二 案山子はクローズドサークルにいない──烏川杯三回戦
1
夏は年々、勢力を拡大し続けている。
十月に入ったというのに、日陰にいてもスマホを持つ腕がじりじりと焼かれる。夏は意地を張って居座り、陽光は容赦なく地面を焼き尽くしている。迷惑なことこの上ない。
やる気に満ちた夏のせいで、俺の仕事も増えているのだ。
「今度は農学部棟の前ね」
志紀さんは電話口できわめて事務的に伝えた。知らない人が聞くと、冷淡だと受け取られそうな響きだった。
「またですか」
冷たい人ではないとは分かっている。けど、あまりにも冷静なその口調に愚痴りたくもなる。カンカン照りの太陽の下、額の汗を親指で拭った。
「どうにかならないんですか。俺今日、バイトなんすけど」
「バイトは昨日でしょ。昨日と今日の区別もつかないの?」
図星だった。
なんで志紀さんが俺のシフトを知っているんだろう? 俺がどこかで漏らしたのを覚えているんだろうか。生き字引どころではない。
「たまには、何事もなく平穏に一日を終えたいんすよ」
「いつも平穏な日々を送ってるんじゃないの?」
あの初夏の一件以来、綿貫や美里と関わることはなくなった。
けど、だいたい同じことを繰り返しているだけだ。アラームで起きて、自転車を転がして、とりあえず講義には出る。その講義だけで話す知り合いと昼ごはんを食べ、夜は週四日のバイト、ない日はぽつぽつとレポートを書いたり、飲み会に顔を出したりして過ごす。
平穏な日々、という志紀さんの言葉は、またしてもおおよそ図星だった。
おおよそ、だ。
平穏でないこともある。
俺の日常に、案山子さんという存在が入り込んでくるようになったせいだ。
例えば夜中に、案山子さんがふらりとうちに来る。そして「冷蔵庫に、梅干しって、ない?」と尋ねてくる。一人暮らしの男子大学生の家の冷蔵庫に梅干しがあるわけがない。そう答えると「すっぱいものが、欲しいんだ、よね」と、冷蔵庫から総菜の春雨のサラダを取って帰っていく。「なはは」と意味の分からない笑い声を残して。
別の日には、深夜の電話で『明日の遊園地のバイト、用事が入ったから変わってほしい』と頼んでくる。仕方なくOKしたあとで、『集合時間は朝の五時だから』と言われたときには、さすがに呆れた。常識がないのか、と問い詰めたかったけど、常識なんてあったら案山子になんてなってないわけで、議論するのは諦めた。真夏の遊園地でひたすらポテトを揚げ続けるのはもはや修行で、諦めはすぐに後悔に変わった。
そんな具合に俺の日常に案山子さんが入り込んできた時点で、もはや平穏ではない。
現に、今だってそうなのだ。
「なんで案山子さんだけ、そんなに優遇するんすか」
俺は青く高い空を見上げてぼやく。
いつでもどこでも佇む男、案山子さん。
この灼熱の中でも、案山子はまだ佇み続けている。
すると、何が起こるか。
佇立する案山子さんのわきを通りすぎるのが、うちの学生や教職員だけならいい。「ああ、また変な奴がいるな」で済むのだ。しかし、善良な一般人は違う。まず心配する。この人はこんな日差しの中で立ち続けて死にやしないか、と思う。善良だ。そして「自分はこの変な人に関わるのは面倒だから」と自分自身で助ける代わりに、大学の学生課へ電話をする。まったく、現代的な善きサマリア人だ。
そうやって寄せられた通報は、すべて志紀さんのもとに集まる。
結果、俺が派遣されるのだ。
案山子さんが熱中症で倒れる前に、志紀さんを通じて乃木陸が保護する──そんな一連のスキームが、ほとんど学内の非公式業務として出来上がってしまっていた。
もちろん、報酬なんて出ない。案山子さんがお礼を言って、時々「ご飯でも行こう」とみよし屋へ連れて行ってくれるだけだ。
「別に、案山子を特別扱いしてるわけでもないけど」
志紀さんは淀みなく答えた。志紀さんも俺の影響を受けて、いつの間にか「案山子」と呼ぶようになっていた。
「大学は社会に必要な人材を輩出するためにある。だからかな」
「案山子さんがそうだと?」
「私はそう思うけどね」
「そうっすか?」
露骨に不満げな口ぶりになったのは、自覚している。
