「どういうこと?」
と、美里は振り返らず聞き返してきた。
聞き返してくるんだろうとは思っていた。だからセリフは用意していた。
「東が学生証を複数枚作ってたことは分かったよ。けど東の古い学生証を、綿貫が講義中に俺の財布に入れる方法がよく分からなかった。確かに俺は財布を机に出していた。けど、財布は閉じる時に音がするし、目を離した時があったとはいえ、さすがの俺でも目の前の財布が開けられたら気づく」
そこまで考えて、思い出したのだ。
案山子さんはこのことについて、俺の『友人関係の問題』と言い、その後『人間関係の問題』と言いかえたことを。案山子さんはこの問題の根本は『友人関係』ではないと言ったのだ。
それはつまり、広く言うと『人間関係』だし、狭く言うと多分『恋愛関係』だ。
「綿貫は俺の財布に東の学生証を入れたんじゃない。俺の財布とまったく同じ財布を用意して、そこに東の学生証を入れておいた。そして講義中にその財布ごと俺の財布と入れ替えたんだ」
講義中に、学生証を入れ替える時間はない。
なら、財布ごと入れ替えてしまえばいい。
それなら、財布を開く時間も必要ない。俺が目を離した隙、例えば教師に当てられて起立した時にさっと入れ替えればいいのだから。一秒もかからないだろう。
けどこの手段には問題がある。財布を入れ替えるには、俺と同じ財布が必要になる。綿貫はそれをどこで手に入れたのか?
美里だ。
綿貫は美里の財布を借りていたのだ。
美里は前日、泊まった俺の家で自分の財布の中身を俺の財布と全く同じにした。同じ枚数の紙幣と小銭を入れ、カード入れに俺と東の古い学生証を入れておく。
そして当日の朝、美里は綿貫にその財布を渡した。朝出会った時だろう。そして綿貫は、講義中に俺が目を離した隙に財布を入れ替える。そのあと、教員が出席の不正に言及した際に、五百旗頭に「乃木が東の出席を代行していた。乃木の財布に東の学生証が入っているはずだ」と言わせればいい。
「古い学生証だとICカードの機能が取り消されて、出席時に上手く機能しない。だから俺が出席する時点では俺の学生証は新しい学生証である必要があった。財布をすり変えたのはその後、講義中だ。それは綿貫にしか出来ない。なら、そのあと俺の財布の中の学生証を新しいものに直したのは誰だ?
あの日は例の講義しかなかったから、俺の学生証が古くてICカードとして使えなくても俺は気づかない。俺の時間割を知っているのは、あるいは古い学生証や入れ替わった財布を元に戻すことができるのは、あの日の夜こうやって俺の家に来た美里しかいない」
アイスの代金が云々、と言いながら美里は俺の財布を触っていたのを思い出す。その後に財布をまた元に戻したんだろう。あの時はアイスの選び方で性格が、なんて話してたんだっけ。なんだか、随分昔の気がする。
「……バレちゃったか。ごめんね」
美里の声は遠かった。会話の途中に洗面所に入って、姿は見えない。
「綿貫くんから頼まれて仕方なくて。ほら、あの子結構強引じゃない? 怖くてさ。急に財布を貸すように頼まれてね」
俺は意識せず笑っていた。実際に声も出ていた。それは思うよりずっと乾いていた。
「美里は自分の財布が今回のことに使われるの、知らなかったんだ?」
「もちろん」
「嘘だろ」
「嘘じゃないよ」
「ならなんで、綿貫達が学生課に学生証を再発行しに行ったとき、美里も一緒にいたの?」
聞こえるのは、蛇口から水が流れ出る音だけ。
志紀さんはこう言った。『当人の他には、帽子を被ってマスクを着けた小柄な男の子が一緒だった』小柄な男の子は誰か? 最初は五百旗頭だと思った。しかし髪型で身長を確保している五百旗頭は、死んでも帽子なんてかぶらない。
そして、電話でも確認したとおり、綿貫は背の低い男とはつるまない。なら一緒にいたのは誰だ? 男性と見間違えられるほど髪の短い女性で、綿貫と関係のある奴は?
