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■黒歴史があろうとも、“キャラ変”とは生存戦略なのだ

 

40代女性M(以下=M):『内角のわたし』の主人公の森ちゃんって、サイン・コサイン・タンジェントという3つの人格を自分の中に確立しているじゃないですか。でも私の場合、若い頃は常に一個の自分として立ち向かうという戦い方しか知らなかったから、あっちで傷つきこっちで傷つき、むしろ使い分けないことで傷だらけになって、生きづらかったんですよね。でも年を重ねるにつれて、使い分けてもいいんだってことがわかってきて。

 

伊藤朱里(以下=伊藤):私も十代の時には、ブレる自分に対する嫌悪感のようなものがありました。その時点では、自分を使い分けることへの抵抗というよりも、純粋にやりづらいな、生きづらいなという苦悩だったと思うんですけど。本格的に、自我のゆらぎに対して葛藤しだしたのは、小説家としてデビューしてからでした。自分が憧れていた職業について、何か発信させてもらう立場になった時に、「本当の自分」と呼ばれるものの薄っぺらさにすごく悩んで葛藤した時期がありました。実は、今もずっと続いていて……。

 だけど、小説ってそういうゆらぎを許容するものだし、そうじゃないとつまらない。そう思って開き直ってからは、ちょっと楽になってきました。

 

M:今の伊藤さんのお話を伺って、『内角のわたし』を、高校生か大学生の時に読んでおきたかったなーって思いました。一番わけがわからず苦しかったその頃に、「いいじゃんそれで」と言ってもらえたら、こじらせずに、もうちょっと若くから生きやすかったのかなって。

 伊藤さんが「本当の自分とは何か?」と白黒はっきりつけずに、グレーを許容できるようになったのって、いつごろからですか?

 

伊藤:十代の頃は、白か黒はっきりしない人や自分自身が嫌、みたいな過剰反応をしていました。でも、そんな自分だと全然楽しくないし、他の人も傷つける。このままで生きていくのは嫌だなって思って……。二十歳ぐらいの時に、意図的に性格を変えたことがあるんです。ある程度、ちゃらんぽらんになることを自分に許容したんです。

 

M:そうだったんですね! 

 

伊藤:二十歳くらいで、「正解よりも大事なもの」を優先してみようと考えたんです。ある程度、周りも自分も楽しく生きる方が、正解を追及するよりも大事なことだったりするかもって思って。それがグレーを許容する第一歩だったのかな。

 だから大学1年生の頃に出会った子とかに「あなたはこうだったよね」みたいなことを言われると、「やめて-!」って言いたくなります (笑)。

 

M:私も母に、「アンタは白黒ハッキリ、すぐつけすぎ。大人はそのグレーを楽しむものなのよ」って言われたんですが、その大人の嗜みが全然理解できなくて、ずっと苦しかったんですよね。でも伊藤さんのお話を伺って、「自分を変えるって、自分を守ること」なんだなって思いました。

 

30代女性T(以下=T):なるほど。わたしも中学生のとき「キャラ変」したことがあるんですが、そうすると、それまでの過去をいわゆる「黒歴史」だと感じてしまうんですよね。だけど、生きるための生存戦略として、私達は「キャラ変」してたのですね……。

 

20代女性O(以下=O):今のお話を聞いていて、私は営業の仕事をするようになってから自分のキャラクターが確立されたって気がつきました。初めの頃「明るく元気なキャラクター」を意識していて、日頃の3倍くらい高いテンションで挨拶をして、明るい自分にスイッチを切り替えていました。

 それがいつの間にか定着しましたが、今は、その定着した自分に救われることもあります。プライベートで嫌なことがあったとしても、仕事へ行ったら、いつもの元気な自分が出てくるから。職場での明るい自分に引っ張ってもらっている一面があります。

 

M:すごくいい「自分」の使いわけですね! そこにいたるまでも、きっと試行錯誤の連続ですよね。ここまではムリだけど、ここまでだったら心地いいかもって、出力を調整したり、TPOを考えるようになったり。

 

T:自分を変えることには苦しさもあったけど、みんなそうやって大人になってきたんだって、よかったって、今ちょっと安心しました。

 

■ほとんど意地として世に出したかった小説

 

O:『内角のわたし』を読むと、主人公の森ちゃんが「社会に自分の味方は誰もいない」と感じているのがすごく伝わってきたのですが、もし私が森ちゃんとお話できるとしたら、敵ばかりじゃなくて味方もいるよ!と伝えたいです。

 

伊藤:たしかに、この作品では、わかり合えると思っていた相手とも「どこまでいっても他人だよ」という突き放した視線がありますよね。それは私自身が、人に寄りかかることの怖さを感じているからかもしれません。

 だけど今お話を伺っていて、この物語は、主人公が、もしかしたら理解してくれるかもしれない「誰か」と関わろうとする第一歩を踏み出すまでの小説だったのかなと思いました。いつか出会うための準備段階を描いてきたのかなって。

 

T:自分の内側を見つめてばかりいた森ちゃんが、外に目を向けるようになっていくラストシーンが、私は特に好きです! 

 

伊藤:ありがたいです。この作品には思い入れがあるというか、実質ほとんど私の意地として世に出したかったんです。私が必要だと思うから書きたいんだ! っていう気持ちがすごく強かったので。この小説も、これから必要とする人との出会いを求めて、外の世界に出て行ってくれたらいいなって、今すごく感じています。

 

T:これから読む人に向けて、メッセージがあればお聞きしたいです。

 

伊藤:最初のほうは、戯画的な面白さを追求して書いているので、コミカルさにのっかって楽しんで読んでいただければと思います。そして読むうちに、「あれ、これはもしかしたら遠巻きに笑っていられない、自分と近い問題なんじゃないの」って引き込まれてくれたら、すごく嬉しいです。

 それこそ、主人公の森に対して、「友達だったらなんて言ってあげるだろう」とか、「自分が彼女の周りの一人だったらどうするだろう」とか、そういう風に読んでいただくことで、人に対する接し方も変わっていくんじゃないかとも思います。

 一方で、小説って「こうかもしれないし、ああかもしれないし、でもわかんない」が許される、数少ないツールだとも思っています。みんな今、正解が欲しい中で、「最後まで読んでみたけどわかんなかった、でも忘れられないな、こういうことあるんだな」と思っていただけたら、本当にそれだけで嬉しいです。

 

【あらすじ】
愛され守られていたい。自立し強くありたい。無関心で平穏に過ごしたい。
歯科助手のアルバイトをしている森ちゃんの中では、3人の「わたし」の意識が日々めまぐるしく移ろう。日常生活でも四六時中、相反する内側の声に引き裂かれ、仕事が終わるとゲームの世界に逃げ込むのが常だった。
そんなある日、職場の「新人くん」が同じゲームにはまっていることがわかり、彼とゲーム内で〈友達〉になるが……。
可愛いに囚われ、強さに縛られ、諦めに蝕まれ、その先で彼女が目にするものとは――?
一人の女性が見つめる世界の歪みはきっと、今を生きるわたしたちの現在地だ。

 

伊藤朱里(いとう・あかり)プロフィール
1986年生まれ、静岡県出身。2015年、「変わらざる喜び」で第31回太宰治賞を受賞。同作を改題した『名前も呼べない』でデビュー。他の著書に『稽古とプラリネ』『緑の花と赤い芝生』『きみはだれかのどうでもいい人』『ピンク色なんかこわくない』がある。