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 眩まばゆい昼白色の明かりではっと目を覚ますと、天井の電気を付けたまま、いつの間にかソファーで寝落ちしていたことに気がついた。腹部のあたりで握りしめていたスマホに目をやると時刻はまだ夜の十時前で、母からのLINEに〈分かりました〉と返信してからソファーでごろごろしているうちに二十分間ほど寝てしまっていたようだ。今日は少し飲み過ぎたのかもしれない。早くシャワーを済ませて寝てしまおう、と卓袱台の上に置かれたままのカップ麺のゴミを捨てようとソファーから立ち上がったその瞬間。

 ブブッ。

 と鈍い通知音がスマホから聞こえた。LINEの通知音とは違う、社内専用のビジネスチャットアプリの通知音だったので条件反射的に頭が仕事モードに切り替わった。

 緊急の連絡かも? と少し身構え、手早くスマホのロックを解除してチャットアプリを確認する。

〈潮田さん、お疲れ様です。本日はありがとうございました。ところで急なお誘いで申し訳ございませんが、来週月曜の仕事終わりの夜、お時間あったりしますか。ご検討いただけると幸甚です〉

 え? なにこれ?

 差出人名には【青羽雄ゆう司じ】という表示がある。

 間違いなく今日の歓送迎会で少しだけ会話をしたあの青羽さんなのだけど、あまりにも唐突かつ情報量の少ないメッセージに理解がまったく追いつかず、一体なぜ? とスマホを持ったままソファーの前でしばし立ち尽くす。えっとこれはつまり、あの青羽さんが個人的に私と会いたがっている、ということ?

 そもそもビジネスチャットの使用にあたって、私的利用に端を発する様々なトラブルを避けるため、人事部が定期的に会話の内容をチェックしているという脅しのような噂は私でも知っているし、それにハラスメント防止的な観点から今みたいな勤務時間外のメッセージのやり取りが原則禁止されていることは社内でも定期的に注意喚起がなされているので、青羽さんも当然それを知っているはずだ。あの物静かな青羽さんがビジネスチャットを私的利用するリスクを冒してまでよりにもよって退職間際の私に会いたい理由がまったく思い当たらず、少しの間考え込んで、

〈こちらこそ今日はありがとうございました。お仕事のご相談でしょうか?〉

 とメッセージ欄にざっと打ち込んでから、まだ送信はせずに一呼吸置いて、ひとまず思考を整理してみる。

 日々の仕事でもほとんど関わる機会がなく、たまに生じる事務連絡やすれ違いざまのお疲れ様です、おはようございますといった何気ない挨拶以外のやり取りは今日が初めてだったと言っても過言ではないほどのうっすい関係性である青羽さんが、わざわざビジネスチャットを使ってまで私に会いたがっている。事務的な話であれば職場で直接話せばいいのできっと違う。とするならば、職場では話しにくい人間関係にまつわるような話だったり? もっと言えば来週の月曜日は私の最終出勤日である三月三十一日なので、私が青羽さんにとっておそらく金輪際会わないであろう人間ということも関係しているのでは? いや、仮にそうだとしても一体どんな話があるのだろう。

 分からない。思い切ってドライに考えてみれば、どのみち私は退職するのだから、青羽さんの誘いをにべもなく断ったところで特段何の支障もないはずなのだ。じゃあこのまま断ってしまおうか。いや待てよ。確かに思い返してみると、先ほどの居酒屋で話しかけてきた時の青羽さんの表情はどこか深刻そうな、もっと言えば、人には話せない何か大きな悩みを抱えていそうな雰囲気を纏っていた気がしてくる。そしてどういうわけか知らないけれど、もし仮にその悩みを他の誰でもない私に聞いてほしいのだとしたら、たとえ私と青羽さんが今後会うことがない関係だとしても、簡単に断るのはどこか憚られる。

 とりあえず話だけでも、いやでもやっぱり何か面倒ごとにでも巻き込まれたら嫌だな、なんてぐるぐる考えているうちに段々とめんどくさくなってきてしまって、ひとまず先ほど打ち込んでいた文章を手直ししてみる。

