「ほら、前の烏川杯で俺らの前に試合してたチームの」

 ああ、と綿貫はつまらなそうに相槌を打った。

「あの変人気取りね」

 烏川杯の一回戦は、見事な五月晴れだった。

 俺たちの前の試合は白熱していた。最終回の裏の攻撃で、七対六。逆転すれば、ルーズべルトゲームだ。

 その先頭バッターが案山子さんだった。

 なにやら足を引っ張っている選手がいるな、とは思っていた。ひょろひょろでいかにも運動が苦手そうなライトの選手だ。その彼が今、バッターボックスにいる。

 当然のように、彼は三振をした。見逃し三振だった。ぴくりともしなかった。

 そして、彼はそのまま動かなかった。

 相手のキャッチャーが不思議そうに彼を見上げた。審判がおずおずと肩を叩いた。しかし彼はバットを構えたまま動かなかった。視線はずっとピッチャーにあった。ただし、睨んでいるという風でもない。ただぽかんと呑気に突っ立っているのだ。

 案山子だ、と思った。

 本当にバッターボックスに、案山子っているんだ。

 バッター案山子だよ! なんていうヤジを、野球をやっていると耳にすることがある。要は「立っているだけで、バットは振ってこないぞ」という煽りなのだけど、まさか本当に案山子みたいに立ち尽くすバッターを見るとは。

 ネクストバッターズサークルにいた男性が、慌てて彼を引っ張ってベンチまで下げた。それでその一幕は終わった。その後、案山子さんのいたチームが逆転して勝利してわりと盛り上がったのだけど、それにはあまり興味は湧かなかった。印象に残ったのは案山子さんの佇まいだった。

 その後、時々大学の構内で彼を見かけることに気づいた。

 おおよその場合、彼は佇んでいた。十回見て八回は佇んでいた。何かを睨むわけでもなく、世を憂えているわけでもなく、あくまで呑気に佇んでいた。それがまるで田んぼの真ん中に立つ案山子みたいで、俺は勝手に彼を『案山子さん』と呼ぶことにしていた。

 案山子さんはどうでもよくてさ、と綿貫は実務的な視線をよこした。

「乃木、今日も飲み会、いけるよな? 今日はお前、女の子を一人は連れてくるんだぜ」

「人数足りないなら、適当にバイトの先輩とか呼ぶよ。男だけど」

「お前、全然分かってないなぁ」

 綿貫はスマートフォンの画面を忙しなくスクロールしていた。今日も何か情報を集めているらしい。前に、俺の親の名前まで尋ねられたことがあるけど、そこまで収集していったい何をしたいんだろうと不思議に思う。

「おれがこんなに社会人とコネクション作ってやってるんじゃん? 女の子を呼んで場の空気を華やかにしようかな、とかそういう気を遣えよ。お前、顔は悪くはないんだから、役割を理解しろよ」

「その先輩は背が高いし、綿貫とも仲良くなれそうだけどな」

 一応そう言ってみたけど、綿貫は聞いていない。

 綿貫は気さくで行動力のある奴だけど、人間関係におけるルールが多い。漢字じゃなくてカタカナをやたら使う男は嫌いだとか、自分より格が下のやつには奢らないとか。髪の短い女とは親しくしない、っていうのもあったけど、そのくせショートヘアの美里には心を許しているから、どこまで厳格なものなのかは本人しか分からない。

 そして、そのルールの一つが「身長が一七〇センチ以下の男とはつるまない」というものだった。「誰と一緒にいるかっていうことも、自己プロデュースの一環だから」というのが本人談だ。

 いい性格とはいいがたいな、と思う。

 けど正しいやり方だ、とも思う。

 似合っていない七三分けも、面白くもない社会人との飲み会も、彼が将来社会的にさらなる成功を収めるための助走に過ぎない。五月に行われた新入生歓迎の学園祭も、実行委員として走り回っていた。意識が高いし、効率的だ。ルールを守って自己プロデュースを徹底し、この大学で有名な研究者である永須大樹と知り合い、会社を立ち上げ、世界に進出する。そうして若手実業家として地位を確固たるものにする。