「学生課の職員から『綿貫が職員証の再発行に来た時、髪の短い女の子が一緒だった』っていう風なことを聞いたからさ。綿貫の周りでショートヘアって、美里くらいじゃん?」
美里は白いタオルを肩にかけて現れた。頬にある薄いそばかすを気にするように親指で撫でながら、美里はちろっと笑った。今まで見たどの顔よりも色っぽい。
彼女は眼鏡を押し上げ、俺の顔をまじまじと見た。
「なんだ。陸くん、全然表情変わってないじゃん」
面白くないなあ、と美里はクッションの上に座る。タオルで口元を隠すように拭きながら、下から俺の顔を覗き込んだ。「あ、けどちょっと怒ってる?」
「怒ってるっていうか……」
言いながら、言葉を探した。結局、いつもの答えしか持ってくることができない。
「よく分からない」
「というと?」
「筋道が通らない気がする。筋道というか、道理が。そういう点では、怒ってるかも」
「『かも』ってなによー」
美里は缶チューハイをかたむけた。その人工的な甘い香り。
「陸くんは今、誰に、何を怒ってるの?」
「美里に。理由の分からない行動をされてるから、怒ってる」
「でも、『かも』なんだ」
美里は考え込むようにわずかに顎を引いた。何かに思いを巡らせているんだろう。右手の人差し指は缶を叩いてリズムを取っている。
美里のまつ毛の下の瞳は、蝶のように室内をうろうろしている。それはアウトレットモールに行ったときの美里を思い出させる。あの店に入って、今度はこの店に。楽しそうで、心地よさそうで、でも結局、ほしいものがない、と言って何も買わない。
「私は恋愛が好き」
と、やがて美里は言った。
「なんで好きかっていうと、相手の本当の顔が見られるから。絶対他人に見せない、親にも友達にも見せない顔を私が見られるのが、すっごく好き」
ふらふら歩き回っていた瞳は、俺の目をすっくと見定めた。
深く黒い落とし穴みたいだった。
これからの話の展開が、なんとなく分かった気がした。
「でも陸くんは違う」
彼女は丁寧に息を吐いた。
「陸くんは、違うよね?」
ともう一度ゆっくりと言った。本当に俺が目の前にいるか、存在を確かめるみたいに。
「爆笑もしないし、号泣もしない。いつも無関心を決め込んでてさ。恋人である私にも本当の顔を見せてくれない。一緒に講義を受けている時も、デートの時も、ベッドの上でも」
「そんなことないと思うけど」
言っても意味のない言葉だろうなとは思った。
そしてやはり、美里には届かなかった。彼女は無視して続けた。
「だから、違う方向性で陸くんを揺さぶってみようかと思ったの。陸くんのことを良く思ってない綿貫くんをそそのかして、今回のことを計画してみた」
つまりね、と。
「不正行為を疑われて、しかも友達に裏切られたら、動揺して不安になって、私に泣きついてくるかなって思ったの。私はようやく陸くんの本当の顔が見られるかなって。性格診断にも興味がない、アイスを選ぶときも『なんでもいい』って言う、陸くんの本性を。どう? 道理は一応、通ってるでしょ?」
……道理?