〈こちらこそ今日はありがとうございました。急なご連絡で少し驚いています。もしかして、職場では少し話しづらいお話でしょうか?〉

 ほとんど話したことがないとはいえ、れっきとした同僚に対してこれはさすがに警戒し過ぎだろうか。そうだ何かお手頃なスタンプでも添えて中和してみよう。そう思い付き、これまであまり触れる機会すらなかったスタンプ欄とやらを試しに覗いてみる。LINEほど豊富ではないものの、てるてる坊主に手と足を生やしたような何の捻ひねりもないキャラクターが挨拶をしたり頭を下げたりしているイラストや、〈了解〉〈OK〉といった二文字だけのシンプルなスタンプがあったりして、ビジネス用にしては思いのほかその品揃えの豊かさに少々感心していたところ、

 あっ。

 思わず声が漏れた時にはすでに遅かった。親指で画面をスクロールしている最中に誤ってとあるスタンプをタップしてしまい、あろうことか〈OK〉の二文字だけがトークルームにでかでかと放たれてしまったではないか。幸いまだ既読はついていない。とにかくすぐに取り消さねば。そう瞬時に思ったけれどまさかの送信取消ボタンが見当たらない。先ほどまでの感心を返せ、と手のひら返しで苛立ちながら血ち眼まなこになって色々と試してみたものの結局送信取消は諦め、すでに打ち込んでいた文章を一旦すべて消したうえで、〈すいません。誤ってスタンプを送信してしまいました〉と速攻で訂正文を送信しようとしたのも束の間、〈すいませ〉のあたりで青羽さんの既読が付いてしまって、まるで時が止まったかのように私は一瞬固まる。

〈急なお誘いにもかかわらず了承いただきありがとうございます! お疲れのところ大変失礼しました。それではまた月曜、よろしくお願いします。素敵な休日をお過ごしください〉

 青羽さんは既読も速ければ、返信も恐ろしく速かった。一瞬のうちにトークルームに投下された青羽さんの文章を前に私はなす術もなく途方に暮れる。どうしよう。この雰囲気からして今さら〈すいません間違えました〉なんて言い出しづらいし、私の直球過ぎる〈OK〉の二文字が青羽さんに変な気を遣わせてしまったのか、早々に会話を切り上げたような配慮が文面から滲み出ている。

 ひとまずスマホから目を逸らす。もう夜の十時を過ぎているというのにまだ歯も磨いてなければシャワーも浴びていないし、捨てるはずだったカップ麺のゴミは卓袱台の上、視界の先にある脱ぎ捨てたままのスーツとワイシャツだってこれから洗濯機に入れなくてはならない。何だかもうすべてがどうでもよくなってきて、〈こちらこそよろしくお願いします〉とだけ青羽さんに返信してからスマホを裏返しにして、ベッドの上にぽいっと放り投げた。

 こうして、平坦な人生に突如訪れたさざ波のような気配を微かに感じながら、私の四十歳の誕生日は静かに終わったのだった。

 

◇

 

「あの、潮田さん、ですよね?」

 最終出勤を終えて、青羽さんから事前に伝えられていた集合場所で待っていた私に、一人の若い女性が突然話しかけてきた。

「え? あ、はい。そうですけど……」

 なぜ私の名前を? そう言いかけたタイミングで「やっぱり! よかったあ、すぐに見つけられて。すいません、お待たせしちゃいました」とその女性が満面の笑みをこちらに向け、それから間髪をいれずに、

「えーっと、ひとまずご案内しますんで、このままわたしに付いてきてください」

 きっぱりとそう言い放った。

「え?」

「青羽さんと待ち合わせしているんですよね? ご案内します」

 目の前の得体の知れない若い女性の口から〝青羽さん〟という名前が飛び出してきたことに私は大いに驚いて「あの、すいません、状況がまったく……」と正直な声が漏れる。

「大丈夫ですからそんなに心配しないでください!」

 女性は戸惑う私の顔を見てけらけらと笑いながら、「とりあえずこっちです! あ、こっからちょっと歩きますからね」と早速すたすたと歩き出して、はやくはやくと言わんばかりに私に向かって手招きをしてくる。これは、何だ? 一体何が起きているのだろう。