 綿貫には綿貫の望む未来がある。

 それに向けて最短距離で走っている。

「お前は美里ちゃんを呼んで来たらいいから。オッケー?」

 綿貫の指が一瞬止まり、けどフォロワー数を見てから指先で弾く。一定のフォロワー数の人間しかフォローしない。それも綿貫のルールの一つだ。

「美里がオッケーなら、オッケー」

 講義室の入口にはカードリーダーが二個設置されている。俺は右側のカードリーダーに自分の学生証をかざす。ピっと電子音がして出席が取られる。

 講義は『キャリア形成論』という科目だった。この大学の卒業生がオムニバスで自分の成功体験を語って、それを教員が総括する。時々学生に感想を求める。当てられても、俺はいつも「特にありません」と答える。

「今日もあずまは寝坊かな?」

 窓際の席に座って俺は尋ねる。三人掛けの机で、俺は窓側、一席空けて綿貫はその右だった。

「だろうな」

「今週は出席してるか確認するって言ってたけど。お前、東に言ったんだよな?」

「まあ、そのうち来るだろ」

 と綿貫はきょろきょろ辺りを見ながら、気のない返事をする。

 俺もつられて視線を動かすと、髪をトサカのように立てた五百旗頭の小さな目と視線がぶつかった。五百旗頭は講義室の一番後ろの右端に一人で座っている。俺と目が合うと、五百旗頭は慌てて視線を逸らせた。

 五百旗頭とは仲が悪いわけではないけど、良好というわけでもなかった。綿貫といたいがために背を高く見せようと髪をトサカみたいにセットしていたり、遅刻ばかりする東の代わりに出席を偽装してみせたり、いつも顔色を窺っている感じが見ていてそわそわする。そういう俺の感情を読み取って、五百旗頭も積極的に俺に関わってこようとしない。

「ところで、乃木は来週の試合、どこ守りたい?」

 どこでもいいよ、と答えた時、教員が入ってきた。

 教員が三十分ほどつらつらとキャリアについて論じて、その後にいつもの講演が始まった。

 今日の講演は地元企業の社長だった。パリッとしたダークスーツを着た男性で、六十代に見えないほど声に張りがあった。彼は自分の生い立ちを述べ、苦労話と成功譚を語った。

 そして最後にこう締めくくった。

「君たちにはとにかく自分の価値を高めてほしい。自分は何ができるのか、何を持っているのか、何になれるのか。そして、自分の足で、この荒野を駆け抜けて行って成功してほしい」

 まばらな拍手に背を押され、社長は退席した。

 教員は十人ほどを指名して、感想を述べさせた。俺もそのうちの一人だった。「三十秒で簡潔に」と彼は指示した。俺は「特にありません」と答えた。前の奴が一分はしゃべっていただろうから、俺のおかげで帳尻があったはずだ。

 教員がそのことを口にしたのは、そのすぐ後だ。

「では、先週お伝えした通り、出欠確認を行います。今私の手元のPCには、今日この講義室に入る際に学生証をタッチした生徒のデータがあります。読み上げるので、挙手の上返事をしてください」

 教員が順番に読み上げていく。俺は半身で振り返って東の金髪姿を探したが姿が見えない。五百旗頭は落ち着かなそうにトサカを揺らしていた。いつものように東の代わりに出席を偽装したんだと察しがつく。

「東くん、東健一くん」

 当然、返事はない。講義室のいくつかの視線が自然と五百旗頭に集まった。五百旗頭が二回カードリーダ―を通していることを、知っている人も少なくないのだ。

「あ、あの!」

 集まった視線を振り払うように五百旗頭が立ち上がった。動揺したトサカが左右に揺れる。

「おれ、その」

「なんでしょう」

「乃木くんが、東の学生証でカードリーダーにタッチしてるの見ました!」

 五百旗頭の高い声が響いた後、沈黙が講義室を満たした。

 五百旗頭はそれに構わず、今度は俺を指さした。

「財布に、東の学生証が入ってると思います!」

 教員が近づいてきて、目だけで意思を伝えてきた。俺は黙って財布を差し出した。だって、東の学生証が入っているわけないんだから。

 教員は俺の財布を広げた。

 その数秒後、教員の手には一枚の学生証があった。

 東のものだ。

「確かに、ありますね」

 呆然とする俺の前に立ち上がってくれたのが、案山子さんだったのだ。

 