恋人を揺さぶるために、友人とともに恋人を罠に嵌める。
それのどこに正当な道理が尽くされていたのだろう。志紀さんは、最近の学生は理不尽だと口にするタイミングを考えるべきだ、と言った。この状況を理不尽だと思う俺は、間違っているんだろうか。
しばらく待った。けどもちろん、黙っていても答えなんて何も降ってこなかった。結局、多分そういうことなのだろう、と俺は生温いビールを飲んだ時みたいに喉越し悪く諒解した。つまり、俺は彼女のことが何も見えていなかったし、何も分かっていなかった。彼女のセリフは理不尽だ、と感じる程度には。
けど、ここで話を終わらせるには、あまりにも消化不良なような気がした。
「で、結果はどうだった?」
俺の問いに、彼女は諦めたみたいに首を振った。人差し指が机を叩いた。
「けど、やっぱり本当の顔は見えないね。取り乱しもしないし」
そこで一度視線を切って、また俺を見た。
「陸くんは本当はなにがしたいの? 本当は何を求めてるの? 本当はどうなりたいの? ……それを見せてくれないって、私もしかして恋人として、あるいは人間として信頼されてないってこと?」
そんなことないだろ、と俺はもう一度言う。言っても意味なんてないんだろうな、と思いながら。
──肝心なところが何か足りないんだ。
キャッチャーのあの言葉が、頭の中で花火のように打ちあがった。
打ちあがって、徐々に消えていった。
そうして残ったのは空しさだけだった。何かが決定的に終わった時に訪れる類の静けさだ。
美里の人差し指はずっとリズムを刻んでいる。こくり、と首を傾げた。
「どう? 理由は説明したよ。聞いてもまだ怒ってる?」
「怒ってないよ」
「かもじゃなくて?」
「かもじゃなくて」
「他に、私に言いたいことはある?」
特にない、と面白くない講義の時と同じ返事を使おうとして、それはやっぱりやめにした。
さっきまでリズムを刻んでいた手が拳になっている。眼鏡の奥の瞳に冷たい波が見える。
別に、美里を馬鹿にしてるとか、そんなことは絶対にない。
そうじゃなくて……。
「美里ってさ」
「うん」
「考える時、人差し指でリズムを取るよなあ」
「うん?」
「考えてる時でも、いつもどこか動いてる。考える時は、立ち止まった方がいいよ」
「なんで?」
「早さは脆いから」
「……はあ?」
風船から空気が抜けるようにしゅるしゅると、美里の肩から力が抜けていった。拳が緩んで白くなった手のひらが見えた。
「なにそれ。ピントがずれすぎ」
美里は小さな手で俺の膝をぽんと叩いた。そこにはまだ怒りによる熱気の余韻のようなものが感じられた。
「よく分かんないね、陸くんって」
と彼女は小首を傾げた。
今日は遅いし泊まっていけばと、とりあえず提案してみる。美里は悔しそうに唸った。
「人間味がないくせに、それっぽい優しい言葉はかけられるんだよなー、陸くんは。いつもそれっぽいんだよ。それが逆に、ちょっと洗練されてる風にも見えるし。東京の人ってみんなそうなの?」
美里は立ち上がり、風呂場に向かった。カーテンを閉めるとすぐ、下着が床に落ちた音がした。カーテンから顔だけ出して、
「どう? 陸くん。最後だし、一緒に入らない?」
「いや、やめとく」
「……陸くんって、臆病っていうか、卑怯で汚いよね」
その言い方は、美里がアイスを食べた時の仕草を思い起こさせた。ティッシュで丁寧にで口元を拭い、それを綺麗な四角に折る。優しく、強く折り目を付けて。そうしてきちんとゴミ箱へ捨てる。
美里の語調も、まさしくそんな感じだ。丁寧で、強い。そうして最後は、もう必要ない場所へとぽいと捨てる。
二人の関係は、もう一度広げても二度と元には戻らないのだと分かった。
「でもさ、なんで鈴木は気づいたの?」
俺が美里の話をかいつまんで説明すると、志紀さんはベンチに戻ってきていた案山子さんに尋ねた。
「乃木くんの恋人が関わってるって。『みよし屋』のAセットのプリンで分かったのは、学生証が再発行されてたってだけでしょ」
けど、案山子さんは打順を待っていて、それどころではないみたいだった。バットのグリップを握って、座っては立ってを落ち着きなく繰り返している。
「鈴木、聞いてる?」
