3
その日の夜、当然のことながら綿貫と約束した飲み会には行かなかった。
「陸くん、なんで来なかったの?」
開いたマンションのドアから、美里と一緒に夏の夜の気配が入り込んできた。温く湿った空気だったけど、すぐに彼女の白いシアーシャツに染み込んだ煙草の匂いがそれをかき消した。細い手首にコンビニの袋をぶら下げている。朝と違い、口調は軽快だった。アルコールのためだろう。
「ラインもスタンプしか返ってこないし。何かあった?」
曖昧に首を振る。説明したところで、何かが変わるとは思えない。美里は靴を脱ぐと、いきなり俺の胸にちょこんと拳を当ててきた。
「彼女に隠し事はよくないぞ」
突き出す赤い下唇がわずかに濡れていた。
美里と出会ったのは、四月の履修ガイダンスだった。
隣の席にやたら人だかりができているな、とは思っていた。それが連絡先交換の列だと分かって、人だかりがはけた段階で横目で見てみた。すると、彼女も横目で俺をうかがったところだった。タイミングの良さに、二人で噴き出した。
「人気者なんだね。羨ましいよ」
俺が言うと、美里は恥ずかしそうに首を振った。
「全然、そんな」
「でも、ちょっと疲れてるみたいだ」
「まあね。SNSもしてないのに、DM送るねとか言われて」
そうなんだ、と俺は紅潮する頬を眺めていた。そりゃ人気になる、と思った。今日日、十代がSNSのアカウントを持っていないわけがない。しかし、彼女の初々しさはその言葉を信じたくなるほど、とても自然なものに見えた。どこか困った顔をしている眉尻の下げ方も完璧だ。
履修ガイダンスで近くの席になると、大体同じ講義を取る流れになる。それは最初の講義で近くに座ることとほぼ同義だし、仲良くなるのは自然な流れだった。その後は成り行きだった。
つまり、こと人間関係に関して、大学に入学してすぐ俺はあらかたの運を使い果たしたことになるのかもしれなかった。
美里の好きなタイプは「人を動かす人」で、間違いなくそれは俺には当てはまっていなかった。それなのに、こうして美里と付き合えている。思えばそれに運を使ったせいで、五百旗頭と綿貫に嵌められることになったのかもしれない。
美里は俺の目の前にあるものと同じ柄のグラスに、ミネラルウォーターを注いだ。グラスだけでなく、大抵のものはペアになっている。マグカップも歯ブラシもシャツもリュックも財布も。もちろん、美里の趣味だ。嬉しいよりも、戸惑いが勝る。俺のどこがそんなに良いのか。
半分ほどグラスを空けてから、美里がビニール袋を指さした。
「アイス、買ってきたよ。何がいい?」
「ありがとう。先に選んでよ」
美里が俺をじっと見た。どうしたの? と俺は尋ねる。美里は首を傾げた。とんとんと左手の指が机をたたく。考える時の美里の癖だ。
「なんでもいいの? 陸くんは、欲しいのない?」
「ああ、なんでもいいよ」
「本当に?」
「もちろん。どうしたの」
「アイス選びってその人の本質が出る、って今日聞いたから」
また性格診断か。俺は意味もなく笑みを浮かべた。本当に意味はない。アイスの選び方に意味がないのと同じだ。
美里もにっこりと微笑み返してきた。
「じゃあ、あたしはハーゲンダッツにする。残りはパルムと爽だけど、どうする?」
「爽にしようかな」
「爽のチョコ味って、ちょっと人工的すぎない?」
「駄菓子っぽくて好きだよ、俺は」
美里は納得したように喉の奥で笑う。何に納得したのかは聞かなかった。アイスでその人の本質が分かるとは到底思えない。そもそも本質ってなんだと思う。
「陸くんみたいなお金持ちからすると、案外こういう安いっぽいのがいいのかもね」
「だからお金なんてないって」
「でも出身は東京でしょ?」
「東京に住んでる人がみんな、金持ちのわけがないだろ」
