『きみはだれかのどうれもいい人』や『ピンク色なんかこわくない』など、現代を生きる様々な立場の女性たちを克明に描いてきた伊藤朱里さん。新刊の『内角のわたし』で描いたのは、生きづらい社会をサバイブするために、自分の中に3人の〈わたし〉の声を抱えているという女性だ。一風変わった主人公だが、可愛いに囚われた「サイン」、強さに縛られた「コサイン」、諦めに蝕まれた「タンジェント」としてユーモラスに描かれる声たちの葛藤は、私達現代人の誰もが抱える生きづらさを見事に体現する。一人の女性を通して描かれるこの世界の歪みは、私達みんなの現在地である――そんな普遍性を持っている本作について、著者の伊藤朱里さんと、版元である双葉社の女性社員3名が語りあう。
■「社会に声なんかあげている余裕がない」人の声をリアルに書きたかった
伊藤朱里(以下=伊藤):もともと「確固たる自分というものがない」ことにすごく悩むところがあって。いつも自分の中で色んな自分がケンカしていて、ぶれやすかったり、誰かの言葉に簡単になびいてしまったりして。そういう自分の芯のなさが怖いなという気持ちがあり、それが『内角のわたし』という小説を執筆するきっかけとなりました。
30代女性T(以下=T):確固たる自分がないというのは、私も日々感じています! 『内角のわたし』では、主人公の森ちゃんという女性の中に「甘えたい」「厳しくしたい」「曖昧にしていたい」という3つの人格がありますが、伊藤さん自身も、脳内ではいろんな自分がせめぎあっているんですか?
伊藤:小説ほどくっきり分かれてはいないんですけど、ありますね。たとえば作家としてインタビューを受けたときは、それっぽいことをそれなりの顔で語るけれども、実際は自分の家に戻れば誰にも見せられないような怠惰な自分がいたりします(笑)。もう何も考えたくないっていう日もあれば、理不尽な社会の出来事に憤る日も、もういいじゃんみんなでご飯食べて寝よ! みたいな日もあって。でも、作家という立場としては、そんなこと言っちゃいけないんだよなあって感じています。
T:小説家って、「ちゃんと意見を持っていて当然」と周囲から思われがちですよね。
伊藤:そうですね。だから「社会の全てのものに対して意見を持ってなきゃ」と悩んだ時期があって。でもさすがに、もう疲れたなって思っています(笑)。
前作の『ピンク色なんかこわくない』で自分の意見をあまり求められない「母親」のことを書いた時に、社会の中で主張できる人だけじゃないということを意識しました。多くの人が、目の前の子育てや仕事に対処するのに精一杯で、社会について考えている暇なんかない。その人達に対して、「それは怠惰だよ」って叱ることなんかできないなと。この「声なき人」というか、「声なんかあげている余裕がない」という人の声を、ブレている私だからこそリアルに書けるんじゃないかなっていう気持ちがあったんです。
20代女性O(以下=O):この小説で描かれる、一人の人間の中に3つの「声」があるという設定にすごく共感しました。私も、日々使い分けてますね。私はふざけたキャラクターっていうのが定着しているのですが、それが楽ちんっちゃ楽ちんなんです。でも実際は、頭の中で色んな自分が会議しています。その主張のどれを外に出すかで、周りの人からは「私」が構成されてしまうんだなあって。
伊藤:小説家も「こういう小説を書いてるから、こういうキャラクターだろう」みたいに、「社会の生きづらい女性をいっぱい書いてるんだから、あなたも生きづらかったんでしょ?」と言われることがあります。画一的なキャラクターというものを、みんなすごく欲するんだなあと感じますね。
■「社会とのチューニング」ができないから苦しい
T:読んでいて印象的だった人物は、作中に登場する歯科医院長です。「男は女を守るもの」という価値観の、よく言えばレディーファースト、悪く言えば男尊女卑な価値観で生きている人物なのですが、この、悪気はないけれど絶妙に嫌な感じがリアルで(笑)。