「え、うん。なんだっけ?」
「なんで、俺の彼女が関わってるって気づいたんすか?」
気になっていたところだったので、俺も聞いてみる。案山子さんはあからさまに面倒そうに首を横に振った。
「乃木くんの財布が入れ替わってることに、気付いたから」
「どこでです? なんで?」
「『みよし屋』。乃木くんが、端数の小銭を、出してくれなかったから」
俺が頭にクエスチョンを浮かべていると、案山子さんは憤然としてにらみつけてきた。
「あの日、僕が昼飯を乃木くんに、おごったでしょ。覚えてないの?」
「覚えてますけど」
「端数の、六十円を出してって言ったのに、乃木くんは出して、くれなかった」
「だって、実際十円玉持ってなかったし」
「だから、入れ替えを、思いついたんだよ」
どういうことかさっぱり分からない。
「あの日の朝、乃木くんは小銭で、二百円で缶コーヒーを買った。缶コーヒーは一四〇円だって言ってたし、絶対に六十円は、小銭があったはずだ。なのに、あの日の昼飯時には、財布の中に、六十円が無かった」
みよし屋のレジ前で、案山子さんが何度も俺の財布を覗き込んでいたのを思い出す。あの時にはお金に細かい人だと思っていたけど、そういう事情だったとは。
そしてもう一つ気が付いたことがあった。あの日の朝、若い女性の荷物を運んでコーヒーを買った時、美里が明らかに不機嫌になったのはそういう理由だったからか。二つの同じ財布の中身が変わることを、美里は嫌ったわけだ。
「乃木くんは、恋人とおそろいのグッズが、たくさんあるって言ってたからね。しかもあの財布、高いんでしょ? 綿貫くんがわざわざ高い財布を用意するのも、手間だと思うし。それなら乃木くんの、恋人が関わってるんだろうって」
「なるほど」
素直に感心していると、フォアボールでバッターが塁に出た。案山子さんは勢いよく立ち上がった。
「そんなことより、志紀。僕がヒット、打ったら、五千円だからね」
案山子さんがどたどたとベンチを出る。違法賭博だ、と突っ込むべきなのか迷っていると、「君さ」と先に志紀さんが口を開いた。
あくまで呟きのように、
「どうして今日の講義で先生に本当のことを言わなかったの? 下手したら今期の君の単位が全部なくなってた可能性もあったんだよ?」
案山子さんの姿に視線を奪われていたのと、志紀さんのまったく飾り気のない口調のせいで、その言葉は緩衝材がなくそのまま胸に突き刺さった。
本当のこと。
美里も言ってたっけ。
本当の顔、とかなんとか。
「……なに。どうしたの?」
変な間が空いて、志紀さんが顔をしかめる。
……ああ。ええっと、美里の言ったような『本当』じゃなくて、『なぜ自分が騙されたと真相を説明しなかったのか』、そういうことっすよね?
ジャストミートしない案山子さんの打ったボールはショートに転がる。明らかな打ち損じでもいじらしく全力で駆ける案山子さんに「惜しい」とか「ナイスバッティング!」とか声援が飛ぶ。
「すみません、ちょっと考え事してて」
「で、考えた結果、何を答えてくれるのかしら?」
「ええっと、……まあなんというか、あそこで本当のことを言っても確たる証拠なんて無かったし、先生の手間も取らせるし、来年もある授業だし」
「『よく分かんないけど、いいか』って?」
「そういうことっすね」
志紀さんは首を左右にかたむけた。骨の鳴る小気味のいい音の後に、「やっぱり感じ悪いね、君。今私に答えることも面倒になってるって、バレバレだよ」と目を細めた。
「なになに、何の話?」
いいタイミングで案山子さんがベンチに戻ってくる。
「鈴木、私やっぱりこの子のこと、苦手だわ」
志紀さんはオブラートに包むとかそういうことを、するつもりはないらしい。腹が立つ。何に腹が立つかって、嫌われていることが明白になって、ちょっとがっかりしている自分に。
あれ、と案山子さんは驚いた様子だった。
「そうなの? 乃木くんのことが、苦手な人、なんているんだ。絵に描いたような、好青年だと、思うけど」
「本当に絵に描いてるんだよ、この子は」
志紀さんはずけずけと続けた。