「東京に家を持ってる人なんて、その家だけで十分資産家だよ。なんでまた、こんな地方に来たの? 東京の国公立は無理でもさ、私大なんていくらでもあるでしょ」
父も母も、普段はほとんど話さない姉でさえそう言った。学校の進路指導でも言われた。実家から通えるんだから、金銭的にもそう負担は大きくない。就職を考えたら、東京の私大に行けばいい。「何のために?」そう何度言われただろう。
なんのため、だっただろう。
よく分からない。
けど、高校時代の友人の多くが東京の大学に進学するから、というのは多分あったと思う。バッテリーを組んでいた友人とは、最後の大会のあと疎遠になった。出会ったら挨拶もするし、気まずい雰囲気になるわけではない。ただ、あいつがもう俺に踏み込んでこなくなったのは分かった。
そういうあれこれが、何だか全部面倒になった。多分、そういうことだと思う。
黙っていると、話はいつの間にか俺の髪型に移っていた。「そろそろ切った方がいい」と美里は言い、俺は「そうする」と応じた。「気分転換にもなるかな」と俺が呟くと、「気分転換で髪を切るなんて信じられない」と美里は答えた。
「だって、この一ミリの細さの物体を何百本切ったところで、別に問題は解決しないじゃない? 何かを変えたいなら、もっと根本的なことを変えないと」
「例えば」
「人が一番変わるのは……やっぱり環境とかかな」
アイスの選び方より、よほど美里の性格が出ている言葉だった。だからこそ、美里は俺の部屋のものをすべてペアにしてしまおうとする。多分美里にとって、恋愛とは何かを変える行為なんだろう。何かを変えるために恋愛をするのか、恋愛をするために何かを変えるのか、それは分からないけど。
「ところで、アイスの分のお金、貰っとくね」
美里は俺の返事を待たずに、俺の財布に手を伸ばした。間違えば節操なく見えるところだけど、声のトーンを上手く操ってそう見えないようにしている。そしてそういう彼女のバランス感覚も、俺は好きだった。
「そういえば、綿貫くんからは連絡あったの?」
ハーゲンダッツのバニラを縁から丁寧にすくい上げながら、美里は尋ねた。
ドタキャンしたにもかかわらず、綿貫からは何も連絡がなかった。それはつまり、今回の件に綿貫が関わっていることを如実に証明していることになる。もし何も関わっていないのなら、連絡の一つくらいはよこすだろう。できる社会人として生きたい綿貫は、連絡はマメにこなす。
俺が答えないでいると、彼女はいたずらっぽくこちらを覗き込んできた。俺は彼女の目を見た。カラーコンタクトで加工された丸い瞳。
しばらく、視線が絡まった。
「陸くん、なにかあった?」
あったと思う、多分。
でも、結局何があったのか、うまく伝えられる気がしない。
「案山子さんと話したよ」
だから、自然と溢れたのはそんな言葉だった。
「かかしさん?」
「そう。キャンパスで時々ぼけっと立ってる麦わら帽子の人いるだろ。その人」
「……ああ、あの人」
きつく絡み合ったはずの視線が瞬時に弛緩した。がっかりしたように、美里は机の上のティッシュを一枚取って口を拭いた。そうして丁寧に折りたたんで、ゴミ箱へ入れる。
「変人というか、ちょっと怖いよね。陸くん、あの人とよく話せたね」
「まあ、成り行きで」
案山子さんとの件を語ろうか迷っていると、口を開く前に美里が続けた。
「ああいう人ってさ、人目を気にしない自分に酔ってるだけだよね、絶対。仮にそうじゃないとしたら、どうやって社会で生きていくつもりなんだろ」
「……」
「ああいう周りの目なんて気にしない愚直を装う人って、なんか苦手だな」
テレビからどっと笑い声が響いた。
美里もつられて笑みをこぼす。鼻筋に向かってきゅっと目尻が細くなる。俺も口角を上げる。何が面白いのか分からないけど、とりあえず。