「君はさ、なんで大学に来てるの?」
志紀さんはふいに、こういう底を掬い上げるような質問を投げかけてくることがある。
「そりゃまあ、勉強のために」
そして俺がこんなありきたりな答えしか持っていないことも、ちゃんと分かっている。「勉強? 何の勉強?」と即座に質問を重ねてきた。
俺は当然のように口ごもる。毎日講義を受けているけど、別に興味のあるものなんてない。勉強と言ったって、椅子に座ってぼけっと教員の話を聞いているだけだ。もともとが自分のレベルに合った偏差値の大学であるとか、実家から離れられるとか、薄い理由で志望しただけなのだ。そして大学に入ってしまうと、自分たちは高校や塾で偏差値とかいう虚構に上手く踊らされていただけなのだ、とよく分かる。何もしたいことがない場所に四年間も金を払って通うなんて、どう考えても正気じゃない。
「勉強と、あとはまあ就職とかのために」
と、俺がもごもごとそれっぽい理由を付け加えると、志紀さんは小さく笑った。馬鹿にした笑いじゃなくてほっとする。
「就職ね。ま、それもそうだよね。なら、社会に必要な人材ってなんだろうね。研究者とか、専門家とか、企業戦士?」
「そうじゃないんすか? そういう人が物事を前に進めるもんでしょ」
「それだけじゃ、社会に弾力を持たせられないよ。案山子みたいな何を考えているのか分からないけど、何かやってくれそうなやつがいるから、物事に幅とか面白味が出るんじゃない? つまり、案山子みたいなのを切り捨てないで社会に送り出すのも、大学の役割だと思うわけ」
「はあ」
「君はどう思う?」
そこで彼女は少し黙った。俺の回答を待ってくれているのだ。
そしてやっぱり、俺に回答なんてない。志紀さんの言っていることは分かる気もするし、よく分からないような気もした。だって、社会なんて大きな構造を真剣に考えたことがないんだから。
黙っていると、志紀さんは語調を気持ち柔らかくした。ねえ乃木くん、と諭すように語り掛けてくる。
「せっかく大学にいるんだからさ。講義を受けて試験をしてバイトにいそしんでサークルに行く、それだけじゃもったいないよ」
ふう、と一息ついて、
「もっと窓を開けていいんだよ」
窓を開ける。
その言葉の意味も、よく分からなかった。
「……とにかく、早く帰りたいんです」
そう反論するのが精いっぱいだった。叱られて話を逸らせる子どもみたいで、我ながら情けない。
「奇遇ね。私も同じ気持ちだわ」
まあ文句は案山子に言って、と彼女は俺の返事を待たずに切った。
通話の余韻が、耳の奥で軽く弾けて消えた。俺は農学部に進路を変えた。
乾いた風がキャンパスを吹き抜けると、建物の隙間からほんの少しだけ秋が顔を覗かせる。十月は、季節の境界線を曖昧にしたまま過ぎていく。俺の今の立場と同じだ。曖昧で、はっきりしていなくて、何もかもよく分からない。
農学部に近づくと、ふいに視界が開ける。農場があるためだ。数枚の落ち葉が風に弄ばれていた。葉がアスファルトを転がる音が、遠くの工事現場の音と重なった。耳に入る音の全部がやけにくっきりしているのは、秋が少しずつ濃くなっている証拠だと信じたい。
案山子さんはイチョウ並木の下に立っていた。
ぼろぼろの白シャツと麦わら帽子。風に吹かれた葉が肩に一枚落ちた。けど案山子さんは払いもしなかった。目はどこか遠くを見ているし、口は半開きだし、変な迫力がある。
改めてまじまじ見てみると、そりゃ通報されるだろうな、と率直に思う。
あまりに静かすぎる。
静かすぎるというか、異様だ。
「案山子さん」
呼んでみる。反応なし。
「案山子さーん」
今度は肩をゆすってみた。反応なし。
俺はまるで根が生えたみたいに動かない彼を、力ずくで押して歩くことにした。農場の湿気を含んだ草の匂いが鼻についた。
案山子さんを無理やり近くの建物へ押し込もうとしたせいだ。自動ドアが開いたのは、自分たちに反応したのではないと気づくのが遅れた。
中から、誰かが出てきた。
とっさに案山子さんを押す手を緩めたけど、大の大人を操縦するのはなかなか難しかった。案山子さんの肩と出てきた人物の肩がぶつかった。小柄な女性が小さく驚く声を上げて横に転んだ。