「AIでレポート書いちゃう子と一緒。その場しのぎで取り繕ってるだけ。本当の自分がない。だから自分の頭で考えられない。『よく分かんない』で済ましちゃうの」
案山子さんは目をぱちくりした。そしていかにもおかしそうに手を叩いた。ツ―アウト―、と一塁手が大声で叫ぶのにも負けない大きな音だった。
「さすが、志紀だね。容赦ない。でも考えないは、嘘だよ。乃木くんは、とことん、考えてる。賭けてもいい」
へえと志紀さんが眉を上げた。
「随分買ってるんだ。知り合って長いの?」
「全然」
と、案山子さんはあっさりと首を振った。「でも、まあ、先週は色々あったし。うん。分かるんだ」
「ふうん。私としては、賭けるよりこれまでに貸した金を返してほしい」
「それでも、賭けるよ。……そうだ」
バッターが内野フライでチェンジになったのを見て、案山子さんは思いついたように立ち上がった。
「審判。ピッチャー交代。次の回から、乃木くんに交代。センターがピッチャー、ピッチャーがセンター」
審判にそう告げるやいなや、案山子さんは志紀さんに向き直った。
「次の回、相手バッターは綿貫くんからだ。どんなピッチングをするか、千円賭けよう」
「千円?」
「一万円でもいいよ」
「ずいぶん自信あるんだね」
「乃木くんのことは、僕がよく知ってるって、証明するための賭けだからね」
案山子さんは志紀さんの耳元に何か囁いた。賭けの内容を告げたらしい。眉を顰める志紀さんを尻目に、案山子さんは飄々としている。さあ行こう、と案山子さんに背中を叩かれて、ようやく俺は我に返った。
いやいや、行こうってどこへ? マウンド? グローブも渡されちゃって……。えーっと、で、賭けがなんだって?
「全然状況がつかめないんですけど」
マウンドに向かいながらとりあえず言ってみるけど、案山子さんは俺の背中を押した。
「大丈夫だよ。乃木くんは元ピッチャーでしょ? 三球三振で、なぎ倒してくれたらいい。回が終わったころには、僕の手には一万円がある」
さっきまで好投していたエースは、マウンドまで一緒についてきてくれた。背はそこまで高くないけど、いかにもスポーツができますという具合に筋肉ががっしりついている。教育学部の体育系の先生だろうと思う。
「お前、一回生か」
声もどことなく圧がある。「打たれたら承知しねーぞ」
反応に困って口ごもると、今度はにっこり笑いかけてきた。
「はは。嘘だよ。けどまあ、頑張ってほしいのは本当だ」
エースは小走りでライトに向かう案山子さんを遠い目で見つめた。ただ焦点を遠くに合わせるというより、何かを思い起こすような優しい目をしていた。後輩、あるいは同期なのだろうか。その目の色には、ただの友人以上の何かが含まれているみたいに見える。
「あいつに華を持たせてやりたいからさ。あいつ、おれの弟みたいなもんだから」
ぽん、と俺の背中を叩いてエースはセンターに向かった。「えーすさーん、さっきこのバッターセンターフライでしたよー!」とキャッチャーが声を張り上げた。エースさん、と呼ばれた彼は、片手をあげた大きな背中で答えた。
そんな堂々たるエースのあとを任されたのは俺だった。土が削れて低くなった固いマウンドに立つと、目線の先にはバットを握った綿貫がいた。マウンドに立つのは一年ぶりで、だからと言って何の感慨も無かった。
──肝心なところが何か足りないんだ。
あの日のキャッチャーの顔が脳裏をよぎった。あいつは心底悔しそうだった。試合に負けたことに対してではない。幼馴染の俺にずっと何かが欠けている、そのことを伝えられないもどかしさがそこにはあった。
──よく分からないんだ、自分でも。
そう、そうだ。やっと思い出した。
俺は確かに、そう答えた。その言葉はあまりにも日常的で俺の人生になじみすぎていて、だから忘れていたのだ。
よく分からない。
それこそが俺の本当じゃないか、と思った。
朝起きて、習慣でSNSを眺めて、目的もなく大学に行って、バイトにいそしむ。雰囲気で友人になり、成り行きで彼女を作ったりもする。高校の頃は、その中に部活もあった。習慣と、雰囲気と、成り行きの人生。それは身軽で、低燃費で、それなりに楽しい。
けど、それだけだ。
本当の顔とか、心からしたいこととか、そんなもの俺にはない。
なんで?