「ね、陸くん」
「うん?」
「シャワー、浴びてくるね」
美里はハーゲンダッツのカップをゴミ箱へ、シアーシャツをベッドに脱ぎ捨てた。
翌日、案山子さんと出会ったのは図書館の前だった。
ちょうど昼飯時だったけど、学食の混雑にうんざりして、俺は空腹を抱えてコンビニに向かった。
「のぎくーん」
大学のシンボルになっている時計塔の前を通り過ぎた時、誰かが大きな声で俺を呼んだ。もちろん案山子さんだ。案山子さんは昨日と同じように麦わら帽子を被っていた。今日は大きなリュックを背負っている。膝をあまり曲げない独特の歩き方で、のんびり近づいてくる。
「乃木くん、どう?」
自転車から降りて俺は応じた。
「どうもこうも。全然分かってないっす」
風が無くなった途端に、夏の日差しが突き刺さる。
「かか……鈴木さんは、分かりました? どうやって五百旗頭が俺の財布にカードを入れたのか」
「あ、どうっていうのは、そうじゃなくて」
案山子さんはにべもなく首を振った。
「どう? キャッチボールでも」
「は?」
「キャッチボール、しない?」
案山子さんはリュックをごそごそしている。底に煙草の箱を見付けると、顔をしかめて近くのゴミ箱に放り投げた。その後、リュックからグラブを二つ取り出した。そうして、邪気のない笑顔でにっこりと笑う。
ぽかんとしている俺を見て、案山子さんは慌てて付け加えた。
「あ、グラウンドには、バットも置いてあるから、バントの練習くらい、ならできるかも」
いや、キャッチボールよりバットを握りたい、とかじゃなくて。
七月だ。猛暑日の正午。空はむかつくほど青く晴れ渡り、太陽は容赦のない紫外線を振り注ぐ。降り注ぐというより、ぶちまけている。
こんな日に野球なんて、常軌を逸している。
けど、目の前の男性にとって、それは常軌みたいだ。くい、と彼は首を傾げる。心底不思議そうだった。その仕草があまりに自然だったものだから、俺が間違ってるのか、と誤認してしまいそうになる。
というか、してしまった。
俺は自分でも気づかないうちに、こくりと頷いていた。気が付いた時には、案山子さんは、俺にグラブを投げてよこしていた。
「なら、グラウンドに、行こう。文学部棟の裏のグラウンドは、今なら、空いてるから」
この気温なら、いつだってどこだって空いているに決まってる。空いていなかったら、みよし屋の定食を一年分案山子さんにご馳走してもいい。
果たして、文学部棟のグラウンドには誰もいなかった。わずかにできた木陰に自転車を止め、ついさっき買ったポカリスエットを半分ほど飲む。キャッチボールで熱中症になるなんて、洒落にもならない。
近い距離からボールを投げて、徐々に距離を伸ばす。ちょうどマウンドからホームベースくらいの距離で自然と足は止まって、しばらくそこで投げ合う。案山子さんはちょっと肩を下げた独特のフォームで投げてくる。シュート回転をしている癖のあるボールだ。俺は山なりのボールで返す。木々の隙間を風がとおる。おかげで、思ったよりは動けた。
白球が灼熱の太陽の下を二十往復くらいしたころ、俺は例の件について尋ねた。
「鈴木さんは、何か分かりました? 出席の偽装の件について」
「いや、ぜんぜん」
ボールは全力で、けど言葉は軽く放り投げてくる。
「乃木くんは? なにか、分かった?」
「俺も全然です」
「そっか」
「先生に言いに行った方がいいですかね。俺はやってないですって」
「うーん、信じてくれたら、いいけど」
そのうち、俺が日差しに耐えられなくなってきた。案山子さんの渾身のクセ球をグラブの付け根で鈍く受けてしまって、それでギブアップだった。俺はそそくさと木陰に戻ると、自動販売機に小銭を流し込んだ。
「か……鈴木さんも、なんか飲みます?」
「冷たいコーヒー」
呑気に見えて、意外と遠慮がない。