「下手すると、前期の全部の単位を没収かな」

 志紀さんはアジフライに噛みついてから、短く切り捨てた。

「『懲戒等に関する規則』に記載があるよ。履修便覧に乗ってるけど、読んでみた? 『当該学生が当該学期に履修登録している全ての授業科目の単位が認定されない』。学部によっては、留年が確定するかも」

 何も見ないですらすらと語るのに驚いていると、案山子さんが説明してくれた。

「志紀はね、記憶力が、やたらいい。今は、学生課、だっけ? 何、してるの?」

「奨学金の給付、サークルの管理、学生証の再発行、遺失物の管理。要は学生たちの小間使い」

「志紀に、そんな仕事させるなんて。もったいないなあ」

 案外向いてる気がする、と志紀さんは水を口に含んだ。

「例えば学生が呆れるような文句を言いに来た時は、まずは学生証を提示するように言うわけ。提示を渋ったら、『学生証は職員から請求があったときは、いつでもこれを提示しなければならない』って学則を告げるの」

「それでも、出したくないって学生も、いるでしょ」

「その時は、『学生証を紛失し、汚損し、又は有効期間が経過したときは、再交付を受けなければならない』って、これも規定にあることを一言一句、そのまま言う。『再交付のために、保証人の名前教えてくれる?』って言うと、大人しく学生証を見せてくれる。今の子は真面目だよ。規定や規則をそらんじるだけで、言うことを聞いてくれる」

「さすがは、生き字引」

 大学入試の英語でしか聞かない言葉に俺が小さく笑うと、志紀さんがじろりと見とがめた。

「ところで君は、随分落ち着いてるんだね。立場、分かってる?」

「立場……っすか?」

 彼女はキャベツを掴んだ箸を宙で止めた。まじまじと俺を見つめて繰り返す。

「もし全部単位が無くなったら、半年分の学費が水の泡だよ。不可ばっかりなんだったら、GPAが1.0を切るから保護者にも連絡がいく」

「あー、それは困りますね」

「もしかして、どうにかなるとでも思ってる?」

「いやあ」

「あるいは、どうにかしてくれると思ってる?」

「あの」

「必死さが、全然見えない」

 志紀さんの目が俺をまっすぐ射貫いた。この整理整頓された表情に、言い訳が通用するとは到底思えない。

 正直に言うしかなさそうだった。

「なんというか、今一つ、ピンと来てないんです」

「どういうこと?」

「こう……よく分かんないっていうか」

 彼女はこれ以上ないくらい、盛大に眉をひそめた。十秒ほど俺を見つめたあと、呆れたように頭を振って、

「まったく、楽しそうなキャンパスライフで羨ましいわ」

 と呟いた。

 灰皿の紫煙はエアコンの風に乗って苦々しく舞う。いくらよく分からないといったって、それが皮肉であることくらいは、俺にだって分かる。

 案山子さんがとりなすように言い含めた。

「だからね、志紀を、呼んだんだよ。乃木くん、来週までに先生に、会いにいかないと、いけない。ねえ志紀、実際、本当に前期の単位は、没収になるのかな?」

「懲戒委員会の判断にもよるからね。多くの場合は委員会まで上がらないものだけど、この態度じゃ、前期の単位没収でもしょうがないかもね」

「なら、犯人を見つけてそいつを、先生に突き出す、しかない」

「それが早いね。もしそうできれば」

「犯人は、分かってるんだ」

「へえ」

「五百旗頭くんって言ってね。いつも、東くんの代わりに、出席を偽装してる」

「なら、そいつを先生のところに連れて行けば、全て解決だね」

 志紀さんは腕時計に目をやり、みそ汁の椀を傾けた。明らかにやる気がない。俺の曖昧な態度のせいだろうから、しょうがない。

「でも証拠が、ないんだ。どうやって乃木くんの財布に、東くんの学生証を入れたんだろう?」

 案山子さんは腕を組んで唸った。「これがその財布、だよね。いたって普通の、財布に見えるなあ」

 四つの心もとないステッチが付いたままの財布は、灰皿とプリンの間にあって、いかにも不釣り合いな絵だった。案山子さんは無造作に財布を開け、東の学生証を取り出している。もちろん、俺に断りなんてない。

