突然の訃報から早1年が経とうとしています。1年前の11月24日にこの世を去られた伊集院静さん。担当編集を20年近く続けたSが在りし日を偲んで、伊集院先生との思い出の場所に赴き、その気持ちを綴りました。伊集院先生や読者の皆様にこの思いが届きますように──。
私の息子の快癒を願って神社に毎日、お参りにいってくださっていたそうです
その店の暖簾をくぐると、大将が少し驚いた顔をしたように見えました。カウンターだけの店内は、まだ時間が早いからか空いていて、奥の席に案内されました。大将がこちらにやってきておしぼりを渡してくれます。
「びっくりしちゃったよ。Sさんがくるから、その後ろから先生が入ってくるのかと思っちゃった。いつも、そうだったでしょ」
銀座の焼き鳥屋「T」。入り口の暖簾に書かれている店名は、大将が「先生」と呼ぶ、昨年11月24日に急逝された伊集院静さんの筆によるものです。銀座三越の裏手にある焼き鳥屋は現在の大将のお父さんが屋台からはじめた、歴史と温もりがあるお店で、生前、伊集院さんがその味と大将の人柄に惚れて通われていました。
私も伊集院さんの担当編集者として、何度もご一緒させていただきました。体が大きい伊集院さんが少し背をかがめて暖簾をくぐると、大将や若(大将の息子さんで三代目主人)だけでなく、常連さんたちも伊集院さんに顔を向けて挨拶します。伊集院さんも、リラックスした表情になるのが印象的でした。
あれは、今から13年前のことです。2011年3月11日。東日本大震災が東北地方を襲いました。仙台にご自宅がある伊集院さんも被災し、停電や断水、そして余震で不安な日々を過ごされたのち、3月下旬に仕事の都合で上京せねばならず、車で二日かけて東京に入られた夜のことでした。
その日、原稿のやりとりをさせていただいたのち、編集部に電話をもらい「この後、いっぱいやりましょう」と声をかけてもらいました。伊集院さんのことを心配しているご友人の方や編集者が大勢いるなか、声をかけてもらったのは、おそらく私が担当者の中で一番若く、「余計な気を遣わなくてもいい相手」だったから(伊集院さんは「気遣いの方」だったので)でしょう。それでも、光栄に思い、待ち合わせたホテルで「大丈夫でしたか? ご無事で安心しました」と私が口にすると「心配させたね。でも、私よりもっと大変な人が大勢いるから」とポツリとおっしゃったのを鮮明に覚えています。
その日も、向かったのは「T」でした。お店に着くと、いつものように私が扉を開けて暖簾を潜り、そのあとに伊集院さんが入られます。カウンターに陣取ってビールを頼み、伊集院さんは「いつものを」と大将に告げます。ももとつくね、手羽先が伊集院さんのお気に入りで、ビールを飲んだのちは熱燗を美味しそうに召し上がっていました。それがいつものここでのやりとりでしたが、震災直後のその日は、少し違っていました。大将が「食料品とか、市場で仕入れておきました。あと、皆さんの役に立ちそうなものを段ボールにつめて送ります」と伊集院さんに話すと、「ありがとう。家内と近所に配るから。お年寄りとかも多いから助かります」と応じられていました。どうやら、仙台のご自宅用ではなく、自宅の近所に住むお年寄りのために、物資を送る算段をしていたようなのです。
こういうエピソードを伊集院さんはエッセイなどに書くことをされない方です。寄付もボランティアも、善行は黙ってやればいい。それが伊集院さんの考え方でした。お店でのこのやりとりひとつをとっても伊集院静という作家がどういう人だったのか、伝わるのではないでしょうか。
そんな伊集院さんが、ご家族以外で一番身近にいた私たち担当編集者でさえも、ただただ呆然とするしかないほど急にこの世を去ってから、1年が経とうとしています。
大将におまかせを頼んで、焼き鳥を頬張りながら、20年近く担当させていただいた年月のことを思い出していました。
名前と顔を覚えていただくのに3年近くかかりました。一人でご飯を食べるのが苦手な伊集院さんから、たびたびお声がけいただくようになりました。ある夜の食事の席で、競馬で負けてばかりの私に「その賭け金を半分にして、ゴルフをはじめてはどうでしょう?」と誘っていただき、一緒にラウンドさせていただいたのが2014年、今から10年前のことでした。朝4時からスタートして一日で3ラウンドする、という無謀だけど、とびきり面白い旅にご一緒したのは一生の思い出です。伊集院さんが誘ってくださったおかげで、ゴルフは私にとって生涯の趣味になりました。
折に触れて編集者とはどうあるべきか、どう作家と接すればいいか、どういう姿勢で仕事をするべきか教えていただきました。たくさん叱られました。たくさん労いの言葉もいただきました。私の息子が3歳のときに入院が必要な病気になったことで、原稿のやりとりにご迷惑がかかることをお詫びした際にはお手紙をいただき、励ましてもいただきました。あとで聞いた話では、息子の快癒を願って仕事場近くの神社に入院期間中、毎日、お参りにいってくださっていたそうです。大変なこともたくさんありました。朝まで原稿を待ったことも何度もあります。それでも入社2年目、24歳で伊集院さんの担当になって、20年近く毎週原稿のやりとりをさせていただいたのは、編集者としてこの上ない幸運だったと思います。
物思いに耽りながら焼酎のお湯割りを飲んでいたら、最後の一品がカウンターの向こうから出てきました。鶏のスープの上に、串にご飯を固めて巻いて、焼き台で焦げ目をつけた「おこげ」が載っている、「T」の〆の一品です。おこげをスープのなかに浸しながら食すと胃の腑がじんわりと温まるのを感じます。スープを飲み終えて、
「よし、いこう!」
この一言が伊集院さんの帰る際の合図でした。
「よし、いこう!」
一人つぶやいて席を立ちます。いつもお供させてもらっていた伊集院さんはもういません。この1年の間、たびたび不在の哀しみに襲われることもありました。「小説には哀しみに暮れる人を救うことはできない。ただ、寄り添うことはできる」。東日本大震災の直後、伊集院さんがよくおっしゃっていた言葉です。その言葉が心にずっと残っていて、亡くなる半年前、大切な人を失った人たちが登場する物語を集めた『哀しみに寄り添う』というアンソロジー短編集を作らせてもらいました。見本を渡したときにかけていただいた「よく読んで選んでくれました。ありがとう。いい本だ」という言葉は、あの時に胸に広がった喜びとともに、今も私に寄り添ってくれています。伊集院さん、あらためて、ありがとうございました。
(担当編集・S)