」
「……よくわかんないや。とりあえずありがと。私、もう降りるから」
 長くなりそうだったので、私は話を遮り、階段を下り始めた。上るときは何百段もあるように感じたのに、下りるときは数段しかなかった。「必要のない描画は省略され、体験だけが補完されるのです」と、まるで私の心を読んだように、老婆が囁いた。
「いろいろとどうも。で、最後にもうひとつききたいんだけど、なんで背中に……その……男の子を担いでるの?」
「この子は歩けないのです。向こうの世界では四肢がありませんでした。ゆえに私がお金を提供することで、こちらに一緒に移住したのです」
「それは……養子、的な?」
「似ています。なぜなら向こうの世界の私は、とある屈辱的な事情により、子をなせない体でした。だからこの方法を望んだのです。私のなかにある自己保存の熱、強固な母性が、違う形の生殖と繁栄を私に選ばせたのです。ダラムは、新世界の創造に興味がありますが、世界の存続には生殖と繁栄が必須です。そのために、私のような貧しい老婆を、この世界に招きいれてくれました。ここで案内人に従事することで、私は子を得る権利を授かったのです。ダラムには、感謝しております」
 私は「へえ」とだけ言い、青年と目を合わせた。彼は四肢を前後にゆらゆらと揺らしている。顔立ちの整った、人形のような青年だった。その瞳は瞬きもせず、唇だけが微かに動いていた。
「せっかく手足ができたのに、歩かないんだね」
「彼は歩くという具体的な体験や経験を有しておりません。手足を前後に動かす行為、という抽象概念のみを知っています。概念だけでは行えないこともあるのです」
「でも、その人も現実世界にいたんなら、歩く人とか見て知ってるはずでしょ。それに、習わなくても本能でわかるんじゃ……」
「それは人間の場合に限ります。彼は四肢のない、司書ロボットでしたから」
 老婆の言葉に、私は絶句した。
「先ほどもお伝えしましたが、この世界では、具体的な属性は解体され、再定義されます。向こうの世界にいた私は、図書館で見かけた彼に強い愛情と庇護欲を覚えました。彼にはたしかな知性があり、なかったのは人間の肉体だけ。だからこの世界に招き、私の子として育てることにしたのです。決して朽ちることのない、私の子として」
 老婆がそう語る時も、青年は四肢を動かし続けていた。まるで歩くことを忘れた遠い未来の人間を見ているようだった。だが、きっとそのうち、あらゆる行為が抽象化を経て、再定義されれば、歩くこと、話すこと、愛すること、日々の営みは変質し、元の形は失われていくのだろう。
 私は、すぐにその場を後にした。老婆は、追ってこなかった。
 少し歩くと、広場に出た。中央には噴水があり、周囲にはベンチが並んでいる。その端に、うずくまっている人影があった。私はまた言葉を失った。その人物の顔には、目も口も鼻も見当たらない。ただ、人として認識できるだけの記号が、肌色の円の内側に浮かんでいるだけだったのだ。
「あの……」
 声をかけると、抽象画のような男は指らしき部分を動かし、板を指した。そこには数字が並んでいた。3TBテラバイト、5TB……なるほど、この社会でも、何かを得るには対価を支払うのが普通らしい。通貨にあたるのが「計算リソース」というわけだ。
「何を売っているんですか?」
「……俺」と、口のない顔から言葉が吐かれた。
 私は気味が悪くなり、その場を立ち去ろうとした。次の瞬間、「おい、ちゃんと対価を払っていけよ!」と、彼の手らしき部分が私の肩を掴んだ。
広告アドを食うこっちの身にもなれよ! くそ上流アツパーが!」
「広告を食う……私が上流……?」
 意味がわからず、私は首を傾げた。
「おいおい待ってくれよ。あんた鏡を見たことねえのか? その立派な顔で上流じゃねえわけねえだろ。なんだ、なんも知らねえボンボンのガキか? つまりな、あんたの描画の方が濃くて早いから、あんたと会話し終えたあと、俺たちは足りない分、広告動画を見せられんの。あんたの描画に乗っかった分の帳尻合わせを俺らが食うんだよ。わかったか? だから上流と話すならリソースもらわないと損しか──」
 彼は尋常じゃない早口で捲し立てると、不意に停止した。顔には『広告を再生中です』と表示されていて、呼んでも、触っても、反応はない。
 私は待つ間、噴水の水面に映る自分の顔を恐る恐る覗き込んだ。目も鼻も口もちゃんとあった。現実世界より解像度は粗い気がするけど、それでもちゃんと具体的に描かれている。そうか、計算機だから描写の間隔に差が出るんだ。私の頭が勝手に理解した。描写間隔というのは、単位時間あたりに何回計算されるかということ。いわばパラパラ漫画のように、何枚の絵をどれくらいの質で描くかに相当する。私のような上流は──そうした自覚はないが──計算リソースが豊富だから、たくさんの計算を使ってなめらかで具体的に描かれる。けれど、計算リソースが少ない者はそうではない。だから、私が自然に会話をしようとすると、彼の描画速度を上げないといけなくなり、その結果、サーバー代の借金が発生してしまう。彼はその支払いを広告視聴で賄わなければならなくなるのだ。