「ポイントカードも、クレジットカードも、ないの?」

「スマホで大体、何とかなりますし」

 志紀さんがちらりと財布を見下ろして、これまた不愉快そうに鼻を鳴らす。

「このブランド、高いの?」

 と、案山子さんが余計なことを聞く。

「ついこの間まで高校生だった子が持ってると、癪に障る」

 と、志紀さんはずけずけと論評する。

「ユニセックスで、割と私好みのデザインなのも腹が立つし」

「ふうん」

「財布に仕掛けがある、とかもなさそう、だね」

 差し込む太陽にかざして、「うん、東くんの学生証も、普通のプラスチックのカードだ」とかくかくと顎を揺らす。俺は口に入れたチキンソテーが、うまく飲み込めない。

 話の行き先が、なんとなく思わしくない方向に向かっている気がする。

「最初から乃木くんの財布の中に、入ってたんじゃない?」

 と、志紀さんも無遠慮に俺の財布を覗き込んだ。

「朝に俺が自販機でコーヒーを買った時は、東の学生証なんて入ってなかったっすよ」

「なら、五百旗頭くんが講義前か講義中に、どうにかして乃木くんの財布に入れたわけだ。講義前、五百旗頭くんが乃木くんの近くに来たりした?」

「いや、ないっすね。講義の前はずっと綿貫と話してましたけど、五百旗頭が近くに来ることはなかったっす」

「講義中に、そっと誰かが近寄ってきたとかは? 後ろの席に誰か座ってた?」

「ないっす。後ろも誰も座ってなかった」

「財布はずっと、乃木くんの目の前の机の上にあった?」

「目を離さず見てたわけじゃないですけど、無くなってはないはずです」

「うーん。こういうのは、どうだろう?」

 紫キャベツの酢漬けを全部端に寄せて、案山子さんはようやくサラダに手を付け始める。

「五百旗頭くんが東くんの学生証を使って、カードリーダーにタッチする。講義中に東くんの学生証を他の学生を介して綿貫くんに回す。そうして綿貫くんがこっそり乃木くんの財布に東くんの学生証を入れる」

 俺は首を振って否定した。そりゃ、普通に考えればそうだ。

 けど。

「五百旗頭は一番後ろの席だったんですよ? そこから学生証を手渡しで回すには、十人は他の学生を介さないといけない。全然知らない他の学部の子もいましたし、そんなにうまくいきますかね?」

 だよね、と案山子さんはあっさり引き下がった。

「もっとこう、直接綿貫くんに、渡すようなやり方、じゃないかなと思うんだけど」

 ……。

 言及するなら今のうちかな、と思った。

「あの、やっぱり、綿貫が五百旗頭と組んで俺の財布に学生証を入れたと思いますか?」

 そりゃそうでしょ、と案山子さんはサラダを飲み下した。

「だって隣に座ってたの、綿貫くんだけ、でしょ?」

 ですよね、と今度は俺があっさり引き下がる番だった。ですよね。

 案山子さんは気にも留めていないけど、わりと重大な事実が明白になった。案山子さんは、俺が綿貫と五百旗頭に嵌められたと言っているのだ。

 つまり、こいつらに俺は嫌われてるってこと。

「……」

 改めてそう考えると、胸の奥が多少ざわつかないでもなかった。なるほど、俺は綿貫の自己プロデュースに不必要な人間だと判断されたらしい。

 なるほど。

 なるほどなあ。

「よくない友人たちみたいね」

 志紀さんが新しい煙草に火をつけた。無駄のない所作だった。目の前の皿にはキャベツの切れ端も残っていない。

「まあ、まだ入学して数か月でしょ。そういう関係もあるってことだね」

 どうやら慰めてくれているらしい。俺は薄く笑ったまま首を振った。特に意味はない。意味はないし、悲しくもない。

 ――お前、悲しくないのか。

 ふと、一年前の初夏のグラウンドで、キャッチャーにもそう吐き捨てられたことを思い出した。

 彼は小学校時代からの仲で、ずっとバッテリーを組んでいた。性格は明るく温厚で、責任感の強いキャプテンだった。強豪校に当たった最後の試合、七回まで何とか持ちこたえたのも、彼が柵越えのホームランを放ったからだ。

