かつて中国・上海には、「租界」と呼ばれる外国人居留地があった。日本での貧しい暮らしを捨て、上海租界で成功を夢見る吾郷次郎は、この地で雑貨屋を営んでいた。そんな彼のもとを訪ねてきたのが、謎の女性・原田ユキヱ。彼女は、極上の阿片を次郎に渡し、これを売りさばいてほしいと申し出る。次郎は裏社会を支配する組織「青幇」の一員・楊直と接触し、ともに阿片芥子の栽培に乗り出していくが……。

 1930年代の上海租界を舞台に、阿片と金に群がる男たちの生きざまを描いた『上海灯蛾』。この作品は、上田早夕里氏が10年にわたって綴ってきた「戦時上海・三部作」のラストを飾る一作だ。上海租界に心惹かれる理由、『上海灯蛾』に込めた思いについて、上田氏に伺った。

取材・文=野本由起

 

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フィクションによって作られた、戦前・戦中の人たちのイメージだけに、とらわれてはいけない

 

──執筆にあたり、さまざまな史料にあたったそうですが、中でも上田さんが特に興味を惹かれたのは、どのような事実でしたか?

 

上田早夕里(以下=上田):上海租界を扱ったフィクションは、小説、映画、マンガ、舞台劇など山のようにあります。ですが、改めて史料を読み、今小説を書くときには、先行するフィクションによって作られてきた戦前・戦中の人たちのイメージだけに、とらわれてはいけないと感じました。例外は常にあり、その例外こそが、むしろ私たち現代人とリンクする部分を持っている。それは非常に大きな発見でしたね。

 しかも、戦前にそういった志の高い人、倫理感の高い人たちが戦争を止めようと奔走したにも拘わらず、太平洋戦争は止められませんでした。開戦前、日本でも専門家チームがデータ分析を行っています。彼らは「この戦争は、始めたら絶対に負けます」という結果を出したにも拘わらず、上層部から「何としてでも勝つための方策を見出せ」と言われて忖度し、「確率としては非常に低いが、こうすればもしかしたら勝てるかもしれません……」という別の案も提示してしまった。そうなると、軍部はそれに飛びつきますよね。これは賭け事の心理と同じです。少しでも可能性があると言われるとそちらに賭けてしまい、かえって損害を大きくしてしまう。太平洋戦争もどうにも止められず、4年も続けたうえで負けてしまった。この事実は重いです。

 

──作中では、阿片芥子の栽培に手を染め、裏社会に入り込んでいく吾郷次郎の姿が描かれています。それと同時に、戦時下における民族、国籍の問題についても深く語られていますね。次郎自身も日本人であることを隠し「黄基龍ホアン・ジーロン」という中国名を名乗って裏社会に溶け込んでいきますし、ロシアの血を引くがゆえに、かえって軍国主義に傾倒していく関東軍の伊沢も鮮烈な印象を残しています。どのような思いで、民族について描いたのでしょうか。

 

上田:民族の問題は、現代を生きる私たちが直面しているテーマですから、必ず扱わねばならないと思っていました。実は、伊沢にはモデルがいます。著名人ではなく庶民ですが、史料を調べていると、伊沢のようにマイノリティとして差別されてきた人物が、なにかのきっかけで異民族排斥運動に取り込まれていくケースがあるんですよね。「排斥運動に加わることで、初めて、この国でひとりの国民として認めてもらえたことがうれしい」と語っていて、これは根深い問題だなと衝撃を受けました。

 差別される側から差別する側へと反転する現象は、今この瞬間にも起きています。自由や人権を求めていたはずの人たちが、何かの拍子に、帝国主義に取り込まれていく現実は、戦時中に限らず現代ともリンクするところです。名もなき庶民の中にこういう声があったという事実は、書き留めねばと感じました。

 

──確かに、伊沢のような人物は今もいますし、現代とつながっている問題ですね。

 

上田:「差別はいけない」「民族の違いを理由に、他人を拒絶してはいけない」と誰もがわかっていても、それが通じない瞬間がある。自分が伊沢のような立場になった時、ネガティブな感情を拒否して正しい道へ進めるのかと問われたら、やっぱり言い切れない部分もどこかにある。こうした人間の弱さや醜さを描くことも、物語の役割だと思います。

 

──作中では、「次は獣に生まれてこような。獣には国籍も民族の違いも存在しない。自由気儘に生きられる」という次郎の思いも語られています。このセリフにも、国籍や民族の違いを乗り越え、人々が関係を築くことへの思いが込められているのでしょうか。

 

上田:次郎も、彼と義兄弟の契りを結ぶ楊直も、伊沢も、自分の人生をかけらも反省せずに突っ走っていった。その性質を変えられない限り、次は獣に生まれてくるしかないんですよね。読者はそれを肯定してもいいし、否定してもいいんですが、悪事を働きながらもまっすぐに走り切る姿を描き、読み手の心を揺さぶるのもフィクションの役目のひとつだと思います。

 彼らを書くうえで意識したのは、奇妙な明るさです。犯罪関係のノンフィクションを読んでいると、奇妙に明るい犯罪者がいることに気づくんですよね。「自分が悪事を働いていることはわかっているから、警察に逮捕されたら素直に裁きを受けるつもりだ。でも、それまでは金儲けさせてもらう」と彼らは言うんです。人間の罪深さを表現するためにも、そういう部分は意識的に描きました。

 

【あらすじ】
1934年上海。「魔都」と呼ばれるほど繁栄と悪徳を誇るこの地に成功を夢見て渡ってきた日本人の青年・吾郷次郎。租界で商売をする彼のもとへ、原田ユキヱという謎めいた女から極上の阿片と芥子の種が持ち込まれる。次郎は上海の裏社会を支配する青幇チンパンの一員・楊直ヤン・ジーに渡りをつけるが、これをきっかけに阿片ビジネスへ引き摺り込まれてしまう。軍靴の響き絶えない大陸において、阿片売買による莫大な富と帝国の栄耀に群がり、灯火に惹き寄せられる蛾のように熱狂し、燃え尽きていった男たちの物語。

 

上田早夕里(うえだ・さゆり)プロフィール
兵庫県出身。2003年『火星ダーク・バラード』で第4回小松左京賞を受賞し、デビュー。2011年『華竜の宮』で第32回日本SF大賞を受賞する。SF以外のジャンルも旺盛に執筆し、18年『破滅の王』で第159回直木賞の候補となる。『魚舟・獣舟』『リリエンタールの末裔』『深紅の碑文』『夢みる葦笛』『リラと戦禍の風』『ヘーゼルの密書』『播磨国妖綺譚』など著書多数。