よく分からない。
早く投球してくれ、と審判の注意の声が届いて我に返る。
「あんな風に突っ立っちゃって、ビビッてんすよあいつ」
と、綿貫が茶化している声がする。追随する聞き苦しい笑い声は、五百旗頭のものだろう。
「おーい。プレイだぞー!」
ライトから案山子さんがやけに嬉しげに声を張り上げた。振り返ると、小枝みたいな体が大きく手を振っていた。
「バッターに集中!」
あんたが勝手にピッチャーにしたんだろう、と言い返したいのを堪える。状況はつかめていないし、心も定まっていない。本当に何もかも、よく分からない。いくらなんでも、ここまでよく分からないのは久しぶりだ。
鷹揚にバットを振る綿貫は、俺を見た。それから案山子さんを見て、肩をすくめた。その唇の赤は、嘲笑の色だった。案山子さんと一緒にいることに対する、俺への嘲りだった。綿貫にとって、案山子さんと一緒にいる人物はその笑みを浮かべるに値するのだ。
「……」
そういえば、分からないことだらけの中で、分かっていることがある。
ここで三振をとったら、案山子さんは一万円が手に入る。
短く息を吐いた。
その後に静寂があった。静寂の足元には硬さがあった。マウンドと、白いプレート。プレートの上にあった小さな土くずを、スニーカーで蹴とばした。
大きく振りかぶった。
5
「いやぁ、すごかったねえ。乃木くん」
試合が終わって三十分は経つのに、まだ案山子さんはベンチに座ってほくほくしている。景色は薄闇に覆われつつあった。
試合はその後、相手のエラーも重なり逆転し、そのまま逃げ切って勝利した。けど、ほくほくしている理由はそれだけがではないだろう。案山子さんの手には一万円札が握られている。
「三振の山だったもんねえ。さすが、元高校球児。手加減なしだったね」
久しぶりにマウンドでボールを放るのは、思ったより腕が振れてすかっとした。綿貫が変化球にタイミングの崩れた空振り三振をして尻もちをついた時は、もっとすかっとした。
けど、案山子さんが両手を天に掲げ、大げさなガッツポーズをしてはしゃいでいるのを見たら、そういうのもどうでもよくなった。
「案山子さんは、なんで俺が三振取れることに賭けてくれたんですか?」
「かかし?」
しまった。
そういえば、俺が勝手に案山子さんと名付けていただけで、きちんと呼んだことがない。
仕方なく白状した。
「すんません。鈴木さんのこと、俺は自分の中で勝手に『案山子さん』ってあだ名付けてたんです。つい出ちゃって」
「なんで、案山子?」
「所かまわず、案山子みたいに佇んでるから」
「なる、ほど?」
彼は「かかし、かかし」とその響きを舌の上で転がすように繰り返す。
「いいね。僕も案山子は好きだよ」
「案山子に好きも嫌いもないでしょ」
「案山子は守るけど争わない。オズの魔法使いのかかしだって、そうでしょ?」
さいですか。
気に入ったようで何よりだった。気に入るポイントは、よく分からないけど。
案山子さんは何度も頷いている。頷いた拍子に一万円札が目に入ったのだろう、ああそうだね、と思い出したようにぱっと顔を上げた。
「賭けの、話だったね。三振に、賭けたって話だっけ」
「そうすね」
「僕は、賭けてない」
「え」
「僕は、三振に、賭けてない」
だったら何に──。
尋ねる前に案山子さんが答えた。
「マウンドで、考えこんじゃうに、一万円」
「へ?」
「だから、乃木くんがマウンドで、色々考えこんじゃって、審判に注意されるのに、一万円賭けてたんだ」
「綿貫を三振に取る、じゃなくて?」
「うん」
……よく分からないなあ、ほんとに。
案山子さんのために、全力で投げたつもりはない。けど、返ってくる言葉の予測がいちいち外れるから、拍子抜けしてばかりだ。
