2022年に本屋大賞ノミネート、吉川英治文学新人賞&日本SF大賞を史上初W受賞したことでも話題となった『残月記』がついに文庫化された。

 全編「月」をモチーフにした3篇がおさめられており、日常のなかに潜む不安や、その日常が一変し恐怖に陥る様を描いたディストピア小説となっている。読後は、夜空に浮かぶ「月」が、これまでとは全く違うものに見えてしまうだろう。

 そんな『残月記』の読みどころを、「小説推理」2022年1月号に掲載されたライター・瀧井朝世さんのレビューでご紹介します。

 

残月記

 

■『残月記』小田雅久仁  /瀧井朝世[評]

 

月をモチーフとしたダークな3篇。日常が一変する恐怖とともに描かれるのは、それでも何かを守ろうとする勇気と行動力。

 

 ずいぶん長く待たされた。だが、待った甲斐があった。小田雅久仁の9年ぶりの新作『残月記』のことである。

 日本ファンタジーノベル大賞を受賞したデビュー作『増大派に告ぐ』は憎悪が張っていた。Twitte文学賞で1位となった『本にだって雄と雌があります』は諧謔味たっぷりだった。第3作となる本書にあふれるのは非合理な恐怖である。月をモチーフとした中篇3篇が収録されており、どれも悪夢的で、哀しくて壮絶。

『そして月がふりかえる』の主人公は35歳で大学准教授となり、著書も売れて順調な生活を送る大槻高志。家族とファミリーレストランで食事していた際、満月が裏返る光景を見た瞬間から、なぜか妻子が自分を見知らぬ人間扱いする。同姓同名のタクシー運転手と入れ替わったと知った時、彼がとった行動は。

「月景石」の語り手は澄香という30代の女性だ。彼女は石の蒐集が趣味だった叔母の形見として、模様が月夜の風景に見える石を入手する。生前の叔母によると、その石を枕の下に入れて眠ると月に行く夢が見られるという。だが、それは「ものすごく悪い夢」だ、とも叔母は言っていた。ある夜、出来心で試してみたところ、気づくと澄香は「表月連邦」の護送トラックの中にいた。

「残月記」の舞台は全体主義独裁国家となった日本。満月期に精神も肉体も高揚する月昴げっこうという感染症が流行、発症者は強制隔離されている。天涯孤独の青年、宇野冬芽も発症して拘束されるが、剣道の有段者である彼は意外な提案を受ける。政府が極秘裏に開催する剣闘行事への出場だ。

 緻密に構築された舞台設定や、一行たりとも緊張感が揺るがない文章、澄香が体験する月の世界の残酷な風景や冬芽が幻視する鯨に乗って月の砂漠をゆく冒険などの、壮大な光景。これほどまでに全方位、油断も隙もない豊かな物語世界を生み出す著者の才気にはひれ伏すしかない。

 3篇ともに、平穏な日常が一変し主人公は過酷な体験をする。「月景石」と「残月記」では全体主義社会の理不尽さも浮き彫りになる。怖い。とにかく怖い。だが、描かれるのは恐れおののき頭を垂れる人間ではない。主人公たちは大切なものを守ろうとし、考え抜いて行動する。その思考力と行動力と、愛としか呼びようのないものの力に打ちのめされる。ダークなエンターテインメントとして存分に楽しませてくれると同時に、人間の尊厳と勇気を訴えかけてくる一冊なのである。