 二十代前半だろうか、私より一回り以上は絶対に若く、ダボッとしたグレーのパーカーと淡いブルーのワイドデニムといったラフな恰好をしているものの、百七十センチ以上はありそうなすらりと高い身長のおかげで野暮ったさはまったく感じられず、むしろその着飾っていない雰囲気が空港でファンからの出待ちを受けるK-POPアイドルのオフのようなさり気ない〝こなれ感〟を醸し出している。そんな私とは無縁そうな今風の若い女の子が突然声をかけてきたことも、そしてあろうことかその彼女の口から〝青羽さん〟という名前が流れるように出てきたことにもまったく訳が分からず、呆然としたままその場で突っ立っている私に「ほらっ、潮田さん早くしないと置いてきますよ!」とその女性が妙に馴れ馴れしく急かしてきて、「え、あっ、はい」と思考を整理する間もなく、人と人との隙間を縫うようにすいすいと前を歩く彼女にひとまず置いて行かれないように私は戸惑いながらも付いて行く。

 月曜夜の道玄坂。仕事終わりのサラリーマンや大学生らしき若者たちでごった返している賑やかな繁華街のメインストリートを、私とその若い女性が縦になって目黒方面へと緩やかに上っていく。

 この状況は一体何なんだ……? 頭の中がハテナでいっぱいのまま、しばらくの間無言の状態が続いた。痺れを切らし、先ほどから目の前で茶髪のロングヘアをふわふわと揺らしながら歩いている若い女性の後ろ姿に「あの……」と恐る恐る声をかける。すると彼女は歩みをまったく止める気もなく、むしろ心なしか次第に早歩きになってぐんぐんと坂を進みながら顔だけをこちらに向けて「はい、どうしました?」と聞いてきた。

「どうしたもなにも、これは一体、どこに向かっているんでしょうか。というか、あなたと青羽さんは、一体その、どういうご関係で……?」

「えーと、その辺は」女性は少し言い淀んでから、「……またあとでお伝えしますんで!」と投げやりに答えた。

「あとで、ですか……?」

「はい、あとで。安心してください、ちゃんと説明しますから。とりあえず今は、このままわたしに付いてきてもらえれば大丈夫です」

 一体何がどう大丈夫だというのだろう。呆然とするあまり二の句が継げない私に、

「てかわたし、ずっと潮田さんにお会いしたかったんですよ? なので今めちゃ嬉しいです!」

 と女性は楽しそうに声を弾ませる。

「えっと、私に?」

「ですです」

「……なぜ?」

「はは。その辺も、またあとで言いますから。とにかく、心配ご無用です」

「そうは言われましても……」

「行けば分かりますから! 大丈夫です」

 白い歯を見せながらニッと笑うと、狼狽うろたえている私のことなどお構いなしに彼女はまた前を向いて「もうすぐ着きますから」と歩みを進める。

 大丈夫。心配いらない。先ほどからそれしか言われなくて逆に怪し過ぎるし、この初対面の若い女性に私の名前が知られているということにも得体の知れない恐怖を感じる。青羽さんの代わりに突如現れた、名前も名乗らない謎の若い女性。苗字で青羽さんのことを呼んでいるということは、少なくとも妹とか娘とかではなさそうだ。だとしたら、遠い親戚、とか? いやでもなぜ私と会うために青羽さんの親戚なんかが出てくる必要があるのだろう。それかもしかして、新手の詐欺か何かだったり……?

 前を歩く女性の、やけにすっと伸びたその後ろ姿を、訳も分からずただひたすら追いかけながら、私は今日の出来事を努めて冷静に思い返してみる。

 

『パーティーはいつか終わる』は全4回で連日公開予定