「あの、鈴木さん」
「うん?」
「どうして、これほど俺にかまってくれるんすか」
ふと、今更の疑問がこぼれた。
俺は案山子さんと面識もない一介の学部生だ。講義も特別真面目に受けているわけでもない。綿貫みたいに社長になりたいわけでもないし、毎日徹夜して遊んで大学生活を謳歌したいと思っているわけでもない。
「烏川杯のチームに誘いたいって言ったって、別にそれは俺じゃなくたっていいっすよね。俺、そんなに面白い人間でもないっすよ」
「ああ、それはね──」
案山子さんは言葉を探すように、自動販売機のお釣り返却口のあたりにぼんやりと目を落とした。
最初は異変に気付かなかった。
いつもどおり、不思議な文節の切り方をしているのだろう、と。
けど、あまりにも言葉が出てこないので、俺はサイダーの泡から案山子さんに視線を持ち上げた。
「──」
夏らしくない、肌寒い風が一陣流れた。
案山子さんが、案山子になっていた。
生協の色あせた幟が案山子さんの頬をかすめている。すぐわきをけたたましく原付が通りすぎる。けど、案山子さんはピクリともしなかった。
夏の昼下がり、そこだけ時間が止まっているみたいだった。
「……鈴木さん?」
ぶわっと肌が粟立った。
ただ動きが止まっているだけじゃない。
これは少なくとも、俺の知っている静止じゃない。
まるでそれしか選択肢が存在しないみたいな、動くなんてことは宇宙の真理としてあり得ないとでもいうような、そんな絶対的な佇まいだった。ガニ股気味の足が、地面に深く根を張っている。そして案山子さんの意識もまた、ずっと深く沈んでいる。
案山子さんだけが、この世界から綺麗に切り取られている。
……どれほどそうしていただろう。
案山子さんがゆるゆると首を振った。どうやら意識が地上に戻ってきたらしい。そして案山子さんは何事も無かったかのように、コーヒーのプルタブをカシャッと小気味よく開けた。
「……どうしたんですか?」
俺も平静を装って聞く。灼熱の太陽が照り付けているのに、やけに肌寒い。
案山子さんはぼさぼさの前髪を掻きむしった。
「僕はこれから、学生課に、行くよ」
「はあ」
「志紀に、会いに行く。大体分かった、から」
「え、分かったって、なにがです?」
「今、分からないことは、二つ。一つ目は『五百旗頭くんがどうやって、講義中に東くんの学生証を綿貫くんに渡したか』。二つ目は『綿貫くんがどうやって、乃木くんの財布に東くんの学生証を入れたか』」
「それが分かったんですか?」
「うん」
「まじで?」
思わずため口になってしまう。
「どちらも、分かった、と思う」
案山子さんは俺のため口なんて気にも留めない。
「まじっすか? どうやったんです?」
「それは」
案山子さんは言いかけた言葉を飲み込んだ。ぎゅっと目を閉じて、また開いて、最後は目を伏せたまま続けた。押しつぶしたような声だった。
「乃木くんの、友人関係の問題、いや人間関係の問題だから、自分で考えた方がいいと、思う」
それだけ言って、案山子さんは足早に立ち去った。
膝をあまり曲げず、日差しを避けるように上半身だけやけに揺らしていた。
講義が終わると、俺は早々に下宿に引き上げた。
マンションの五階は蒸し風呂みたいに暑かった。人が存在してもいい温度になったところで、コーヒーサーバーにフィルターを付けた。並んだペアのカップに目をやる。赤い花が付いているのが美里で、黒い眼鏡が付いているのが俺。買ったのは確か、ゴールデンウィークのアウトレットモールだった。そこで付き合うことになった。
案山子さんはどうやら、一定の結論に辿り着いたらしい。案山子さんと俺で、持っている情報は変わらないはず。だけど、案山子さんには分かって、俺には分からない。
「……」