そんな院長も内心では「ちょっと前はこれが常識だったのに」という焦りも感じていて。時代が変わっていくことによる認識のズレは、女性男性に限らず起きていますよね。いつか私達だって老害と言われるかもしれないし、自分の考えははたして今それでいいのかと、「常に疑う目を持つ」というのは、誰にとっても必要な視点なんだろうなって身につまされました。
伊藤: いつまでも同じ場所にいられないっていう恐怖はすごくありますよね。20代の時はただ自分が年を重ねていくことに対する恐怖があったけど、30代になったら、社会でちゃんと機能しているかなっていう恐怖に変わった気がします。
O:変わるって怖いですよね。作品の冒頭でも似たシーンが描かれていましたが、今まで好んで買っていた可愛い系統のお洋服を試着したとき「似合ってない…」って自分の容姿の変化を感じてがっくりしたことがありました。あと、私は転職してきて8ヵ月目くらいですが、そこに新入社員が入ってきたことで、今までのような末っ子の気分ではいられなくなる焦りなど。大人になってきているのですが、その変化が怖いなとも思っています。
40代女性M(以下=M):それって「求められることの変化」に自分がどう対応するかということですよね。例えば「もう社会人何年目なんだから」と求められるものががらりと変わっても、すぐに自分が変われるかっていうと、対応できるものと、できないものがあるから。
実は、年末年始と、新年度の4月1日がすごい苦手だったんですよ。寝て起きて、「1月1日、はい今日から新しい1年の始まりです!」って新しさを強要される感じが。社会が求めるものにチューニングするのが、いまだにちょっと苦手です。
伊藤:わかります! 「ここから新しく始めましょう」って、社会が強制的に移り変わっていく感じが怖い。
T:この「社会とのチューニング」のできなさが、『内角のわたし』の森ちゃんの生涯にわたって起きていて、その混乱が3つの声に代弁されているように感じました。
森ちゃんの中には3つの人格がありますが、おそらく最初は、周囲から可愛い可愛いと育てられた「サイン」という人格がいて、思春期頃に周囲から「そんなんじゃダメだ! 隙を見せるな!」と言われだして作った、自立した人格「コサイン」がいる。社会人になってから、「そんな尖ってちゃダメだよ」と社会から諭されて、曖昧で日和見な「タンジェント」という人格が生まれたのかな……と。社会の求めるものにチューニングをできないから、対処法としてそれぞれの人格を作り上げた。
伊藤:たぶん、先ほど話に出た医院長も、時代に要請されて「男女平等に見なきゃいけない」って、これまでとは違う社会の価値観に圧迫されているんですよね。社会の求めるものと自分がズレていると感じる、そういう苦しさなんでしょうね。
この小説に出てくる人って、この医院長ですら、「確固たる自我として一生を終えられるだろう」っていう人は実はいなくて。みんなちょっとずつすり減っていっている。
T:ああ、そうですね。この作品の主人公は若い女性だけど、その属性に本来は意味がなく、「社会とのチューニング」に苦しむ老若男女みんなの物語なんだと思います。
(後編)──に続きます。
【あらすじ】
愛され守られていたい。自立し強くありたい。無関心で平穏に過ごしたい。
歯科助手のアルバイトをしている森ちゃんの中では、3人の「わたし」の意識が日々めまぐるしく移ろう。日常生活でも四六時中、相反する内側の声に引き裂かれ、仕事が終わるとゲームの世界に逃げ込むのが常だった。
そんなある日、職場の「新人くん」が同じゲームにはまっていることがわかり、彼とゲーム内で〈友達〉になるが……。
可愛いに囚われ、強さに縛られ、諦めに蝕まれ、その先で彼女が目にするものとは――?
一人の女性が見つめる世界の歪みはきっと、今を生きるわたしたちの現在地だ。
伊藤朱里(いとう・あかり)プロフィール
1986年生まれ、静岡県出身。2015年、「変わらざる喜び」で第31回太宰治賞を受賞。同作を改題した『名前も呼べない』でデビュー。他の著書に『稽古とプラリネ』『緑の花と赤い芝生』『きみはだれかのどうでもいい人』『ピンク色なんかこわくない』がある。