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 二人はせっかく仲良くなったのに、病気で死んでしまってかわいそうだなあ、と思いました。健康には気をつけようと思います。おわり。
 やっと書けた。あれ? まだみんな書いてる。顔をあげているのはあたしだけ。何をそんなに書くことがあるんだろう。だいたい、みんな同じようなことしか書かないはずなのに、なんで感想文なんて書かせるんだろう。おもしろかったな、でいいじゃん。
「最低でも、原稿用紙の八割は書きましょう。でないと、再提出になりますよ」
 三十代半ばのおばさん担任が言った。あたしを見てる。大きな字で書いたのに、八割どころか二割も書けていない。そうだ、大切なのを忘れてた。
 わたしも友だちを大切にしようと思います。──これでようやく二割。
 友だち、か。
 窓際の一番前の席、由紀が必死で書いている。右斜め四十五度を見上げて……、また書く。
 何書いてるんだろ。感動なんかしてないはずなのに。教室に戻ってくるとき、よかったね、って言っても、しらっとした顔であくびをしてたのに。涙なんか、一滴も流してないはずなのに。
 涙、か。
 由紀の涙はもう何年も見ていない。泣かないだけじゃない。喜怒哀楽がほとんど顔に出てこない。笑わない、怒らない、だから、何を考えてるのかさっぱりわからない。でも、昔からそうだったわけじゃない。
 小学五年生のとき、左手にケガをしてからだ。

 ある朝、由紀は左手を包帯でぐるぐる巻きにして登校してきた。「どうしたの?」って訊くと、「夜中にお水を飲もうとして、グラスを割って切っちゃった」って言われた。
 そんなくだらないことで、握力が三になって、剣道をやめた。
 冗談を言っても笑わない。ウサギが死んでも泣かない。男子にからかわれても怒らない。
 由紀はいつも無表情。
 あたしが何かしちゃったんじゃないかな、って不安になった。
 ──最近、由紀ちゃんヘンなんだ。家にも来ないで、って言われちゃった。
 ──由紀ちゃんのおうちは、病気のおばあさんがいて大変なのよ。
 ぼやくあたしに、ママはそんなふうに言った。
 おばあちゃんがいることは知ってたけど、病気だなんて。きっと、由紀は家のことが大変で、笑ったり泣いたりするヒマがないんだ。それなら、言ってくれればいいのに。あたしが強くなれば、大変なことを一緒に手伝ってあげられるんじゃないかな。もっとがんばらなきゃ……。
 でも、どんなに強くなっても、由紀があたしを頼ってくれることは一度もなかったし、どんどん無表情になっていくばかり。
 なのに、迫害されずにここまでやってこれている。
 無表情で無愛想なくせに、ふとしたときの、ねぎらいの言葉やなぐさめの言葉がうまいからだ。由紀はちょっと違う、ってクラスの子たちは時々言うけど、その「違う」はいい意味で使われている。
 そうじゃないのに。みんな騙されてる。あのときのあたしみたいに。
 中学三年生の秋、初めて呼吸が上手くできなくなったとき、保健室で布団をかぶって震えていると、由紀が鞄を持ってきてくれた。
 ──大丈夫?
 ──心配なんかしてないくせに、どうせ、あそこに悪口書くんでしょ!
 ──わたしは、パソコンもケータイも持ってないし、そんな卑怯なことしない。
 握力三の左手が差し出された。
 ──敦子は今、暗闇のなかを、ひとりぼっちで綱渡りしてるような気持ちになってるかもしれないけど、絶対にそんなことないから。……帰ろ。
 泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、気がつくと、震えが治まってた。
 由紀はあたしのことを、ホントに心配してくれてるんだ。わかってくれてるんだ。
 由紀だけがあたしの友だちなんだ。

 と、由紀のことを考えてみても、作文用紙は埋まらない。
 シャーペンを指先で一回転。創立記念日に全員に配られた、白地に緑で校章が描かれているだけの、どこから見てもショボいシャーペンだけど、由紀ならこれをお題に短編小説が一本書けるんだろうな。例えば、……死んだカレシの形見か何かってことにして。
 止まる気配のない由紀の手を見ながら、思いっきり皮肉をこめて、念力を送ってみる。
 そんなにがんばって書いてると、またパクられるぞ。