コーヒーを淹れる間くらい本気で考えてみよう、と思った。
五百旗頭が東の学生証をカードリーダーにタッチした。そして学生証を何らかの方法で綿貫に渡した。そうして綿貫は俺が気づかないタイミングで、俺の財布に東の学生証を忍ばせた。
仮に、これが真相だとして。
問題は、綿貫がいつ俺の財布を開いたのか、という点だ。
東の学生証が五百旗頭から綿貫に渡される方法も想像できないけど、いくつか実現できそうなものはある。それこそ、五百旗頭がこっそり近づいて綿貫に手渡すことも、まあ無理じゃない。ただ、綿貫が俺に気づかれずに俺の財布を開く、というのはどうしたって無理に思える。
財布を取りだして、少し離れた机に置いた。できるだけ素早く手に取り財布のスナップを開け、元の場所に戻す。……急げば数秒でできる。けど、スナップを留める音が大きい。講義中にこんな風に「パチン」と不自然な音がしたら、いくら俺でも気が付きそうなものだ。
今度は音がしないようそっと行動する。すると、十秒はかかる。目の前の机の上から十秒財布がなくなっていたら、気づかないものだろうか? いや、俺の視線はほとんど机の上にあったわけで、気づくはずだ。となると、俺が思い出せないだけで、無意識に長い間目を離したことがあっただろうか? 例えば外を眺める、廊下に目を向ける、ぼんやりと思考にふける……記憶にはない。
「……けど、まあ」
あったかもしれないな、と結論付けることにした。
だって、俺のことだし。そういう見落としがあっても、全然おかしくない。
じっと立っていたせいか、足の裏がじんと痛んだ。間もなくコーヒーは抽出できそうだった。まったく、案山子さんはよくあんなにも長時間佇むことができるもんだ。佇むというか、固まるというか。さっきの案山子さんの周囲はどこまでもしんとして、静謐だった。
そして元に戻ってから、案山子さんは何と言っていたんだっけ?
──ぽたん、と。
コーヒーサーバーに最後の一滴が落ちた。黒い水面に波紋が広がった。やがて何事もなかったかのように平らになった。
「……なるほど」
のろのろと独り言が溢れた。なるほど。
だから、案山子さんは志紀さんに会いに行ったのか。
謎なんて、どこにもない。
あるのは謎じゃなくて、個人的な思惑だった。そして、それは確かに案山子さんの言ったとおり、どこまでいっても俺と彼らとの人間関係の問題だった。
スマホが震えた。ラインだ。美里からだった。
『今日もバイト終わりに行くけど、欲しいものある?』
特にない、と俺は短く打ち込む。美里が来るのはいつもの時間だろう。学生課って、何時まで開いているんだ?
太陽が差し込んで、部屋が白く眩しかった。遮光カーテンを閉じる。心をざらりと撫でる音が部屋に満ちて、世界から日差しが消えた。
暗くなった部屋には、苦いコーヒーの香りが満ちていた。
4
例の講義の日から一週間が経った。太陽は夏に向けて、日差しの強弱のダイヤルをさらに回した。
夕方の五時を回っても、グラウンドには暑さの芯が残っていた。空には整備されたばかりのグラウンドみたいに、引き延ばされた薄目の青色が広がっていた。雲一つない。一体だれがこの時期に球技大会を主催したのか、本気で問いただしたくなる。
「来てくれて、ありがとう」
案山子さんは顔一面に喜びの表情を浮かべて、俺の手を握ってぶんぶん上下させた。麦わら帽子じゃなく野球帽の案山子さんを見るのは、何だか新鮮だった。
「今年の烏川杯は絶対、優勝したくて、だから、その」
言葉を濁して、結局「ありがとう」の連呼で押し切られた。俺は面倒になって視線をめぐらせた。相手チームのベンチには、綿貫と五百旗頭、東の姿がある。美里の姿も見えた。綿貫と談笑している。つい一週間前まで、その集団には俺の姿もあったはずだ。何だか嘘みたいに思える。
