一 案山子が目の前に佇んでいる――   烏川杯二回戦

 

 

 案山子かかしが目の前に佇んでいる。

 その理由が、俺にはさっぱり分からなかった。

 もちろん、分かっていることだってある。

 例えば、今朝は珍しくiPhoneのアラームが鳴る前に起きられたとか、ラッキーアイテムが赤い帽子だったとか、大学に向かう途中に重い荷物を運ぶ人を手伝ったとか。

 それから、大学前の交差点で案山子を見かけた、とか。

 案山子はいつものように無地の白シャツを着て、麦わら帽子をふわりと被っていた。七月の湿った風が吹くたびにくたびれたシャツの裾が揺れ、麦わら帽子がわずかに傾いだ。デニムは何年も風雨にさらされたような自然なダメージが入っていて、この地方都市ののどかな風景になじんでいる。

「おはよーっす」

 信号を待つ男子学生の一人が、案山子に向かって知り合いみたいに挨拶をした。くだらないジョークのつもりだろう。そして実際それは頭上の夏空のように一片の曇りもなく、くだらなかった。

 案山子はいずれ入道雲を描く空を見上げたまま、ぴくりとも動かなかった。まるで世界にまるっきり興味がないみたいに。

 ま、案山子なんだから当然だ。

 ぴゅうぴゅう、と気の抜けた音を立てて歩行者用信号が青に変わった。

 案山子のそばを通り過ぎる時、ふと一筋のひんやりとした空気が流れた気がした。神社の境内に入るとなぜか涼しく感じる、あれに近い。それが不思議で、通り過ぎてからなんとなく振り返りたいような気持ちになった。けど振り返らなかった。日差しが気だるくて、無駄な動きをする元気もなかったのだ。

 ――それで、だ。

 俺の意識は、湿気がこもる大学の講義室に戻る。

 一般教養棟の三階だった。

 俺が座っているのは窓際で、その俺の目の前にはまだ例の案山子が立っていた。案山子が目の前に佇んでいる。頭の中で繰り返し状況を唱えてみても、もちろんその理由なんて分からない。

「だから」

 この静寂がどれほど続いたんだろうと思った矢先に、その間の抜けた低音がぽつりと講義室に響き渡った。

 案山子の声を、俺は初めて聞いた。

乃木のぎくんは知らないと、言っている、わけで」

 俺が『案山子』と呼んでいる目の前の男性は、乃木、と言うとき俺の方を振り返った。

「何かの、勘違いということも、あるわけですし」

 噛みしめるようにゆっくりと言葉を発しながら、案山子さんは焦るでもなく、訝しむでもなく、その丸い瞳をこちらに向けているだけだった。

 こうして向き合ってみて、俺も改めて案山子さんを上から下までじっくり見ることができた。

 痩せこけているけど、案外背は高い。俺と同じくらいだと思う。年齢は全然分からない。今は麦わら帽子は被っていない。そのせいで肩まで伸びた髪を後ろで一つに縛っているのが逆に目立っている。麦わら帽子を被るより、さらに間の抜けた感じになっていた。

