二次会は行かず、夜九時過ぎに帰宅すると、スマホにLINEの通知が何件か届いていた。
ロックを解除しないまま通知だけを見ていたので内容はおろか差出人すら分からない。でも大体の想像はついていた。ついていたのですぐに確認する気にはなれず、ひとまずは肩にずっと掛けていた重たい鞄を床にドサッと下ろす。たったの二時間ちょっとですっかり居酒屋の臭いが染みついてしまったスーツとワイシャツをその場で脱ぎ捨てて、ソファーの背もたれに掛けてある部屋着用のジャージを手に取りさっと着替えを済ませる。身軽になった身体で台所に向かい、一人暮らし用サイズの冷蔵庫の上に無造作に積まれているカップ麺たちの中からお気に入りを一つ選んで、小さな笛吹きケトルに水を溜めてコンロの点火スイッチを捻った。
そうだ、返信。
あとは沸騰するのを待つのみ、というタイミングでLINEの通知が届いていたのを思い出し、スマホに顔を近づける。開くより早く、顔認証でメッセージが表示されると、真っ先に〝顔合わせ〟というワードが目に飛び込んできた。
〈顔合わせの日程、4月30日に決まったから。それまでに引っ越しとか色々終わらせて、余裕もって臨むようにね〉
差出人は予想通り、母だった。返信に悩むというより、私はそのテキストをどこか他人事のようにぼんやりと見つめる。引っ越しはともかくとして、〝顔合わせ〟という言葉に現実味がなく、果たしてこれは本当に自分宛のメッセージなのだろうか、とさえ思った。
目をすべらせながら母からの文面を見るともなく見ていると、「ピーッ」という笛の音ではっと我に返った。スマホを一旦脇に置いて、カップ麺の蓋を半分まで開ける。傾けるとケトルの中でしゃりしゃりと音を立てるお湯を、こぼさないようにゆっくりと慎重にカップ麺に注いでいく。内側の線まで注いでから蓋を閉め、LINEの代わりに時計アプリを開いて五分のタイマーをセットしたのち、スマホを裏側にしてカップ麺の蓋の上に載せた。
ふと手元から顔を上げて、何となしに部屋を見渡してみる。テレビを付けないとあまりに静かで、私以外誰もいないこの八畳ワンルームの部屋が何だかいつもより広く感じられた。
築五十年。けれど水回りはリフォーム済みで風呂トイレは別。最寄り駅まで徒歩十五分という都会にしては不便なアクセスと、絶望的な日当たりのせいで夏でも常に薄暗いという環境にさえ目を瞑れば相場よりも随分安くてコンビニや商店街もそう遠くない。上京してすぐ、金もろくにない私にとっては家賃の安さが何よりも魅力的に思えて、仮住まいのつもりで借りたこの何の変哲もないアパートに結局十八年間住み続けたのだ。どこでも買えるような食器や家具に囲まれ、生活に必要な物は大体手を伸ばせば届く範囲に配置されているこの部屋では特にこれといった不便や支障は感じないけれど、同じくロマンや彩りもまったく感じられない、まるで私の生き方を象徴しているかのような殺風景なワンルームを、手狭な台所から静かに観察する。
シングルベッドの脇に、地味なグレーの一人掛け用ソファーと、実家から持ってきた古臭い小さな卓袱台。ベッドとは反対方向の壁には、ネットで買った中国製の安い二十インチの小型テレビと、テレビ台の代わりとして木製のカラーボックスが置いてあって、平日は簡単に自炊した夕ご飯を食べながら、休日は適当な総菜をつまみながら、この小さなテレビの前でほとんどの時間を過ごした。遠い記憶を辿ってみてもそんなつまらない風景しか浮かんでこなくて、この部屋には輝かしい思い出など一つもないという事実を改めて噛み締める。噛み締めてから、まあそりゃそうだよなと納得して、それと同時に、もしやり直せるとしたら? なんて後悔に似た妄想がふつふつと込み上げてくるのもいつものことで、それをやり過ごすことにも、もう随分と慣れてしまったのだ。
スマホのアラームがピピピピピッと五分の経過を知らせた。
台所から移動して、カップ麺と割り箸を卓袱台に置いてからすぐ後ろのソファーにどしっと深く腰掛ける。一息つきながらゆっくりとカップ麺の蓋を開けると、鼻を突く魚介豚骨臭の湯気がたちまち部屋に立ち込めて、同時に「ぐぅ」と間の抜けた音が腹から鳴った。今日の歓送迎会では周囲に気を遣ってご飯をほとんど食べることができず、会の後半あたりからずっとこの瞬間のことを考えてやり過ごしていた。大人数の飲み会で食事を遠慮してしまうのはいつものことで、職場で飲み会がある日は決まってこうして部屋でひとりカップ麺を食べるまでがセットになっている。空腹で逸る気持ちを抑え、まずは割り箸で荒々しく全体をほぐす。どろっとしたスープが絡みつく太麺を持ち上げて、口を近づけふうふうと冷ましてから、静かなワンルームに響き渡る勢いでズルルッと小気味よい音を立てて啜った。