 けど、七回に俺が四番の強い打球を弾いて、拾いに行ったときにはもう三塁ランナーが生還していて、結果コールドで負けた。

 試合後のベンチ裏で、キャッチャーはほとんど胸倉をつかんできそうな勢いだった。

 ――最後の試合に負けて、なんで平然としてんだ。

 俺は黙って彼のうるんだ瞳を見つめ返した。

 ――お前は昔からそうだよ。なんでもそつなくこなして、でも……肝心なところが何か足りないんだ。

 絞り出したその言葉は、どうしようもなく揺れていた。

 肝心なところが、何か足りない。

 ……俺は何て答えたんだっけ?

「けど、綿貫くんはよくないよ。あの子、講義中のグループワークのレポートでも、生成AI使ってる、からね」

 案山子さんの荒らげた声が届き、我に返った。ここは東京じゃなくて、定食屋にいて、つまり俺はもう高校生じゃない。その現実を繋ぎとめるために、俺は喉に意識的に力を込める。

「AI使うの、だめなんでしたっけ?」

「丸ごと使うのは、よくない、と思う」

「AIの方が早いし、いいんじゃないですか」

「だから、だよ」

「なにがです?」

「早さは、脆い」

 と、案山子さんは言った。

「早さに取り憑かれると、後戻り、できなくなるよ」

 ずるずる、と彼は呑気な音を立ててみそ汁を啜る。

「やりたくないこれを早く終わらせて、面倒なあれも早く終わらせて……で、空いた時間で、みんなは何をするん、だろう?」

 ガラス越しの網戸に止まった熊蝉が鳴き始めた。

 しゃんしゃんと叫ぶその隙間を縫うように、案山子さんの低い声は的確に届く。

「空いた時間にも何か予定を入れて、そのうちそれも、早く終わらせたくなる気が、するな。どんどん、歯車の回る速度は増していって、次第に自分が、追いつかなくなる」

 何となく、経験があるようにも思う。

 あるいは、それすらないようにも思った。

「やりたくないこれも、面倒なあれも、全部ひっくるめて、人生じゃない、かな。地に足をつけて生きるには、早さばかり追いかけて、走ってると、だめだと思うよ」

 言ってから、避けた紫キャベツを一気に水で流し込んだ。小学生みたいな素直な所作だった。その無駄に必死な姿を見て、なんとなく居心地が悪くなる。なんでなのかは分からないけど。

「私から言わせると、AIの問題はそこじゃないかなあ」

 と、志紀さんは煙草を持つ手を左に持ち替えた。

「ある先生がレポートにAIを使った生徒を咎めたことがあったの。すると学生は開き直ってこう言った。『AIを駆使することが前提の社会なんだから、AIを使って課題を提出する方がむしろ正しい。これで単位を落とすのは理不尽だ』って」

「潔いね」

 案山子さんは笑った。色のない澄んだ笑い声だった。

 かもね、と志紀さんは笑わなかった。物憂げに窓の外を見やる。

「私が思うに、AIが不正かどうか、ってのはどうでもいいの。問題は『AIを使ってるな』ってバレるような使い方をしてるってこと。ディスカッションもしてない講義で『ディスカッションをした』みたいなことをAIが書いて、それをそのまま提出したのよ? AIを駆使する? 明らかにAIに使われてるじゃない」

 志紀さんは窓の外の陽炎を恨めしそうに見つめている。

「そりゃ昔だって不正はあったでしょうよ。でも、それには工夫が必要だった。さっきの例には工夫がないの。頭が悪いとかじゃなくて、要領が悪い」

「なる、ほど」

「しかもそういう学生に限って、失敗を上手く受け流せないの。自分の損になる事柄を全部『理不尽だ!』って定義して、食ってかかってきて、学生課に保護者から電話がくるわけ」