 端的に表すと……なんだろ。

 呑気そう、って感じ。

「いったい、どう勘違いするんですか?」

 教員はマイクを持ち替えて、手元のレッツノートのキーボードを叩いて硬い音を立てた。黒板の前のスクリーンに、学籍番号と氏名が羅列されたリストが浮かび上がる。

「講義の出席状況は、入口の読み取り機に学生証をタッチして、このようにこちらでリストを管理しています」

「ええ、ええ」

 と、案山子さんはのんびりと頷いてみせる。

「皆が出席しているか、先ほどこのリストにある名前を読み上げ、返事をしてもらいました」

「そう、でしたね」

「タッチされた学生証は五十枚。しかし、この教室内で今、声を出して返事をした人間は四十九名。マイナス一名。その意味は分かりますか?」

「だれかが、欠席者の学生証を預かり、代わりにタッチしていた、ってこと、でしょうか」

「そのとおりです。そして、欠席者の学生証を持っていたのは乃木くんでした」

 つまり、と温度のない眼差しが、俺に向けられた。

「乃木くんが欠席者の出席を、偽装していたわけです。いわゆる代返だいへんですね。欠席者が出席したかのように装う」

「どうです、かねえ。そうとも、言えないでしょう」

 案山子さんは眉尻を八の字に下げて、とぼけた顔で首を傾げた。深刻なのだとしたら、あまりにも緊迫感のない表情だった。

「もしかしたら、途中で講義室を出て行った学生も、いるかも、しれません。その場合、さっきみたいに、読み上げても、返事はできない」

 案山子さんは一語吐き出すごとに、妙な間を置く。

 そのぽつり、ぽつりと落とす言葉は、張り詰めた講義室の空気をどんどんほどいていく。

 弛まないのは教員の口調だけだ。

「それはありえません。私は途中退席の学生がいないか注視していました。なにより、現に乃木くんが欠席者の学生証を持っていたのです。議論の余地がない」

 その言葉に、俺は自然と視線をめぐらす。五十人ほどの学生が、階段教室に収まっている。周囲の学生たちが俺と案山子さんに好奇の視線をぶつけてきているというのに、当の案山子さんはのんびりとあくびを噛み殺していた。その態度に、みんなさらに不思議そうに顔を見合わせている。

 けど、断言できる。

 この中で一番不思議がっているのは、間違いなく俺だ。

 俺が友人の出席を偽装した?

 ――まさか。

 でも実際に、状況としてはそれしかあり得ない?

 ――嘘だろ。

 それで、話したこともない案山子さんが、俺をかばってくれている。

 ――なんで?

 まったくもって、まるっきり全部、よく分からない。

 状況が全然腹に落ちてこなくて、随分自分が遠くにいるみたいだった。まあ、自分が近くにいるなんて感じたことがこれまであったかな、とも思うけど。

 とにかく、と案山子さんは声を張った。細い身体からは思いもつかないほど、低くて、よくとおる声だった。

「みんな講義の再開を、待ってますし。この話は次週に持ち越しということで、どうでしょうか」

 そこでチャイムが鳴った。

 教員は講義室を出て行く前、俺に何かを告げたみたいだった。みたいだった、というのは、すべての言葉が右から左に抜けていったからだ。エアコンの唸り声だけが、やけに大きく頭の中に響いていた。高架をくぐった時に、ちょうど電車が通りすぎて行くみたいに。あの瞬間は、大体何も考えられなくなる。おそらく大事であろう教員の言葉は、残念ながら俺の中に何一つとして残らなかった。

「乃木くん」

 気が付くと、講義室には俺と案山子さんだけになっていた。

 一緒に講義を受けていた友人たちは、俺に声もかけずに出て行ったらしい。いや、俺が脱力しすぎて気づかなかっただけかも。

「えっと、その」

 力が抜けきっていても、一応、声は出るらしい。

 それで、俺は何を言うべきなんだろう。

「その、さっきは庇ってもらって、ありがとうございました……?」

 あまりにもわけが分からなくて、妙に浮ついたイントネーションになってしまう。けど、案山子さんは気にしていないみたいだった。表情を変えずに、ゆるゆると首を横に振る。

「ぜんぜん。それより、心配なのは、乃木くんの方だよ。さっきの感じだと、単位もらえるか、分かんないよ」

 髪が揺れる度に、彼の汗の匂いがつんと漂った。しっとりした一つ括りの髪の反復は、好意的に見ると、バセットハウンドの尻尾みたいに律儀に見える。好意的に見ないとするならば、不審者の挙動だ。

 俺は注意深く尋ねた。

「あの、俺って、あなたと面識ありましたっけ?」

「ううん、ない、と思う」

「共通の知り合いがいるとか」

「んー、多分いないと、思うけど、なあ」

 俺の戸惑いなど気にもせず、案山子さんは自分のペースを崩さない。相変わらず、変なところで言葉を区切って、ゆっくりと話を進める。案山子さんの周りだけ、流れている時間が倍ほどに引き延ばされているとか? 自分がファンタジーの世界に迷い込んだような錯覚に陥りそうになる。

「だって、ほら。乃木くんは、爽やかで陽気な、ぴかぴかの大学一回生」

 対して、と爪の伸びた人差し指が、案山子さん自身の顎に向けられる。

「僕は、どう考えても、ぱっとしない人間。でしょ?」

 はは、と俺は一応笑い声は出してみる。

 その反応で合ってるかな。

「じゃあ、なんでっすか?」

「うん?」

「なんで、庇ってくれたんすか?」

「だって、烏川からすがわ杯があるから」

 烏川杯、という言葉が理解できるまで、少し時間がかかった。

「……ああ、あの草野球の」

 真面目くさった顔で、案山子さんが深く頷く。

 烏川杯。一年かけて行う、やけにのんびりしたスケジュールの草野球大会のことだ。烏川の河川敷で、五月に一回戦、七月に二回戦、十月に三回戦、という具合に、なぜか一年をかけて行われる。