「ところで、あれでよかったの?」
ぼんやりする俺の眼前に、案山子さんの丸い目が現れた。
「結果的に、僕、何の役にも、立たなかったけど」
先週の講義で東の出席偽装の疑いをかけられた俺は、今日の講義で東ともども今期の講義の単位は没収となった。それで許してやる、と教員に諭され、俺は申し訳ありませんでしたと頭を下げた。次年度、もう一度受けることになる。
「いいですよ、別に」
ふうん、と腑に落ちない様子で案山子さんはおもむろにバットを手に取った。素振りをしながらも、やっぱり納得していないみたいだった。
「乃木くんはさ、綿貫くんたちがどうやって、乃木くんの財布に、東くんの学生証を入れたのか、分かったんだよね?」
「まあ、一応」
あいつら、と俺は短く返した。
「学生証、二枚持ってたんですね」
案山子さんが深く頷いた。
俺が志紀さんに尋ねたのは「最近、東が学生証を再発行しなかったか」ということだ。
答えはイエスだった。
東に限らず、綿貫も五百旗頭も、俺の分まで勝手に再発行されていた。
「本人じゃないのに、そんな簡単に手続きできるんですか?」
非難がましく尋ねると、志紀さんは「学生証を失くしてる学生は大抵財布ごと失くしてる。身分証明ができないから生年月日と住所、保証人の名前、それから顔で照合するしかないでしょ」と感情を一ミリも見せない声で告げた。綿貫から親の名前を尋ねられたことがあったけど、まさかここで使われているとは思いもしなかった。それに、保証人はしょうがないにしても。
「顔で本人かどうか、分かるでしょ」
「入学前に撮った高校生の顔写真と、入学後数か月した大学生の顔だよ。君、正しく照合できる自信ある?」
冷たい一瞥に、俺は何も返せなかった。確かに、高校生から大学生になる数か月って、人生で一番顔の変化が大きいのかもしれない。
俺は最後に、綿貫は誰と来たのか、と問うた。
「当人の他には、帽子を被ってマスクを着けた小柄な男の子が一緒だったよ」
志紀さんは事務的に答えてくれた。それで俺の聞きたいことは全てだった。
「鈴木さんも、『みよし屋』のことで分かったんですか?」
「うん、そう、だよ」
と、案山子さんは素振りのリズムで応じた。
先週の『みよし屋』で、東の食っていたものは全く俺たちと同じだった。Aセットのチキンソテーとサラダとプリン。
けど、なぜプリンが東の配膳にあるのか?
プリンは学生証を見せないともらえない。あの日、東の学生証は俺の財布の中にあったのに。
つまり、東は学生証を二枚持っていたことになる。
「そうなると、前提が変わってきますもんね。五百旗頭は再発行した学生証で出席を取る、それだけでいい。五百旗頭が講義中に東の学生証をどうやって綿貫に渡したのか、考えなくてよくなる。古い方の学生証は綿貫にもたせたり、あるいは──」
そろそろ試合はじめるよー、と審判の声が、俺の言葉を遮った。
「よしっ」
と、グラブを叩いて案山子さんは立ち上がった。
俺もベンチからグラブを拾い上げる。整列するとき、嫌でも綿貫たちの顔が目に入った。綿貫の笑顔はどこまでも清潔だった。きっと、OBが隣にいるためだろう。綿貫はいつでも最短距離を走る。あいつの視界に、俺はもういない。
『チーム・鈴木』の後攻でぬるりと試合は始まった。
案山子さんのチームは、思った以上に強かった。ピッチャーは三十歳をちょっと過ぎたくらいの教員で、球威は無くても丁寧にコーナーをついていた。経済学部の一回生と二〇代のOBが主体の綿貫チームは、動きは機敏だけど、うまく打たされていた。
「へいへい! センター、声出てないよ! しまっていこうよ!」
案山子さんはライトで一人大声を出して鼓舞していた。野球ではなぜか言葉はスムーズに出てくるらしい。どういう声帯の構造なんだろ。