手狭なソファーの上で大胡座をかいて、人目を気にせず『とみ田』のカップ麺を貪る。こういう瞬間、ひとりでよかったと思うし、やっぱりひとりが気楽だなと思う。来月にはこのアパートを引き払って実家に帰ることを想像すると、どれだけ退屈でも結局私の身の丈に合っている今のこの安寧を精一杯噛み締めるようにして、ざらざらとしたカップ麺の汁を最後の一滴まで飲み干した。
〝結婚〟の話が舞い込んできたのは、年末に実家へ帰省した時のことだった。
私の実家は地元ではそこそこ大きい寺で、年配の方が日常的に墓参りをしに足を運んだり、たまにマイナーな観光客が古刹巡りで訪れることもあった。だが来訪者の数でいえば大晦日の夜、つまり除夜の鐘撞きという寺にとっての一大イベントが行われる日には通常では考えられないほどの多くの人たちで賑わい、さらには地域の人たちによる協力のもと、寺の境内には祭りで見るような白い大きなテントと長机が設置されて、その場で大鍋を使って仕込んだ大量の甘酒を紙コップに入れて参拝者たちに無料で振る舞うという古くからの恒例行事で大いに忙しくなるため、たとえどんな用事があっても毎年この時期は実家に帰って寺の手伝いをする必要があったのだ。
今年の帰省がいつもと違ったのは、事前に母経由で「お父さんから話がある」という連絡をもらっていたことだった。
まさか、というより、ついにか、と思った。とうとうこの日がきてしまった、という諦めのような心持ちで私は実家に帰った。
父は胃癌とのことだった。
しかし、比較的早い段階で腫瘍が見つかったおかげで手術による切除が十分可能であり、加えて他の臓器にも転移が見当たらないため、腫瘍の摘出手術さえ無事に終わればひとまずのところ心配はない状態だという。早くて二週間後には手術をするとのことだったが、私にとってはそんなことよりも、父が今回の病気をきっかけに〝寺の跡継ぎ〟の話を母と本格的に進めていたことが何よりも重大だった。
父と母は実家の居間に私を座らせて、前述の父の癌の話を簡潔に話し終えたあとで、私の知らないところで勝手に進められていた〝結婚〟の話を淡々と説明した。父と母の口ぶりは娘への説得というよりほとんど指示に近いもので、要約すると〝実家の寺と同じ宗派の寺が跡継ぎに困っていて、その寺の住職の一人息子も独身なので、私がその一人息子と結婚して両方の寺を存続させる〟という内容だった。
寺の跡継ぎが不在の場合、本山から派遣された僧侶が引き続き檀家の世話をするケースもある。つまり、親族でなくとも寺を存続させられる手段はあるにはあるのだ。寺の娘として生まれた以上、できる限り多くの跡継ぎの事例を調べ、親族間に限らない様々な継承のケースがあることをそれなりに学んでいたけれど、潮田家の前ではそのすべてが何の役にも立たなかった。父は、家族である自分の子供に寺を継がせること以外、絶対に認めない人間だったからだ。
父と母の間には、男の子が生まれなかった。子供は私と姉の娘二人で、二つ年上の姉は引っ込み思案な私とは対照的に、小さい頃から自由奔放で活発な性格だった。何かに縛られることを激しく嫌い、人付き合いが得意で男女問わず友達が多く、いつも誰かに囲まれてキラキラとした人生を謳歌していた。私とは真逆の生き方を貫いていた姉は高校を卒業した後、親の反対を押し切って海外の大学へ進学し、地元はおろかそのまま日本に戻ることすらなく、現地の企業に就職したそうだ。今はどの国に住んでいるのかさえ分からず、年末にも実家に顔を出すことはないので、姉とはもう二十年近く会っていない。