 後ろから敦子の視線を感じる。由紀がまたあたしのことを書いてるかも、と余計な心配をしているのかもしれない。わたしと敦子のあいだに、微妙に息苦しい空気が漂うようになったのは、今年の一月からだ。原因はわかっている。
 わたしが『ヨルの綱渡り』を書いたせいだ。
 しかし、悪いのはわたしではない。仮に、わたしにも非があるのだとすれば、あの日、鞄を学校に忘れて帰ってしまったことだが、それも敦子のせいだ。
 去年の六月。高校一年生の体育祭の前日、グラウンドでクラスのパネルを設置する係になった敦子は、両足を脚立に乗せた途端、過呼吸を起こしてしまった。近くで花飾りを作っていたわたしは、体操服のズボンのポケットから、折りたたんだコンビニのレジ袋を取り出して頭からかぶせ、保健室に連れて行き、おばさんが迎えにくるのを待って、見送った。
 よくあることだった。
 敦子が鞄を忘れて帰ったことに気づいたのは、その後だ。体育祭の準備を終えてから、帰りに届けようと、敦子の鞄を机の上に置いていたので、自分の鞄は机の横にかけたまま、敦子の鞄だけを持って帰ってしまった。学校指定の同じ鞄を使っているのだから仕方ない。
 敦子の家に行くためには十五分寄り道をしなければならず、それに合わせて、ギリギリに学校を出た。自分の鞄を忘れたことに気づいたのは敦子の家に着いたときだが、あの頃のわたしには、「門限」という、学校まで引き返せない事情があった。
 財布もケータイもポケットに入っているしまあいいか、と思ったが、後悔したのは、夜、ベッドに入ってからだった。
 鞄に原稿を入れていた!
 四百字詰め原稿用紙百枚の手書き原稿を、学校帰りにコンビニでコピーしようと思い、クリップで綴じたまま入れていたのだ。
 まあ……、鞄なんて、誰も開けない、か。開けない、開けない。
 そう自分に言い聞かせ、体育祭の朝、いつもより早く学校に行くと、机の横にかけたままの鞄はあったが、中を確認すると、原稿だけがなかった。
 誰かに盗まれた? 最悪だ……。
 名前を書いたものを鞄に入れていなかったのは幸いだったが、自分が書いた小説を親しくもない他人に読まれるくらいなら、裸の写真をばらまかれる方がマシだった。
 体育祭どころではなく、暇ができると、からになった校舎に戻り、原稿を捜しまわった。教室、図書室、情報処理室、化学室、調理室、部活動に使われるところを中心に、ロッカーやゴミ箱の中まで捜したが、見つけることはできなかった。
 念のため、職員室も捜した。起動させたままのパソコン、三年生の成績表、こんなに無防備でいいのだろうか、とあきれてしまうようなものは見つけても、原稿だけは見つけることができなかった。
 あんなにがんばって書いたのに。でも、これ以上捜しても無駄だろうな。仕方ない。
 原稿は永遠に出てこないものと思うことにした。
 だが、思いがけないかたちで、敦子の目にとまることになってしまったのだ。


ヨルの綱渡り

 才能を回収するには、たった一度の跳躍で充分だった。
 才能とは天からの贈り物ではなく、期間限定で貸し出されるものだということを、いったいどれくらいの人が認識しているのだろう。
 少なくとも、十七歳の少女、ヨルは知らなかった。「永遠などない」と世界のすべてを知り尽くしたような顔で、友情や愛について語ることはあっても、才能と永遠の関係については、想像したこともなかったのだ。
 愚かなヨル。
 ヨルの世界を闇で覆い尽くしたのは、ヨル自身だ。
 明けることを知らないヨルの世界。彼女に見えるのは、足下から伸びるたった一本の細いロープだけ。高さも長さも、どこへつながっているのかも、わからない。
 だが、これだけは感じることができた。
 足を踏み外せば、世界が終わる。
 怖い。
 立ちすくむヨルの耳に、低い足音が聞こえてくる。徐々に迫り来る足音。
 闇の支配者だ。ヤツに捕まれば、ここから永遠に抜け出すことはできない。
 ヨルはおそるおそる、ロープの上に足を一歩踏み出した。
 ヨルの綱渡りの始まりだ。

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 このままじゃ、再提出だ。でも今年は、「敦子、文章は己を表す鏡だぞ」とか、説教されないだけマシかもしれない。去年の担任の三十前のおっさん先生、ぐらはひょろくて気弱そうなくせに、やたらと気取って自慢ばかりしていた。
 ──国語教師というのは、仮の姿で、本職は作家で、○○や××といった作家を知ってるか? あいつらと学生時代、一緒に『虚無』という同人誌を作っていたんだが、今でも文学を金に換えずに、純粋に追求しているのは俺だけだ。
 ケータイ小説もろくに読み切ったことがないくらいだから、どっちの作家も知らなかったけど、本を読むのが好きな由紀は知っていた。
 小倉がある新人文学賞を受賞したのは、十一月。
 ものすごい浮かれようだったから、そんなにすごいの? って由紀に訊くと、小倉がいつも話している作家二人も同じ賞からデビューした、って教えてくれた。本が好きな人にとっては、かなり有名な賞だったみたい。
 そりゃ嬉しいだろうな。やっと仲間に追いつけたんだから。
 タイトルは『ヨルの綱渡り』。

 

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