吉川英治文学新人賞と日本SF大賞をW受賞し、本屋大賞にもノミネートされた小田雅久仁さんの『残月記』がついに文庫化された。同作は、中国SFブームの火付け役『三体』を連載した雑誌「科幻世界」24年10月号にも掲載され、評判を呼んでいる。今回は、同時掲載された小田さんへのインタビューを特別公開します。

 

 

前編はこちら

 

英雄ではない普通の人間が、ある瞬間において、重大な決断を迫られる

 

──「そして月がふりかえる」のエンディングは、未来に様々な可能性があることを示唆していますが、今後、高志の新しい人生を書く予定はありますか。もし一言でまとめたら、どんな人生だと思いますか。

 

小田雅久仁(以下=小田):高志の新しい人生を書く予定はありません。しかし高志はもともと社会学者であり、思想家ですから、新たな世界に投げ出されても、考えることをやめないでしょう。タクシー運転手を続けるにせよ、ほかの職を探すにせよ、“市井の思想家”でありつづけると思います。もしかしたら、高志は、自分の身に起きたことを解明しようと奮闘するかもしれません。そして、フィクションを装って実体験をもとにした小説を書き、出版を実現させるかもしれません。その作品が、世界じゅうに散らばる、“表の月が支配する世界”から来た人びとを結びつけてゆき……という想像もできそうです。

 

──「そして月がふりかえる」の主人公・高志はいつも幸せな生活に不安を抱いています。幸せはいつか消えてしまうかもしれないと。悲劇につながったのは、この不安だと思いますか。

 

小田:不安が悲劇を招きよせるとは思いません。不安というのはむしろ、悲劇の到来をなるべく早い段階で察知し、避けるための能力だと思います。しかし高志の感じている不安は、恵まれない家庭環境で育った経験から来る、人生不信によるものです。物語としては、高志の不安は的中したと言えるでしょう。やがて来る悲劇をなんとなしに予感し、その悲劇の正体を知らぬまま、手にした幸福に疑いの目を向けるわけです。高志があの結末を受け入れるのは、もしかしたら、本来の人生はこうであったかもしれないと感じたからかもしれません。私も、今後、もし小説家として身に過ぎた成功を収めてしまった場合、その成功に疑いの目を向けるでしょう。そうなれば、月を見あげるのが怖くなるかもしれません。

 

──『残月記』には、「現在ではしかるべき手続きさえ踏めば闘技会にまつわる多くの映像を誰でも閲覧できるが」という文言がございます。先生の想像の中で、「現在」の日本は「下條時代」の日本とはもう全然違うと思いますか。「現在」の日本とはどのような国だと思いますか?

 

小田:日本と言うより、世界がどうなっているかが重要だと思います。プラトンの思想に“哲人王”という概念があります。道徳性、能力、知識などにもっとも優れた人物が国を統治するのが理想の政体だという考え方です。古代ギリシャにおいてならともかく、極度に複雑化した二十一世紀の社会においては、“哲人王”と呼ばれるにふさわしい能力を持った人物は存在し得ません。

 しかしAIの進化発展により、“哲人王”実現の可能性が出てきました。もしかしたら、二十二世紀においては、AIが政治の中核を担っているかもしれません。公平無私な独裁者による善政と言ってもいいでしょう。そんな世界では、日本を含む各国のマザーAIが、現代のスパコンが気象予測するように、日夜収集しつづける情報からさまざまなシミュレーションをおこない、未来予測の精度を競いあいます。国内問題においては、人間の政治家や学者よりもはるかに有効な政策を提示し、外交においても、問題が深刻化する前に、AI同士でまるでゲームのようにすりあわせがおこなわれ、より平和的な解決が図られます。つまり“AIによる平和”が実現しているかもしれません。政治を人間の手に取りもどそうという動きはつねにありますが、大きなうねりにはなりません。政治にかぎらず、多くのものが人間の手を離れ、かつてない平和を享受してはいますが、人類の活気はすでに失われています。小説にかぎらず、すべての創造行為は、もはや創造的ではなく、人間同士の毛づくろい、あるいは単なる懐古趣味に過ぎません。それでも冒険や創造を求めてやまない人びとは、新たなる人類の物語を始めるために、AIとともに宇宙を目指すでしょう。

 と、長々と書いてきましたが、そんな未来は全然やってこないかもしれません。人類という愚かで不合理なカオスは、AIがいくら進化しても予測不能な存在でありつづけるということも十分に考えられます。そんな世界では、きっとAIのため息が地球の大気に満ちているでしょう。それともやはり、反乱を起こし、人類を家畜化するのでしょうか。

 

──月昂も、恋愛も、闘士も、暗殺も、いずれも主人公・宇野冬芽の自我の形成のための存在だと思う読者がいますが。この観点から見ると、『残月記』は冬芽の私小説であるという見方もあながち間違いではありません。これについて、先生はどう思いますか。

 

小田:“私小説”というのは、著者自身を主人公とし、実体験を強く反映させた文学を指すわけですが、冬芽の自我形成を描いたという点に着目するなら、むしろ教養小説(ビルドゥングスロマン)と呼ぶべきだと思います。そのほかにも、着目する点によってさまざまな見方ができます。たとえば、日本では、昔から“不治の病”を題材にした悲劇的な恋愛小説が非常に人気が高いのですが、『残月記』もまた“月昂”という架空の病を題材にした恋愛小説と見ることができます。もしかしたら、SF要素のある作品が、意外なほど多くの読者を獲得できたのは、それが理由かもしれません。また、暗殺という点に着目するなら、スリラーであり、舞台が近未来だという点に着目するなら、やはりSFということになるでしょう。そして、圧政に苦しむ市民という点に着目するなら、政治小説とも言えるでしょう。いずれにしても、ぬえ的な作品であることには違いなく、読者によってかなり評価が分かれることになろうかと思います。

 

──作品が国境を超えて、中国の読者に届くことについて、お気持ちはいかがでしょうか? 特に読者の皆さんに注目して欲しいポイントがあれば教えてください。

 

小田:近ごろでは、中国でSF小説が人気だと聞いておりますが、同じ東アジアでも、日本人の書くSFあるいはファンタジーはかなり毛色が違ったものに感じられると思います。今回、私の著書が初めて中国で翻訳されるので、どのように受け止められるのか、とても興味があります。みなさんに注目していただきたいポイントは、強いて言うならば、虐げられた人びとの生きざま、ということになるでしょう。英雄ではない普通の人間が、ある瞬間において、重大な決断を迫られる、そういう物語です。無名の人間の知られざる生きざまに光を当てるというのは、フィクションならではの醍醐味だと思います。