「すみません! 大丈夫ですか?」
慌てて声をかけると、女性はすぐに立ち上がって笑みを作った。
「だいじょうぶ。こちらこそ、ごめんなさい」
話し方と顔の作りで外国の人だと分かった。うちの大学は留学生も多い。東南アジアの方かな、と判断する。黒い艶のある長い髪だった。大きな眼鏡の上の眉はしっかりした幅で横に広がっていて、肌はやや焼けている。元気な笑顔が似合いそうな、中学生にさえみえる幼い健康的な顔の作りだった。
そして、今はその元気な笑顔はどこにも見当たらなかった。
「だいじょうぶ」
そう言ってもう一度彼女は笑顔を作ったけど、それは弱々しくて声はか細かった。
踵を返す彼女を呼び止めようか、一瞬迷った。
一見して、彼女は何か問題を抱えている風に見えた。少しぶつかって転んだ、それに対する反応にしては、あまりにも表情に疲労が浮かんでいた。けど、それを聞いたところでどうなる? 英語も上手く話せない俺に、一体何ができるだろう? 多分何もできない。
黙って見送ろうと決意した刹那、
「なにか、ありましたか?」
と、隣で呑気な声が飛んだ。案山子さんだ。
さっきまで案山子になっていたのが嘘みたいに、滑らかに口角を上げた。
「なにか、困っていることが、ありますか?」
彼女は案山子さんを見て、俺を見た。そうして平らな眉をゆがめた。
そうしてまた、頬にのんびりとした皺を寄せている案山子さんに視線を戻した。
「ある」
握りしめた彼女のバッグの布地が皺だらけになっているのを見ながら、俺はため息をこらえた。
厄介ごとが始まる予感が、胸の奥でじわじわと広がっていった。
2
「わたしの名前はミンです。ベトナムから来ました」
ミンさんは姿勢を正して告げた。
農学部棟の中にある自動販売機のそばのベンチに、三人で横並びで座っている。ミンさん、案山子さん、俺の並びだ。『節電にご協力ください』というポスターの上にある空調から、寒いほどの冷気が吹きつけてくる。外の熱気が遠い話に思えた。
「ホーチミンの、ミンですね」
案山子さんはいつもよりもさらにゆっくりと話した。日本語話者でないことを考慮しているんだろう。ミンさんは真面目にこくりと頷く。
「十月に、入学した」
「勉強の、悩みですか? それとも、生活の悩み?」
「……あー、生活の悩み」
「お金?」
「あー、そう。はい」
俺はうんうんと優しく頷く案山子さんを見ていた。仮にお金を貸せという話になったら、案山子さんはどうするつもりだろう? 案山子さんのお金事情は知らないけど、潤沢だとは到底思えない。俺にだって金はないぞ、と目で訴えかけようと試みたけど、案山子さんは俺の方を見ようともしなかった。
「先週のことだけど──」
ミンさんが語ったのは、次のようなことだった。
ミンさんが来日してまず驚いたのは、その暑さだった。
もちろん、東南アジアも十分に暑い。しかし、温帯であるはずの日本の十月がここまで暑いとは、想像していなかった。
そして、ミンさんはそれに歓喜した。
やはり現地に来て体験してみないと分からないことがある、と実感したのだ。
というわけで、留学生宿舎に貼られた『留学生交流イベント』のチラシを目にして参加しようと思ったのは、いうなれば必然だった。
留学生交流イベントは、十月最初の週末に、大学内の部室棟付近で行われた。
ミンさんはマカオから来た同室の留学生の一人と一緒に参加した。屋外ステージが一つ、その周りにはテントが十個ほど並んでいるくらいでこぢんまりとしたものだったが、その規模感がミンさんにとってはちょうどよかった。
ステージでは大学のサークルが交代で音楽を披露していた。コルトレーンの『My Favorite Things』を華奢な日本人女性が演奏しているのも好感が持てたし、民族衣装を着た留学生がドボルザークの『新世界より』をキーボードで弾いているのも微笑ましかった。
演奏を聴きながらテントでロコモコと唐揚げを食べていると、ふと部室棟の入り口にある看板が目に留まった。
『競走馬観賞交流会 留学生参加歓迎! 主催:第二文芸部』
「あれ、なんて書いてあるの?」