 どうやら私は、彼にひどい仕打ちを与えてしまったみたいだ。
「あ、起きた? ごめんね、知らなくて。ちゃんと払うから」
 店主の顔から『広告を再生中です』の文字が消えたのを見計らって、私は短く言った。マニュアルを走査スキヤンして、支払い方を探すが、相場がまったくわからない。
 結局、彼の言い値のままに払った。何も言わずに手続きを済ませる彼を見ながら、これで本当に適正な対価だったのか不安が残るが、もうどうしようもない。
「ねえ、なんで永遠の楽園でお金を稼ぐ必要があるの? 描画速度を上げたいから?」
 私が疑問を口にすると、彼は呆れたように呟いた。
「それは贅沢な願いだ。サーバー代を払えないと死ぬ。簡単な理屈だ」
 なるほど。合点がいった。HALは買い切り型のサービスではなく、サブスクリプション型のサービスだ。富裕層であれば、死後であっても現実世界で資産運用をすることでサービスを継続して受けられる。しかし、彼はきっとそちら側ではない。
「サーバー代が払えないと、まず計算リソースが削られる。んで、思考が鈍化して、感情が欠落する。そんでずっと未払いだと、アカウント削除──つまり、仮想人格自体が削除されんだ。ストレージとネットワークの維持費は、そのまま魂の値段ってわけ。資産の少ないやつは、世界維持への寄与率が低いってわけで、運営様も冷酷さ」
「え、でもさ、じゃあサーバー自体が壊れたらどうするの? 世界の終わり?」
「おまえは地球が壊れたらどうしようって考えながら生きてんのか? それに、この世界にはバックアップオプションもある。ばかみたいに高いけどな」
 彼は自嘲気味に言った。
「結局は金さ。現実に戻って稼ぐことができるやつはいいが、HALに縛られた俺みたいなのはそうもいかない。ここで価値を差し出して、リソースを稼ぐしかないんだ」
 結局、永遠の楽園も金持ち──強い人間が長く生きる世界なのだ。現実と同じように、ここでも富を持つ者だけが安定して存在し続け、貧しい者は存在さえ危うくなる。
 永遠の楽園ですら、そんな不公平な現実が残っていることが、妙に残酷に思えた。
「そういえば、あなたは何を売っているの?」
「ここには停滞した未来しかない。住民の多くは変化や刺激を求めてる。それが価値になる。だから俺らみたいなのは、退屈な不死者に“生きる自分”を差し出すのさ」
 彼が顎でしゃくった。路地裏に目を凝らすと、たくさんの人がいた。その光景に、私は「ああ、そうか」と合点した。歌舞伎町で出逢った子たちが「出稼ぎ」と言っていたのは、ここのことだったのだ。
 しかし、彼らの姿も抽象画のように歪んでいる。買い手はつくのだろうか。
「見てくれは関係ない。あいつらは、自分の過去を──心の傷を売っているんだ」
 彼の言葉に、私は少し息を呑んだ。精神の歪さや意識の病巣、それを開陳することで、相手を興奮させるのだという。それはまさに“魂の売春”だ。ここでは肉体や性ではなく、精神や魂の傷を売る。売るのは心の春だから、性別の壁もない。
 HALの住人は、生殖という具体的な機能を捨てたくせに欲望だけは捨てきれなかったらしい。魂の売春をしている人間は、私の想像の百倍もいた。彼曰く、八割強がXistをはじめとした仮想エンタメにお金を使うために出稼ぎにきているらしかった。
「そうだ、あんたにXistの社長が誰だか教えてやるよ」
 まるで不意打ちを喰らわせるように、彼は言った。「ダラムだよ」
 その言葉が耳に入った瞬間、私は一瞬動きを止めた。ダラムがXistの社長? まさか、と思う反面、すべてが繋がった気がした。Xistでの散財からHALでの出稼ぎまで、すべて仕組まれていたとしたら──?
「でも、私はXistで遊んでなんか……」
 と、言いかけた途端、眩暈がした。
 いや、違う。眩暈なんて電脳の身体にはない。単に処理が追い付いていないのだ。
 計算リソースが枯渇している。私の思考が鈍化していく……。
「たんまりいただいたよ。これから人と話すときは、気を付けることだね」
 ああ、騙された──。描写の間隔が広がっていく。いつのまにか地面に倒れている。途中経過が補完されたのだろうか、結果だけが出力されている感覚だ。
 生の体感速度が減速し、限りなく停滞──死へと近づいていく。世界が抽象化されていく。豪奢な建物がただの積み木のようになっていく。いま鏡を見たら、私は自身の具体性のなさに発狂してしまうだろう。いや、元から私に具体性などあったのか?

(つづく)