「志紀も、分かった、はずだよ。乃木くんが『自分の頭で考えられない』なんてことは、ないってね」
「どうっすかね」
俺は何となく投げやりな気持ちになって、誰もいないグラウンドへ言葉を放った。さっき実際にボールを放った時と違って、全然すかっとしなかった。ほんとに、どうっすかねえ。
「何を、考えてたの?」
「はい?」
「さっき、マウンドに立って、何を、考えてたの?」
力が抜けたせいか、自然に言葉が転がり出た。
「美里の言うことも正しいよな、って考えてました」
世界が灰色に染まってゆく。
「綿貫の言うことも、志紀さんの言うことも大体正しいですよ。俺はいつも他人事で、本当の顔なんてなくて、何となく取り繕ってるだけで」
一瞬息が詰まった。
「俺って、よく分かんないことばっかりだな、って」
だだっ広いグラウンドには、もう誰もいない。
そのせいだろうな、と思う。変に湿っぽく響いてしまった。情けなかったけど、案山子さんだったら聞かれたってまあいいか、とすんなりと思ってしまう。
これで夕日が差し込んでいたら、絵になるのに。けど、実際は蒸し暑い空気とだだっぴろい薄暮のグラウンド、それだけだ。
「一体何がどうなって俺が今ここでこうしているのか、全然よく分からないんです。肝心なところが何か足りない」
悲しい気もした。空しい気もした。
でもそれすら、よく分からない。
しばらく無言の時が流れた。グラウンドの土が夕闇にゆっくり溶けて、ベンチの隅に片付けられた白いベースだけが浮かんで見えた。自分の影法師がどこまで伸びているのか、もう分からなくなってきている。
「僕の、一番好きな時間帯が、あるんだ」
ふと案山子さんが言った。
タイミングも、台詞も唐突だった。
「いつだと、思う?」
俺は黙って首を振った。知るわけがない。
「この時間帯、だよ。日が暮れる前の、薄暮の時間」
「なんでです?」
「よく見えないから」
白い歯が、灰色の景色に浮かび上がった。
「薄暮の時間って、見えてるようで、よく見えない。事物の輪郭はあって、けどその詳細は、よく分からない」
それがいいんだ、と彼は続ける。
「この時間に、それを見ると、改めて思い出すんだよね。『そういえば、まあ、大体何事もそんなものだ』って」
案山子さんは自分の言葉を体内で反響させるみたいに、何度も頷いてみせる。
「見えてるようで、見えてない。分かるようで、よく分からない。じっと目を凝らして、ようやく、何かが見えてくる。大体何事も、そういうものじゃないかなあ」
夕闇に浮かぶ黒い目が、俺をじっと捉えて離さない。美里が向けた瞳とは違う種類の黒色だ。美里のものは丸い井戸の奥みたいな、息詰まる黒色だった。こっちは夏の終わりの夜空みたいな黒色で、蒸し暑い心地の悪さを忘れさせてくれる安心感が滲んでいる。
「それでね、目を凝らすには、立ち止まらないと、いけないんだよ」
例えば、と俺に伝える案山子さんの口調は、どこまでも柔らかかった。
「例えば、綿貫くんだ。きっと彼は、人生の近道を、駆け抜けてるんだろうな。到達地点があって、それに向かって効率的に、素早く進む。人脈を広げるのに、SNSやメディアを使っているだろうし、同時に自分のそばに置く人間にも、注意を払っている。行動力はあって、しかも慎重だ。素晴らしい、ことだよ」
でも、とやや力を込めた。
「多分、彼はある地点で振り返ったとき、自分の足跡がないことに、気が付くんだと思う。なぜなら彼は、立ち止まったことが、無いから。速さを優先するがあまり、立ち止まって一つのことをゆっくり、丁寧に考えたことが無い。よく分かんないことがあっても、彼はきっと考えずに、走り抜けちゃうよ」
「行動力があって即断即決は、悪いことじゃないでしょ」
むしろ、憧れさえある。それは多分、俺が綿貫の近くにいた理由の一つだった。分からないことだらけの俺にとって、綿貫の明快さは見ていて心地よかった。