そんな姉に寺を継ぐ意思など全くないと早々に判断した父は、姉のことはきっぱりと見限って、その矛先を必然的に私へと向けた。父は、私に寺を継がせるために一層厳しく育てるようになり、いつしか寺が私の生活の中心となった。日常的な寺の掃除に加えて、平日の夜は父の前で正座をしてお経を読んだり仏教の勉強をするのが決まり事となり、休みの日のほとんどは父に付き添って法要の手伝いをさせられ、時には檀家たちが集まる酒の席で余興として読経させられることもあった。かわいいねえ。こりゃ将来はいい嫁さんになるやろな。うちのせがれ紹介したいわ。立派な跡継ぎを産んでもらわんとな、男の子やぞ、男の子。男を産んでようやく一人前やからなあ。赤ら顔の檀家たちからは、よくそんなことを言われた。
こうして寺に縛られながら、父の勧めで進学した地元の仏教系大学を卒業する二十二歳までの間を、私はずっと実家で過ごしてきた。そして、転換点となったのはこのタイミングだった。そのまますぐに寺を継ぐのではなく、就職を口実に私は東京へ引っ越すことに成功したのだ。突然の上京を父が認めてくれたのは、毎月私が実家へ一定額を仕送りすることに加えて、将来的には寺を継ぐために地元へ帰ることを約束したからだ。父にとっても、これまで投資してきた自分の娘から金銭的な還元を受けながら、さらには娘が東京から跡継ぎ候補の婿を連れてきたりなんかすればお見合いや紹介の手間も省けるという一石二鳥的な考えがあって、私は一時的に東京で暮らすことを認められた。
子供のことも考えると三十五歳くらいまでには地元に引き戻されると思っていたけれど、私の会社が上場に向けた準備などでそれなりに仕事が立て込んでいたことや、父もここ数年は遠方への葬儀や法要などが重なり多忙を極めていたことから跡継ぎの話が後回しになっていたのだろう。そして今回父の病気が発覚し、寺の跡継ぎの話が本格化したことで、私の東京でのモラトリアムにあっけなく終止符が打たれてしまったというわけだ。
母は、私が小さい時からよく「長男は好きになっちゃダメだからね」と口にした。そもそも恋愛というものすらまだよく分かっていなかった子供の頃の私は、母の言葉を聞いてもいまいちピンときていなかったけれど、中学に上がって周囲が恋愛を意識し始めると同時に母の言葉の含意を理解し、それを常に頭の片隅に置いて生きるようになった。今思えば大げさな話だけれど、当時の精神的に未熟な私を恋愛奥手にさせるには十分すぎるほどの呪いだったのだ。
結局、中学・高校ではまったく恋愛を経験せず、似たような境遇の学生たちが多く集まる仏教系の大学では一度だけ異性とそれらしい雰囲気になったことがあったが、彼が私と同じく寺の子供で仏教に関する素養があり、そして何より次男であったことから、彼に対して抱いているこの浮ついた気持ちは、好意なんていうロマンチックなものではなく、婿候補としてうってつけのステータスが揃っている人物を両親の望みどおりに見つけることができたという事務的な達成感に近いものなのでは? と自問自答するようになり、本当に彼自身のことが好きなのか分からなくなった私は結局自分から別れを切り出して、私にはまともな恋愛ができないんだと自己嫌悪に陥った末に、恋愛に重たい蓋をした。
東京に来てからも、このまるっきり新しい環境で自分の人生を変えるのだという思いとは裏腹に、いつかは地元に戻らなくてはいけないというぼんやりとした諦めが常に思考の中心にあった。その閉塞感に囚われて友情や恋愛といった長続きが前提となるような深い関係を構築することに後ろめたさを感じ、さらには実家への月々の仕送りもあったことからあまり外で金を使う気にもなれず、家に閉じこもるようにして時間を溶かした結果、恋人はおろか気の合う友達の一人すら作ることがないままこの歳になってしまった。
結局私は、東京に何を求めていたのだろうか。環境を変えれば人生も変わる、なんて安易な考えに縋っていたのだろうか。東京という街に、私は一体どれほどの幻想を抱いていたのだろう。無為に過ごしたこの十八年分の〝老い〟以外に、私が東京で得られたものなんて何一つとしてないのだ。
ここまでの人生を振り返ってライフラインチャートとやらを思い浮かべてみる。思い浮かべてみたところで、劇的な挫折も、輝かしい成功も、これといった人生の抑揚めいたものは何もない。つまり山も谷も描きようがなく、結果として出来上がった曲線は今際の際の心電図くらいあまりに起伏が少なくて、我ながら平坦過ぎる人生にもはや笑うしかない気持ちになった。
私はきっと、このまま静かに潰えていくのだろう。
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