忠俊が下城して自邸に帰ると、妻の奈津が「お帰りなさいませ」と笑顔で迎え出る。
腰の太刀を外して奈津に託すなり、深い吐息が出てしまう。
「どうなさいました、御城で何か?」
「竹千代様の傅役を仰せつかった」
「それは、まことに栄誉なことでございます!」
奈津は賞賛の声を上げた。忠俊は「うむ」とだけ返すと、居室に入った。その後ろに従って奈津は部屋に入ると、窺うように問いかける。
「お顔がさえませんが?」
忠俊は脇息にもたれて、暗澹として言った。
「ようは、私にしかつとまらぬ役目だということだ」
「将軍後嗣の傅役があなた様にしかつとまらないなど、誇らしいことにございましょう」
「そうではない。竹千代様の乳母とうまくやっていけるのが、私にしかつとまらぬということだ」
「は……?」
「その乳母、福という名の女なのだが、何と言うか……かなり気が強い。おまけに、江様に憎まれている」
「ま」
奈津が目を丸くする。その表情に、先ほど秀忠が浮かべた苦笑と共通するものを感じた。憐みに近い苦笑だ。奈津は、その表情のまま言った。
「つまり、かなり気が強い乳母と、将軍秀忠様のご正室、御台所である江様との間に立って、うまくやっていける傅役は、忠俊様にしかつとまらぬと」
「私は仰せつかった役目は何があろうと最後までまっとうする。この気質を見込まれての抜擢なのだろうが……」
「何と言いますか……この期に及んでは、損なご性格ですこと」
奈津は口に手を当てて「ほほ」と笑った。忠俊は「笑うな」とむっとした。奈津は真顔に戻って「失礼いたしました」と謝った。
忠俊は「ここだけの話だがな」と前置きして言った。
「竹千代様が虚弱な原因は、福にある気がしてならん」
「虚弱な原因が、乳母に?」
「竹千代様はお生まれになった時、自力で乳を吸えぬほど弱々しいお体だったという。福の乳付けと養育で、なんとかここまでお育ちになられたのだ」
「それでしたら、乳母として立派にお役目を果たしたということではないですか」
奈津の受け答えは的確で要領を得ていて、その上、素直で従順だ。
(他の女子たちには、この聡明さはないな)
奈津を改めて惚れ惚れと見やってから、問いかけに答えた。
「しかし所詮、乳母。乳を必要としない年頃になれば退けばいいものを、お体が弱いという理由で側仕えを続けている。結果、竹千代様は何をするにも福に甘えて、何もできない子になってしまわれたのだ」
「何もできない子、というのは」
奈津が眉根を寄せる。忠俊はやや声を落として「竹千代様が悪いのではない、福が悪いのだぞ」と言って続けた。
「何もかも福が先回りしてやってしまうから、満三歳になっても言葉も出ず、ようやっと四歳になろうかという頃に、か細い声で〈ふく〉と呼んだのが初めての言葉だったらしい。ご自分の意思を言葉で伝えられるようになったのは、ここ最近ではないだろうか」
「ここ最近って……御年十二になられるのでしょう?」
そんな大げさな、と奈津は目を丸くする。忠俊は「大げさに言っているのではない」と返す。
「江戸城に出仕する者の間では、言わずと知れたことだ」
「まあ……」
「食が細い上に偏食もひどく、米も粒の固さや色つやの微妙な違いにこだわってしまう。福は炊き具合を変えたり、茶飯にしたり、赤飯にしたりと、毎食さまざまな米飯を支度させているというが、炊事役の間では『七色飯』などと揶揄されている」
「七色飯……」
奈津は唇をきゅっと噛む。笑いそうになったのだろう。先ほど忠俊が「笑うな」と窘めたのを反省しているのか、本当に素直な女子だ。
奈津は一呼吸置いてから、心底案ずるような口調になって言った。
「ですが、食が偏ってはお体もますます弱くなられましょう」
「ああ。蒼白いお顔で、体格も細いままだ。季節の変わり目には必ず体調を崩される。そんな竹千代様を強く逞しい将軍後嗣に鍛え上げるのが、私に与えられた役目」
「なんとも難儀な御役ですね。それに、お母君の江様は噂に聞くと国松様の方をご寵愛なさっているとか……」
国松の名に、忠俊は「それよ」と悩ましく頷いた。
国松とは、竹千代の二歳年下の弟のことだ。
大きな産声を上げて誕生した国松は、これぞ待望の男子、という姿で生まれてきて、乳母をつけることもなく母親である江の乳で育てられた。それはまさに、竹千代が乳母の福に頼りきった子に育ってしまったことを、江が苦々しく思っていることの証だった。
忠俊は、ため息まじりに言う。
「江様は事あるごとに、竹千代様と国松様を比べられる。それをまた福が不快に思って、余計にこじれるのだ」
その間に立たされるのかと思うと、気が重くてならなかった。
奈津は素直に問うてくる。
「竹千代様も国松様も江様の御子であるのに、どうして江様は比べてしまうのでしょう」
「将軍にふさわしきはどちらなのか、という思いゆえであろうな」
「その江様のお考えに適うのが、国松様だと?」
「そうだろう。江様はかの織田信長様の姪姫。信長様が天下布武を掲げていたように、強く勇ましき者が頂に立つべきとお考えなのだろう」
蒼白い顔の病弱な将軍など、戦場に出たところですでに負けているようなものだ。かたや国松は丈夫で、何事にも怖気づくことがない。今では「国松様はできるのに竹千代様はできないことばかり」と城中では誰もが囁き合うほどだ。
奈津は、案ずるように言う。
「乳母の福殿は、国松様が褒められるほど竹千代様のお立場が危うくなると、不安でならないでしょうね」
「そうよ。ゆえに江様と福が場を同じくすると、何が起こるかと、周りの者は気が気でないのだ。いつだったか、秀忠様が国松様を褒めると、江様が〈私の乳が良かったのでございましょう〉と言ったことがあってな。その時の福の形相は、凄まじかったぞ。あのまま刺し違えるかと思った」
思い出すだけでも身震いがする、と肩をすくめると、奈津は「まあ」と目を丸くして、こらえきれず笑い出してしまった。
「忠俊様の考えすぎにございます」
笑いすぎて涙を拭う奈津を見やって、忠俊はため息まじりに呟いた。
「考えすぎ、かのう……」
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