と、ミンさんはマカオ出身の友人に尋ねた。
「うま、って書いてある。ホース。あとは……なんだろうね?」
ステージ横の時計を見ると、午後三時だった。この後もステージでは何か演奏があるようだが、クラシックが続くらしかった。音楽は好きだが、そろそろ違う刺激が欲しかった。看板に興味をそそられた二人は、部室棟に向かうことにした。
部室棟の入り口には、にこにこ笑みを浮かべた男性が一人立っていた。
「これは、なにをしているんですか?」
「競馬の予想ですよ」
とミンさんの問いに、にこにこと男性は答えた。「競馬。馬のかけっこ」
もちろん、ベトナムにも競馬はあるので分かる。しかし、ここでどうやって競馬を楽しむのか? 尋ねると、やはりにこにこと男性は答えた。
「日本では、毎週末にテレビで競馬の中継をやってるんです。ここでは難しいことを抜きにして、みんなで一着の馬を予想し合ってるんです」
「賞金はでるの?」
食いついたのは隣にいた友人だった。マカオと言えばカジノだ。ミンさんは友人の反応の速さに思わず笑ってしまった。
「もちろん出ますよ。参加料が五千円。一着馬を当てた人が、参加者全員の参加料を総取りです。複数人当てたら等分、もし誰も当たらなかったら全額返金。主催の僕らは参加しませんが、一万円分賞金を出します」
わーお、と友人はわざとらしく声に出して笑ったが、目は笑っていない。部室棟の入り口には既に十人弱の人数が集まっていた。五万円ほどを総取りできるチャンス、しかもみなが外れたらお金は戻ってくるのだ。ギャンブル好きからすると、垂涎ものなのかもしれなかった。
ミンさんとしても、みなと騒いで五万円をもらえるチャンスは面白い、と思った。二人は意気揚々と参加することにした。
部室棟に入る時、男性は申し訳なさそうに切り出した。
「ごめんなさい、参加者からはスマートフォンや腕時計を預かってるんです。貸してもらえますか?」
「どうして?」
「みんな、スマートフォンやスマートウォッチで必死に予想を検索しちゃうんです。そうすると、せっかくの交流会なのに、みんな話さなくなる」
少なくないお金がかかっているのだ。みんなの気持ちは分かる気もした。スマートフォンと腕時計を預けるのはさすがに躊躇われたが、他の人が普通に預けて五千円を払っているのを見て、ミンさんと友人もそれにしたがって中に入った。
部室棟の二階の談話室には、ミンさんと友人を含めて八名の参加者がいた。談話室の窓際には大きなテレビがあって、そこでは既に競馬中継が流れていた。テレビの前のテーブルには、ジュースとお菓子が用意されている。
八名の中には留学生もいれば、日本人の学生もいた。全てが初めて参加したらしく、ぎこちない会話を繰り広げていた。
どれほどそうしていただろう。入り口に立っていた男性が、談話室に入ってきて説明を始めた。
「みなさん、ご参加ありがとうございます。今日は三時四十五分発走のレースの一着馬を予想してもらいます。テレビでパドック中継が流れるので、みんなでわいわい話し合って、これだと思う馬を予想してください。決まったら、自分の名前と馬の番号を書いて、ぼくに渡してください」
随分簡単な説明だった。
しかし実際やることは簡単だったから、すぐに理解できた。要は三時四十五分のレースの、一着の馬を当てればいいのだ。
ミンさんと友人はそのレースの話をきっかけにして、近くにいる人に話しかけることができた。ベトナムではパクチーはそんな風には食べない、と十五分間も説明するはめになった。十五分間、と分かったのは、競馬の発走時間のファンファーレのためだ。競馬は予想する三時四十五分のレースが始まる前にも、何度もレースを繰り広げていて、その度にアナウンサーが発走時間を知らせていた。
好きなアニメの話が興に乗ってきたところで、三時四十五分発走のファンファーレが鳴った。ミンさんは慌てて『9』という数字を書いて、主催の男性に渡した。理由はない。馬の名前がベトナム語で「こんにちは」の発音に似ていた、それだけだ。
そしてなんと、勝ったのはまさしくその馬だったのだ。
さらに、九番の馬を選んでいたのは、ミンさんだけだった。