「でも、立ち止まらないと、足跡は深く、残らない」
案山子さんはかわすようにふわりと応じる。
「立ち止まって、考えないと。でないと、何もかもすぐに消えてしまう。そして、乃木くんは多分、立ち止まることの、できる人だと思う」
言葉を探してみた。うまく見つけられる自信はなかったけど、一応。
「まさか」
と俺はグラウンドに目を逃がした。まさか、と繰り返す。
「俺は何もしてないだけですよ。よく分からなくて、色んなことを保留にしてるだけで」
「……僕がさっき、乃木くんに賭けたのはね」
案山子さんは俺の顔をじっと見つめた。
「君には既に、立ち止まって考えた実績が、あるからだよ。考えたからこそ、今回こうやって、物事がはっきりした」
グラウンドの風は、薄暮の空気をかき混ぜる。
「乃木くんは今回、なぜ学生証が自分の財布にあったのか、考えた。『よく分かんないけど、まあどうでもいいか』ってできたはずだ。でも君は、そう、しなかった。家でも、考えた。でしょ?」
「誰だって少しはそうしますよ」
「綿貫くんなら、そうは、考えない」
「……」
「もっと、現実的に、考えるはずだよ。例えば『教授に謝りに行くのがベターか、それとも仲のいい事務に頼って、うまく仲裁してもらおうか』とかね。立ち止まって『そもそもどうしてこんなことが』って考える人って、実はあんまり、いないものだよ」
案山子さんの破顔が夕闇に浮かんだ。「だから君に賭けたんだよ。きっと、マウンドでも、色々考えこんじゃうだろうな、って」
「俺はそんな、思慮深い人間じゃないですって。ぼんやりしてるだけで」
「『よく分からない』って思えるのは、立ち止まれる証拠だよ」
「立ち止まってよかったことなんて、今までなかったっすよ」
「もちろん、そうかもしれない。けど、立ち止まらないと、輪郭以上の何かを、見極められないのは確かだよ」
「……」
「立ち止まれる乃木くんなら、きっとこれからも目を凝らすことが、できるんだろうね」
真っすぐに見つめる目の力強さが痛い。
目を逸らせる。
フェンスの向こう、夏草と川には闇が落ちかかっていた。
「……こんなおかしな出来事、そうそう起こりませんよ」
俺はわざとふてくされたみたいな声を出してみた。
そうしないとなんだか、何かが溢れてしまいそうな気がしたから。
案山子さんの微笑みの輪郭が見えた。
「こんな出来事じゃ、なくたっていい。平凡な日常の、平凡な人の心の薄暮の一面にも、乃木くんならきっと、立ち止まって目を凝らせるよ」
案山子さんは勝手にすっきりした声になって「みよし屋に、晩飯でも、食べに行こう!」と立ち上がった。
目の前を歩く長細いシルエットを見やる。案山子になっている時の、あの粛然とした雰囲気は微塵も感じさせない。この人は案山子になっている時、本当に何を考えているのだろう。知りたい、と思った。いつか分かるだろうか、とわずかに期待した。まあ無理だろうな、と言い聞かせるみたいに諦めた。
ふいに、前を歩く案山子さんが立ち止まって、ぶつかりそうになる。
さっそく案山子になるか、と思いきや、俺のほうを振り返った。俺の顔のほんの十センチ先で、案山子さんは宣言した。
「これから、みんなには『案山子』って呼んでもらうことに、しようと思う」
「はあ」
「乃木くんは、僕の人生にあだ名っていう、足跡を残したわけだね」
相変わらず、乾いた唇から出てくる言葉はよく分からない。
よく分からないけど、胸が熱くなったのは分かった。
息をいっぱい吸い込んだ。息を吸うと、自然と視線が空に向かった。多分、俺はこれからこの人と大学生活を過ごすことになるんだろうな、と確信めいた予感が生まれた。
薄暮の空には、見えるようで見えない小さな星々が瞬き始めていた。