最初から読む

 

 会社の昼休み。退職の挨拶として持参した菓子折りを部署の人たちに手渡ししながら席を回っていたときに、青羽さんとぎこちない会話を交わしていた。

 

「青羽さん、これまで大変お世話になりました」

 こちら心ばかりですがお好きなものをどうぞ、と個包装された五色のマドレーヌが詰められた箱を私が差し出すと、「わざわざありがとうございます」と青羽さんは小さく頭を下げた。「えーと、すいません。選びますんで、ちょっと待ってくださいね」

 口元に拳を当て、石像のように固まっている青羽さんを五秒ほど眺めていたところ、

「これにします」

 と、ようやく緑色の宇治抹茶味のマドレーヌを恭うやうやしく手に取り、「ところでその、今日のことなんですが……」と青羽さんが声をひそめた。

「あ、はい。今日は引継ぎ内容の最終確認だけですし、残業もないと思いますので、私は何時でも大丈夫ですよ」

「ありがとうございます。あの、すいません、こちらから誘っておきながら僕が残業で少し遅れそうで、差し支えなければ十九時頃に合流でお願いしたいのですが、いかがでしょうか」

「分かりました。待ち合わせはどこにしましょう?」

「そうですね、ハチ公前は混みますし、あ、潮田さんモヤイ像って知ってます? あそこの前なんかどうでしょう」

「ああ、あの、おっきい顔の?」

「はいそれです。それと、潮田さん今日その恰好のままいらっしゃいますよね?」

「え? ああ、はい」

 質問の意図が分からず、私は自分が着ているパステルベージュのすっきりとしたブラウスと、グレーのストレートスラックスという無難なオフィスカジュアルの服装を一瞥してから、何か問題でも? と目で問い返す。

 私の疑問を察知したのか、「いや、すいません」と青羽さんは眉の端を人差し指でぽりぽりと掻きながら、「待ち合わせなので、一応聞いてみただけです」と何気なく笑った。

 何だろう? もしかして何か洒落こいた店でも行くつもりなのだろうか。いや、青羽さんに限ってそんな選択肢は考えられない。何より私の中で、今日これから青羽さんと話す内容についてはおおよその見当がついていたのだ。

「あの、青羽さん。ひとつ聞いておいてもいいですか?」

「はい、なんでしょう?」

 私は声をひそめて尋ねた。

「もしかして今、金銭面でお困りなことでもあるのでしょうか」

 青羽さんが突然私に連絡を寄越してきた理由をこの土日の間あれこれ考えた結果、お金にまつわる相談事をされるのではないか、という結論に辿り着いていた。つまり、どういうわけか知らないが青羽さんが金銭的に相当困っていて、金を工面しようにものっぴきならない事情で親族や友達といった深い関係の人間から借りるわけにもいかず、苦肉の策として会社の人間である私に頼ろうとしているのではないかという推論だ。いやでもあの真面目そうな青羽さんがまさかそんな話をしてくるだろうか、と最初は馬鹿馬鹿しく思っていた推論だったけれど、この歳になるまで子供も持たず、特段金のかかるような趣味もなさそうな私を見て〝こいつなら金持ってそう〟と思われたのかもしれないし、私が青羽さんにとって金輪際会社で会うことがない人間であることも金を借りる上では好条件だろう、といった感じでぐるぐる考えているうちに段々と妄想が現実味を帯びてきてもはやそうとしか思えなくなり、それにしてもほとんど関わったことがない同僚の私に金を無心してくるなんて見かけによらずいい度胸だな、などと思考を良くない方向へエスカレートさせながら、少し険のある声で青羽さんに尋ねてみたところ、