しかしまあ、フライを二つエラーしながら、よく「しまっていこう」などと言えるものだ。案山子さんが逸らしたボールを追いかけるのは、センターである俺だったのだ。
「そういえばさ」
ベンチの隅で黙っていた志紀さんが話しかけてきたのは、試合も中盤に進んだころだ。五回が終わって一対一。草野球ではそうそう見ない投手戦だ。
「君、恋人とはどうなったの?」
「はい?」
志紀さんの問いかけがあまりにも急だったせいで、質問がうまく飲み込めなかった。
「君の恋人の話。綿貫くんの件、君の恋人が一枚噛んでたんでしょ?」
「ああ……」
俺は肩の力を抜いて、相手方のベンチにいる美里を見やった。ショートボブの髪で野球帽を目深にかぶっている姿は、遠めにみても魅力的だ。
美里とは先週のあの日以来、会っていない。
バイト帰りの美里は、短い髪を後ろでちょこんと束ねていた。小さな雀みたいだ。
彼女はコンビニの袋から缶チューハイを取り出した。毒々しい赤色で、いかにも人工甘味料の味、という感じだった。俺はハイボールの缶を取り出してプルタブを引く。「あとでハイボールの分のお金もらうから、財布出しといてね」と美里はチューハイで濡れた唇を尖らせた。
「なんか俺、綿貫たちに嵌められてたみたいだわ」
一口飲んでから俺が言うと、美里はえっと小さく声を上げた。
「嵌められてた?」
「そう。昨日さ、東の出席の偽装を俺がしてる、みたいな話になったんだよ」
「それは五百旗頭くんがしてるんじゃなかったの」
「いつもはね。でも、昨日は俺に罪を擦り付けてきた」
「それで?」
「そしてそれは五百旗頭だけが考えたことじゃなかった。綿貫と東と共謀してたみたいだ」
美里は眉をしかめてテレビのリモコンを手に取った。
「性格悪いね。なんでそんなことしたんだろう?」
さあ、と俺はひとまず受け流す。
「あいつら、学生証を複数枚作っててさ。二枚ある東の学生証のうち古い方の一枚を、俺が持ってた財布に入れたみたいだ。で、それが俺が東の代わりに出席のタッチをしてる証拠みたいになった」
「まじ? 最低だね。綿貫くんともう話したの?」
「一応」
学生課に行った後、俺は綿貫に電話をした。綿貫には珍しく、コール音から何十秒も経ってから電話を取った。「なんで昨日飲み会に来なかったんだよ」と白々しい一言が耳に刺さった。俺は手短に東の学生証の件を学生課に確認したことを話した。俺の財布に東の学生証を入れられる人物が綿貫しかいないことも。
「だってさ、お前ちょっと違うんだよなぁ」
綿貫は平らな口調だけど、感情はよく見えた。面倒くさいし、邪魔くさい。それから一握りの軽蔑。
「なんていうかな。お前はいつも、他人事みたいに遠くにいる。この先自分がどうなりたいとか、どういう人生を歩みたいとか、前に進む意思が見えてこない」
「それで?」
「端的に言うと、一緒にいてもつまらない」
綿貫がそう言う向こうで、何人かの笑い声がした。東と五百旗頭だろう。「ま、要はそんな感じ」と綿貫は最後に軽快に告げた。
「ルールは、変わってないか?」
と俺も端的に聞いた。
「ルール?」
「そう、お前のルール。格下には金は出さない、カタカナをやたら使う男は信用しない。……それから、背の低い男とはつるまない」
「それがなんだよ」
「変わってないんだな」
「そうだけど、まじで、何が言いたいんだ?」
それが俺が聞きたいことの全部だった。だから、黙って電話を切った。
「ほんと嫌な子だね、あの子」
と、美里はこれでもかと眉をしかめている。そして、ん、と声を上げて目をしばたたいた。
「ねえ、コンタクト外していいかな」
「もちろん」
「ありがと」
「綿貫の件ってさ、美里がそそのかしたんじゃないの?」
「うん? 何の話?」
「だって美里、自分の財布を綿貫に貸してただろ」
「──」
一瞬、間があった。