かつて上海には「租界」と呼ばれる外国人居留地があり、そこでは西洋建築物が建ち並び、欧米人たちが我が物顔で闊歩していた。だが、夜ともなれば街の表情は一変。売春や阿片の密売、賭博場の経営をシノギとする青幇が支配する「魔都」と化した。
主人公の吾郷次郎は、そんな上海の悪徳と繁栄ぶりに惹かれ、成功を夢見て渡ってきた日本人の青年。租界で商売をする彼のもとに、ある日、謎めいた日本人女性が極上の阿片と芥子の種を持ち込む。次郎は、青幇の一員である楊直に接触し、それを機に上海の裏社会へと深く踏み入っていく――。
魔都の輝きに魅せられ、熱狂し、燃え尽きていった男たちの物語『上海灯蛾』の読みどころを「小説推理」2023年5月号に掲載された書評家・大矢博子さんのレビューでご紹介します。
■『上海灯蛾』上田早夕里 /大矢博子[評]
戦前戦中の上海を舞台に繰り広げられる、裏社会の謀略と戦い。日本人青年・次郎はそこで何を見つけるのか。上田早夕里が描く破滅のノワール登場!
2017年に刊行された『破滅の王』で、実在した上海自然科学研究所を舞台に満州事変から太平洋戦争終結までを描いた上田早夕里が、またも同時期、同場所を扱った現代史エンターテインメントを発表した。しかし科学者を通して戦争の狂気を中心に据えた前作とは対照的に、今回は日本の寒村から上海に渡ってきた青年が主人公の、謀略とアクションのノワール小説だ。
1934年の上海。成功を夢見て日本からやってきた吾郷次郎が営む雑貨店に、ある女が最上級の阿片と芥子の種を持ち込んだ。次郎は彼女を上海の裏社会を支配する青幇の一員・楊直へ取り次ぐが、それが縁で次郎は楊直のもとで芥子栽培にかかわることに。
楊直の世話になる生活はそれまでの貧乏暮らしからは想像もつかないほど贅沢で、次郎はこれを足がかりにさらにのし上がってやろうと決意する。しかし、やがて第二次上海事変が勃発。阿片を狙う関東軍と青幇の間で対立が深まり、楊直と次郎の運命を大きく動かしていく……。
500ページを超える長編だが、読み始めたら一気呵成だ。上海の煌びやかにして猥雑な、ねっとり絡みつくような空気の描写が実に秀逸。その中で繰り広げられる知略や駆け引きの面白さ、肉を打つ音や血の匂いまでもを感じさせるアクションに、あっという間に取り込まれた。情報を流しているのは誰か、殺しを指示したのは誰かというミステリの醍醐味もたっぷり。
何より人物がいい。いつ裏切られるかわからない中、己の才覚しか頼みにしないと言いつつもここ一番では義理を重んじる、情に厚い次郎が実に魅力的だ。
だがやはり本書もまた、狂気を描いた作品なのである。次郎が目をかけた苦学生の伊沢の、読んでいて胸が苦しくなるような変化がその象徴だ。次郎も、伊沢も、そして楊直も、それぞれ出自にコンプレックスを抱えている。それに抵抗し、夢を抱いて上海を訪れた。その情熱の行き先がこれなのか。求めた居場所がそこなのか。物語がエキサイティングであればあるほど、登場人物たちが好ましければ好ましいほど、どこか虚しさがつきまとう。特に次郎と伊沢の関係の切なさと言ったら! だからこそ運命に翻弄されつつもあきらめない次郎が救いなのだ。
破滅へと突き進む男たちの、熱く切ないドラマである。ぜひ『破滅の王』と併せてお読みいただきたい。今年を代表するノワールだ。