「おめでとうございます!」
と、主催者の男性は拍手をして、優勝カップのようなものを手渡してくれた。カップには紅白のリボンが巻かれた封筒が入っていて、その中にはお札がぎっしり入っていた。数えてみると、五千円×八人分、さらに主催者の出資した一万円札、計五万円分が入っていた。
レース終了後すぐに、ミンさんと参加者は廊下に出て、カップとミンさんを中心にした記念撮影を行った。
「さあ、祝勝会といきましょう! お菓子とジュースは余っても仕方ないので、全部食べちゃってください!」
主催者に促され、ミンさんたちはぞろぞろと談話室に戻った。窓の外ではまだステージで何やら演奏をしているようだった。談話室に入る前に、テオドール・エステンの『Dolly's Dreaming and Awakening』がどこからか聞こえて、それもまるで自分を祝福しているようだった。
最後に主催者が談話室に入り、皆で紙コップを傾けた。テレビではまだ先ほどのレースの解説がされていた。友人はテレビの発送時刻表を見ながら、「次のレースは四時五分か」と悔しそうに呟いていた。
そして、事件は起こった。
すぐにジュースの入っていたペットボトルは全て空になって、主催者が解散を宣言した。テレビでは次のレースが発走しようとしていて、友人が主催者に「このレースではもう賭けはしないのか」と繰り返し聞いていた。その時、ミンさんは自分が賞金の封筒を持っていないことに気が付いた。
「あの、賞金は?」
主催者に尋ねると、主催者はきょとん、と首を傾げた。
「あれ、カップに入れて渡しましたよね?」
そうだった。なら、廊下の棚の上に置かれたままだ。
談話室を出て廊下の棚の上を見ると、確かにそこでカップは午後の陽光を浴びて輝いていた。
しかし、その中の賞金の入った封筒が、跡形もなく消えていたのだ。
「誰かが、盗んだって、ことですか?」
案山子さんはやはりゆっくりと尋ねた。いつものように鷹揚で、響きは柔らかい。聞き手を安心させる声色だった。
「そう。たぶん……」
ミンさんはうなだれる。艶のある黒髪が、シャツの肩口に申し訳なさそうに垂れた。彼女が申し訳なく思う必要はない。むしろ、こっちが申し訳ない。日本にせっかく留学してきてくれているのに、早々にお金を盗まれたのだ。
「犯人の目星はついてるんですか?」
そんな質問が口をついて出る。
「めぼし?」
ああ、そうか。えっと……。
「誰が、盗んだのか、分かりますか?」
案山子さんが助け船を出してくれた。
「はい。いや、いいえ。盗まれたのは、たぶんそう。腕が見えた。けど、だれかは分からない」
腕?
「腕が見えた、っていうのは、どういうことです?」
「あー、お金が無くなっているのが分かったあと、みんな調べてくれた。で、建物の外で、ステージをスマホで撮っている人がいた。そのスマホに、腕が映ってた」
……よく分からない。
やはり、案山子さんが横から助けてくれる。簡単な日本語で、何度も根気強くやりとりを重ねる。おかげで、俺にもおおよその全貌が見えてきた。
優勝カップに入っていた賞金が盗まれた後、主催者や参加者は手分けして、部室棟の中をくまなく捜したらしい。その時、主催者のもとに、一つの有力な情報が寄せられた。野外のステージを撮っていた動画に、偶然犯人が映っていたというのだ。
ミンさんたちは早速その動画を見てみた。その動画はステージを中心に撮っていたが、ステージの隣にあるこの部室棟の窓も映っていた。そこには確かにカップがあった。そして、賞金の封筒らしきものも映っていた。しかしふいにぱっと腕のようなものが映り、白い封筒が消えた。
その腕の持ち主が犯人だということだった。
「顔や体は、映っていなかった?」
「はい」
「でも、盗まれたことは、確かだ」
「はい。けど、その盗まれた時間は、みんな談話室にいた。夕方の四時。動画に時計映ってた。その時間は、みんな、談話室にいた」
廊下に置かれたカップから盗まれたのだから、参加者と主催者の第二文芸部員にはアリバイがある、ということだろう。
「ということは、部室棟の中にいた他の誰かが盗んだ」
「誰も、いなかった」