「理不尽、ね。道理を尽くしてないのは、どっちだって、思っちゃうかも、確かに」

「最近の学生は、理不尽って言葉を使うタイミングを間違えてるよ」

「じゃあ志紀は『理不尽』って言葉を正しく使える、タイミングって、いつだと思うの?」

「この世に生まれ落ちたとき」

 案山子さんが唇をゆがめて笑みをこぼした。

 二人の会話は坂を転がるボールのように、軽快に転がっていく。しかも、そのボールはきっちり重みがあって、行くべき場所に確かに向かっているみたいに俺には聞こえた。綿貫と俺との会話は、多分こんな風じゃなかっただろうと思う。

 サラダにドレッシングをかけた。ボトルはべとべとしていた。紙ナプキンで手を拭うけど、うまく取れない。

 ところで、と俺は話を戻した。

「綿貫は講義中、俺の財布を触ってなかったと思うんすよ。俺の財布、確かに机の上に置いてましたけど。自分の視界に入るところにあったし、学生証を入れてたらさすがに気づくと思うんですよね」

「けど、目を離したことだって、あった、でしょ?」

「ぼんやり窓の外を見たり、スマホ触ったりしましたけど、どれも長時間目を離してないんですよ。俺の机にある財布に学生証を入れるって、どれだけ早くしても十秒くらいはかかると思うんですよね」

「起立して、発表はしてた、けど」

 案山子さんは小さな紙パックに入ったプリンを二口で食べた。「『特に感想はありません』だもんねえ」

「三秒で終わりますね。その間に財布を取って開けて学生証を入れて……は難しそうです」

「うーん、何か気を引く、出来事って、あったかな。思わずそちらに、目を向けちゃうような」

「そもそも、五百旗頭くんが東くんの学生証を持っていた、ってのが誤認なんじゃない?」

 志紀さんはかったるそうにぷかぷかと煙を天井に吐き出す。

「もともと綿貫くんが持ってて、彼がカードリーダーにタッチした。で、何らかの方法で乃木くんの財布にこっそり入れた」

「綿貫が自分のカードだけをリーダーにタッチしてたのは、見てましたけど」

「綿貫くん、何か怪しい、動きはしてなかった?」

 思い返そうとして視線を上げると、見知った顔が店の奥にいるのが目の端に映った。

 東だった。

 ちょうどおばあちゃんが東に配膳するところだ。チキンソテーにプリン、俺と同じAセットだ。案山子さんたちと話し込んでいたせいで東が入ってきたのに気づかなかった。東もこちらに気付いていないようだった。

 案山子さんが俺の視線に気づいて、後ろを振り返った。

「あれが、東くんだよね?」

 眉をしかめて、すぐに向き直る。「さて、そろそろ、出ようか」

「あれ、鈴木。食後の煙草は?」

「タバコは、止めた」

 端整な志紀さんの表情が初めて崩れた。ぽかんと間の抜けた表情で口を開ける。

「煙草を止めた? あんたが?」

「まあね」

「なんかあったの? 相談のろうか?」

 なはは、と案山子さんは目を瞬いた奇妙な笑い方でごまかした。「それは今度ね。とにかく、出よう」

 俺は立ち上がって、一歩だけ東の方に歩みだした。学生証を返さないといけない。

 けど、やっぱりやめた。

 東が関わっているのかどうか、今のところ定かではない。俺が単位没収になるんだったら東も当然そうなるわけで、ある意味で同志なのかもしれない。とにかく色々定かではないけど、あいつが講義をサボって俺が痛い目を見ているのが気に喰わない、それは定かだったのだ。

「合計、一五六〇円ね」

 おばあちゃんがエプロンで手を拭って、ゆっくりとレジを打った。案山子さんは千円札と五百円玉を出して俺を見た。「十円玉、持ってない?」

 俺は首を振った。

「志紀は?」

「私は小銭を持ち歩かない」

 案山子さんは俺の財布を引ったくって、十円玉が無いことを確認している。六十円くらい出してくれてもいいのに。先輩がいのある人なのかケチなのか、全然つかめない。そういえば、綿貫も俺に奢ってくれたことはなかった、と今になって思う。自分の格より下のやつには金は出さない、それが綿貫のルールだった。

 ガラスの向こう、日に焼けるアスファルトがゆらゆらと揺れている。一年前の夏のあの日もこんな風に景色は砂埃でかすんでいて、ピッチャーライナーは捕れなくて、キャッチャーの言葉は揺れていた。

 一年経っても、つかめないことばかりだ。

 

(つづく)