かつて中国・上海には、「租界」と呼ばれる外国人居留地があった。日本での貧しい暮らしを捨て、上海租界で成功を夢見る吾郷次郎は、この地で雑貨屋を営んでいた。そんな彼のもとを訪ねてきたのが、謎の女性・原田ユキヱ。彼女は、極上の阿片を次郎に渡し、これを売りさばいてほしいと申し出る。次郎は裏社会を支配する組織「青幇」の一員・楊直と接触し、ともに阿片芥子の栽培に乗り出していくが……。

 1930年代の上海租界を舞台に、阿片と金に群がる男たちの生きざまを描いた『上海灯蛾』。この作品は、上田早夕里氏が10年にわたって綴ってきた「戦時上海・三部作」のラストを飾る一作だ。上海租界に心惹かれる理由、『上海灯蛾』に込めた思いについて、上田氏に伺った。

取材・文=野本由起

 

私たちと共通の価値観を持つ人を通して、現代とリンクする問題を描きたい

 

──上田さんは、これまでにも1930~40年代の「上海租界」を舞台にした作品を執筆されています。そもそも上海租界は、1842年の南京条約によって開港した上海に置かれた外国人居留地です。1930年代の上海租界は、どのような土地だったのでしょう。上田さんが小説の舞台に選んだ理由をお聞かせください。

 

上田早夕里(以下=上田):当時の上海租界には欧米や日本の企業が進出し、居留者はもちろん、各国からの出張者や旅行客でにぎわっていました。西洋建築物が立ち並び、限定された区画の中で欧米とアジアの民族が入り乱れて生活する国際都市であると同時に、ひどい貧困や差別もある。この状況に、強い興味を覚えました。

 戦前・戦中の日本は軍国主義化が進み、高度な教育を受けた人の中にも他民族を見下す人がいました。しかし、上海租界で暮らすうちに、「自分たちも同じアジア人なんだ。アジアに住む他民族を差別するのは間違いだ」と考えを改めるケースもあったようです。共同租界に内山書店を開いた内山完造さんもそのひとりです。彼は書店内に、民族の違いを問わず、人々が集まって話し合える場所をつくりました。このような人々は私たちとかけ離れた存在ではなく、現代人と共通する価値観、倫理観を持っていた。彼らの視点を通せば、現代とリンクする問題を描けるのではないかと考えました。

 

──「現代人と共通する価値観を持つ人の視点を通して、現代とリンクする問題を描く」という点について、もう少し詳しく教えてください。

 

上田:現代を生きる私たちが、戦前・戦中の人々を想像する時、ある程度固定されたイメージがありますよね。今からもう90年くらい前ですから、現代人とはまったく考え方が違う昔の人たちという認識が一般的だと思います。ですが、上海租界について調べてみると、驚くことに、現代の私たちと共通する倫理観や価値観、高い志を持つ人がいたことがわかりました。

 ということは、わざわざ作家がこの時代に現代的な視点を持ち込んで、特殊な設定や人物を作らなくても、この時代を生きた現代に近い価値観を持つ人物の視点を通すだけで、現代とリンクする問題をストレートに描けるはずです。例えば戦争や民族の問題を、現代を舞台にした小説に近い形で書けるのではないかと思いました。最初に上海租界を題材にしたSF短編『上海フランス租界祁斉路三二○号』(初出:2013年)を執筆した時にこれに気づき、「今、書かねば」と思いました。

 

──そこから『破滅の王』、『ヘーゼルの密書』、そして今回の『上海灯蛾』という「戦時上海・三部作」が生まれます。作品ごとに扱う題材が異なり、今回のテーマは阿片。しかも前2作では、高い教育を受けた研究者や通訳が主役でしたが、この作品はいわゆる庶民が主人公です。この作品が生まれた経緯について、教えていただけますか。

 

上田:上海租界について書こうと考え、全体のプロットを構想した際、「これはどう考えても1作では終わらない。少なくとも長編3作は書かないと、最低限書くべきところまで到達できない」と思いました。そこで、1作ごとに扱う題材を変えるというスタイルを採ることにしたのです。さきほどの視点の話は、第1作と第2作に強く反映させました。

 三部作に共通する要素は、“科学と戦争”です。第1作の『破滅の王』は、細菌兵器と上海自然科学研究所の話ですから、ストレートに科学の話ですよね。2作目の『ヘーゼルの密書』は日中和平工作の話でしたが、作中には通訳や石油開発の話が出てきます。通訳や翻訳は人文科学、石油開発は工業関係ですから、これもまた科学に関する物語です。この2作で、政府や軍部に直接関与できた高学歴の人たちを書いたので、3作目の『上海灯蛾』は庶民を描くことにしました。阿片は医薬品として研究と販売が始まり、のちには各国軍部の戦費調達にも使われていきます。ですから、これも“科学と戦争”を巡る物語なのです。

 

(後編)──に続きます。

 

【あらすじ】
1934年上海。「魔都」と呼ばれるほど繁栄と悪徳を誇るこの地に成功を夢見て渡ってきた日本人の青年・吾郷次郎。租界で商売をする彼のもとへ、原田ユキヱという謎めいた女から極上の阿片と芥子の種が持ち込まれる。次郎は上海の裏社会を支配する青幇チンパンの一員・楊直ヤン・ジーに渡りをつけるが、これをきっかけに阿片ビジネスへ引き摺り込まれてしまう。軍靴の響き絶えない大陸において、阿片売買による莫大な富と帝国の栄耀に群がり、灯火に惹き寄せられる蛾のように熱狂し、燃え尽きていった男たちの物語。

 

上田早夕里(うえだ・さゆり)プロフィール
兵庫県出身。2003年『火星ダーク・バラード』で第4回小松左京賞を受賞し、デビュー。2011年『華竜の宮』で第32回日本SF大賞を受賞する。SF以外のジャンルも旺盛に執筆し、18年『破滅の王』で第159回直木賞の候補となる。『魚舟・獣舟』『リリエンタールの末裔』『深紅の碑文』『夢みる葦笛』『リラと戦禍の風』『ヘーゼルの密書』『播磨国妖綺譚』など著書多数。