「誰もいない?」
「盗まれたあと、みんなで建物の中、捜した。あの時間、建物の中には、誰もいなかった」
案山子さんは一瞬眉をひそめたが、すぐに柔和な顔に戻った。「なるほど」と呟く。
「それは、困りましたね」
「はい。……あー、お金は、仕方ない。けど、不思議。それだけ」
そう言って、ミンさんは笑みを作った。
左の頬に、哀しくえくぼが現れた。
「……」
案山子はすっと俺の方に視線を寄越した。細い指先で麦わら帽子のつばを撫でながら、片眉をほんのわずかに上げる。その仕草だけで俺は悟った。
……ああ、また巻き込まれる。
案山子はそんな俺の心中を無視して、わざわざ身体をねじってミンさんと正面から向き合った。
「僕たちも、調べてみます。安心して、ください」
その声は、秋を告げる風のように静かに響いた。
空にはいつの間にか薄い雲がかかっていた。八月には見られなかったのっぺりした雲だ。おかげでほんの少しだけ日差しが和らいでいる。
案山子さんは手を後ろで組み、膝をあまり曲げない歩き方でふらふらと進む。俺もとりあえず後に続く。目指すは学生課だった。部活動が関係することだし、ひとまず志紀さんに報告しよう、ということになったのだ。
一般教養棟は上から見ると『王』の形をしている。その真ん中の横棒の端っこから建物の中に入るのが、学生課への近道だ。
一般教養棟の廊下は涼しかったけど、学生課の中に入ると分かりやすく室温が上がった。節電の決まりは学生課だけで守られているらしい。入口の掲示板にはこれみよがしに『節電にご協力ください』のポスターが貼ってある。隣にある『盗撮は犯罪です』のポスターの倍の大きさはあって、そのわざとらしいほど大きな紙切れ一枚で、事務員の思いがひしひしと伝わってくる。
志紀さんはカウンターから一番近いデスクでパソコンを叩いていた。今日は空色のブラウスを着ている。
「案山子を連れてこい、とは言わなかったけど」
志紀さんの第一声がそれだった。
「言われませんでしたけど、色々ありまして」
「色々、ね。仕事を増やさないのなら、応えてあげたいけど」
「志紀は、第二文芸部、って、知ってる?」
志紀さんが引いた警戒線を、案山子さんは軽々と超えていく。「志紀の、知り合いとか、いるかな?」
「部の名前は聞いたことあるけど、知り合いはいない」
「志紀さんでも、知らない人っているんすね」
俺はからかい半分に言ってみる。
「事務職員が知らないってことは、その人がとても真剣に大学生活を送っているってことと、おおむね同義だよ」
志紀さんは表情を変えず語を継いだ。
「真剣な学生は、合宿中にボヤ騒ぎを起こしたりしないし、単位を落とした腹いせに職員に土下座を要求したりしないし、あるいは──出席偽装の不正を疑われたりもしない。だから、真面目な学生ほど、事務職員に名前を憶えられる機会がない」
あ、はい。
ばっさり切って捨てられてしまった。返す言葉は無い。
「正式な、部か、どうかは、調べられる?」
「できるけど。事情はなに?」
志紀さんがキーボードをたたく間に、案山子さんが要旨を説明する。いつもどおり変なところで言葉は途切れるけど、要領よく話をまとめてくれる。こういう時、そういえば案山子さんって博士課程にいるんだよな、と思い出す。学部生として入学して十年ほど勉強しているわけで、普通に考えれば尊敬に値するはずなんだけど、いかんせん行動がとんちんかんすぎる。
「第二文芸部は、正式な部だね。けど、かなり部員は少なそう。届出では五月一日の時点で三人。三回生が一名と二回生が二名。三人とも男性。部室棟の二階に部室がある」
視線をモニターから外して、案山子さんを見る。
「もし何か聞きにいくつもりなら、私から適当に一報入れておこうか? こういう少人数の部は、部室にいないことなんてザラにあるよ」
「うん。ありがとう」
「いつにする?」
「明日の、三時半はどうかな。水曜日だから、どの学部生も、午後は講義も、ないと思う」
「連絡は入れるけど、あまり期待しないで。学生はどうせ、非協力的だろうから」