「はい?」

 青羽さんは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔でつぶらな目を瞬しばたたかせた。

「え、違うんですか?」

「すいません、なぜ急にお金の話が……?」

「えっと、てっきりお金を貸してほしいとか、楽に稼げる方法を教えますよ的な話をされるとばかり思っていたもので」

「まさか! 潮田さんにそんなお話はしませんよ」

「えっと、ならどうして、急に私なんかと……?」

 そのとき、手にマドレーヌを持ったままの青羽さんが一瞬固まったように見えた。そして少しの間を置いて、

「……すいません、この場でお伝えするのは、ちょっと。後ほどしっかりお話ししますので、今はどうかご容赦ください」

 と、深々と頭を下げられる。青羽さんにそこまでされるとは思っていなかったので私はすぐに言葉を返せず、私たちの間には一瞬静寂が訪れた。

 一体何をこんなにも隠しているのだろう? この時の私は、青羽さんに誘われたことを不審がりながらも、いざ彼を目の前にしてみると警戒心や危機感といった類のものは自然と霧散していた。というのも、雄々おおしさなんてまったく感じられない痩せ細った体つきに、高くも低くもない身長、そして年齢の割には随分と落ち着いた、もっと言えばおじいちゃんのようなゆっくりと柔和な口調の青羽さんにそんな防衛的な感情を抱くこと自体が難しい。一挙手一投足が全体的におっとりしていて、人畜無害そうな顔も含めて何だか昔実家で飼っていた亀に似ている、なんてちょっと失礼な感じで青羽さんのことを思いながら、万が一この人に襲われたとしてもギリ逃げ切れそうだというわずかな慢心もあって、約束通り青羽さんと二人で会うことに決めたのだった。

 青羽さんが何をそこまで頑なに隠しているのかまったく想像がつかないまま、ひとまずは彼の何かしらの事情を斟しん酌しやくすべきだと考えた私はこれ以上詮索するのは諦めて「……分かりました。では、後ほどよろしくお願いします」とだけ答えると、青羽さんは再度深々と頭を下げてきて、「こちらこそ、よろしくお願いします」と言って、あっという間に私たちの会話は終了した。

 職場での会話は、これきりだった。

 

 そうして今。約束をしていた青羽さんではなく、突如目の前に現れた謎の若い女性に従って、私は夜が深まりつつある道玄坂の大通りをぐんぐんと歩かされている。歩きながら、先ほど青羽さんにこっそりと送信した〈あの、先ほどとある若い女性に突然声をかけられて、そのまま行き先も分からずにただひたすら歩かされているのですが、これって青羽さんご存じなんですよね? ていうか今どちらにいらっしゃるんですか?〉という私のメッセージには一向に既読が付かない。なぜだ。もしこの状況に青羽さんが本当に関わっているのであれば、彼は一体どういうつもりなのだろうか。前を歩く若い女性との間に先ほどからこれといった会話はなく、私の不安などまるで意に介さない様子で彼女は颯爽と坂道を上っていく。道路脇に並んでいる高級そうなレストランやどこにでもありそうな安っぽい大衆居酒屋を次から次へと通り過ぎ、この店か? いやここでもないのか……、と何度も心の中で独りごちながら、一体どこまで連れていかれるのだろうと不安を募らせていると、

「こっちです」

 目の前の女性が急にそう言って、怪しげなアクセサリー店の角を曲がった。

 私もあわてて追いかけて脇道に入る。そこは狭い路地裏のような薄暗い道だった。両脇には古い建物が犇くように並んでいて、その雑然とした隘あい路ろが入り組むようにずっと奥まで続いている。そんな道とあって周囲に車や人通りはなく、つい先ほどまで歩いていた道玄坂の大通りとは打って変わって辺りは不気味なほどの静寂に包まれていた。電柱や建物のブロック塀にはそこかしこに大胆な落書きがされていたり、視界の両端に映る怪しげな店の前にはこれまた怪しげな男たちが煙草かどうかも怪しいものを吸いながらジロジロとこちらに視線を向けたりしている。

「ひぇ……」声には出さず、心の中だけで呟き、周囲となるべく目を合わせないように視線を下に落とす。次の瞬間、何やらすばしっこい動物が足元をさっと横切って私は今度こそ声が漏れそうになった。猫のような、あるいは大きめのネズミのような残影に心臓をバクバクさせながら足元の地面に着目すると、そこはあり得ないほど汚かった。空き缶や煙草の吸殻などが汚らしく散乱していて、さらにはよく分からない液体でコンクリートの随所が黒々と濡れている。私は撒菱まきびしを避けるような動作でそれらを踏まないように最大限の注意を払いながら、その汚れた道を平然と歩いている目の前の若い女性に必死に付いて行く。

 歩きながら、思い出したかのように、尋常ではないほどの恥ずかしさを感じた。オフィスカジュアルに身を包み、パンプスをカツカツと鳴らしながら怪しげな路地裏を歩いている中年の女性。私という存在のすべてがこの場ではあまりに浮き過ぎていて、〝一刻も早くここから立ち去りたい〟と心の中で念じていたちょうどそのときだった。

「潮田さん、着きましたよ!」

 目の前の女性が急にこちらを向いて立ち止まり、すぐそばに見える雑居ビルの一階にある真っ黒な扉を手で指し示して、

「お待たせしました、こちらです!」

 満面の笑みで、私にそう言い放った。

 ブッダ、シブヤ、クラブ……?

 

この続きは、書籍にてお楽しみください