違法賭博して、そこで金銭の盗難が起こった。その後学生課から電話がきてそれについて教えろというのだ。警戒されるのは仕方ないだろう。
案山子さんは分かっているのかいないのか「まあ、なんとか、するよ」と楽観的な回答だった。
「その留学生の子……ミンさん、だっけ? 連絡先は聞いてるの?」
「聞いてる」
「もし他に必要な情報がいるなら、留学生係と繋ぐから言って」
不思議な人だ、と思う。
案山子さんは明らかに志紀さんの仕事を増やしている。けど、志紀さんはすんなりと受け入れている。案山子さんのお願いは、なぜかお願いに聞こえない。変に卑屈な響きもないし、かといって高圧的な物言いでもない。やるべきことをしている、という自然な自信が声色に満ちているせいで、不思議とお願い事をされている風に聞こえないのだ。
「じゃあ、乃木くん。そういう、ことで」
だから俺も、案山子さんのその言葉に「オッケーです」と答えてしまうのだ。
3
部室棟には初めて入った。
装飾はないけど、白い長方形の建物でかなり新しかった。名前だけで何となく小汚い建物を思い浮かべていたので、ちょっと拍子抜けした。
水曜の午後は講義がなく、建物の中は人が行きかっていた。廊下には電子レンジで弁当を温めた後の匂いと、消毒液の混ざったような匂いがする。高校時代の野球部の部室は汗と芳香剤の匂いが充満していたから、こんな綺麗な建物が部室だなんて信じられない。
一階の廊下には男女別の更衣室とトイレが並び、扉には『節電にご協力ください』『盗撮禁止』という張り紙が貼られていた。
「志紀も、前に、言ってたなあ」
案山子さんは麦わら帽子の後ろからはみ出した一つ括りの髪を撫でる。「最近、盗撮被害があったって」
「わざわざ大学でしなくてもいいと思うんですけどね」
「大学だから、じゃない、かな? 誰にでも、窓は開かれている」
「盗撮者にも?」
「盗撮者、にも」
もっと窓を開いて良いんだよ、という志紀さんの言葉を自然と思い出していた。盗撮者にも開かれているほど自由な施設って、確かに大学くらいかもしれない。入館証はいらないし、ショッピングモールみたいに警備員が目を光らせているわけでもない。けど、俺自身はどう窓を開けばいいのか、志紀さんのアドバイスがまだ腑に落ちていない。
二階の端に第二文芸部の部室があった。
「どうぞ」
コーヒーの香りがする、というのが第一印象だった。
その次の印象は、薄暗い、だ。窓のブラインドが下りているせいだ。テーブルには湯気の立った三つのカップ、その周りにはボールペンや紙が散らばっている。そして、電気もつけずにその机を囲んでいたのは三人の男性だった。部屋の壁に立ち並ぶ本棚がすべてぎっしりと詰まっているせいか、三人がやけに大きく見えた。
「いらっしゃい。ええっと……」
ふんわりとした茶髪の男がまず俺を見て、案山子さんを見て、結局俺に目を据えた。俺たちと対面した人の反応としては、よく見る光景だ。不審者とは目を合わせないようにして、平凡そうな俺に目を向ける。「入部の希望かな?」と、にこやかに尋ねてきた。
「いや、ちょっと……」
俺はきょろきょろしている案山子さんを放っておいて答えた。ただでさえ警戒される立場なのだから、もう少し愛嬌というものを見せてほしい。というか、俺が矢面に立つ形で話を進めないといけないのだろうか。付き添いのつもりだったんだけど。
茶髪は何が面白いのか、また微笑んでパイプ椅子をすすめた。目じりに皺が優し気に広がる。
「僕の名前は三谷です。三回生。よろしく」
微笑みの貴公子はそう名乗った。一回生の乃木です、と俺も返す。案山子さんはまだ辺りを見ていた。もう知らない。
「一旦ゲームは中断しようか。目隠し、開けておいて」
三谷は電気を付けながら、隣に座る部員に指示した。
眼鏡の部員が、机の上にボールペンを放り出し、黙ってブラインドを引き上げた。もう一人は背が高く猫背で、分厚いノートを脇に置き、ボールペンで何やら記録をしていた。いかにも用心深そうな上目遣いで俺を見た。
三谷はともかく、あとの二人はあまりいい雰囲気ではない。俺は話の端緒を探した。テーブルの上に散らばる紙を見つけて尋ねてみる。
「これ、何をしているんすか?」