 確かに一週間後が二回戦だったはずだ。それは覚えてる。

「で、その烏川杯がなんでしたっけ?」

「出てたでしょ、乃木くん。五月の、一回戦」

「あ、まあ、はい」

 俺は友人が作ったチームの一員として参加していた。誘われたのは俺が高校まで野球をしていたから、というシンプルな理由だった。ただ、外野で二、三球フライを捕ったくらいで、案山子さんに覚えられるような活躍をした記憶はない。

「僕も、出てるんだよね」

 それはもちろん、知ってます。

 そう言いたいのをぐっと堪える。そもそも、俺がこの人を『案山子』と勝手に呼び始めたのも、先日の烏川杯一回戦で彼を見てからなのだ。

「僕も、出てる」

 と、彼は繰り返した。その言い方は、まるで柔らかい卵をそっと抱くみたいに優しく、それでいて芯に力がこもっていた。

「というか、もう十年間、毎年出てる。というか、勝ちたい。というか、今年は優勝しないといけない」

 というか十年って、何歳なんだろうこの人、と俺は思う。

「そして、二週間後の二回戦だ」

「はあ」

「僕は君の所属するチームと対戦する」

「あ、そうなんすか」

「もしも、の話だよ」

 そこで、ずい、と案山子さんは顔を近づけてきた。良く日に焼けた肌だ。話題は核心に近づくらしい。

「もし、今回の件さ」

「はい」

「僕がうまく解決してさ」

「ええ」

「乃木くんが単位をきちんともらえたら――」

「もらえたら?」

「烏川杯の二回戦、うちのチームに入ってくれない?」

 ……。

 言いたいことは、いくつだって思いつけた。

 随分溜めたわりに拍子抜けだったとか、たかが草野球でなんでそこまで本気なのかとか、やっぱり打算的な理由での人助けでちょっとがっかりしたとか。

 でも結局、思いついただけだった。

 ほとんど反射的にこぼれ落ちたのは、

「いいすよ、別に」

 という言葉だった。

 言ってから、俺は何を言ってんだろ、と思った。

 自分でもなんでそう答えたのかは分からない。本気で今回の出来事の真相を明かしたいと思ったわけでもないし、もちろん案山子さんと野球がしたいわけでもない。

 ただ、もう十分に分からない事尽くしなんだから、もう一つくらいわけのわからないことが増えたっていいかな、と思っただけのことで。

 案山子さんは俺の軽い返答に一瞬黙り込んで、その後歯茎を剥き出しにして大きな笑顔を作った。肩をすくめ、片手で俺の肩を叩いて、どこか遠くを見るような目をしていた。なんの表情か分からない。

 ……うーん。ちょっと、選択間違えたかな。

 不揃いな長髪、おかしな話し方、そして脈絡なく飛び出す言葉。案山子さんの次の動作が、右に曲がるのか落ちるのか、まるで多彩な変化球のピッチャーに対峙した時みたいに軌道が見えない。見えないものは恐ろしい。恐ろしいというか、不安だ。どう考えても、逃げ出した方が安全だった。

 立ち去る口実を探し始めたとき、彼がだしぬけに口を開いた。

「それは、そうとしてさ」

「はあ」

「今回の件、犯人は、どうせ五百旗頭いおきべくんでしょ?」

 案山子さんは何とも気の抜けた、でもどこか呆れたようなため息を一つ漏らした。

 

 

 キャンパスを南北に貫く道路には、夏の日差しに焼かれた街路樹が呆然と立ちすくんでいる。

 昼休みの広い歩道の学生たちもまた、だらだらと焼かれていた。

 でもみんな、目は死んでいないのがえらい。汗だくになりながらビラを配るやつもいるし、日傘を手に談笑しているやつもいる。イヤホンを耳に差し込んで足早に自宅へ帰るやつは、灼熱の太陽に照らされたカミュの『異邦人』を小脇に挟んでいる。蝉が豪雨のごとく泣き叫ぶ中、みなしっかりと大学生をしていることに、若干の感動を覚える。

「お、乃木じゃん。おつかれー」

 言いながら男が俺の手に冷たい缶を押し付けてきた。三本線の入ったエナジードリンクだった。そのロゴの入ったTシャツは、彼の汗で小太りの身体にピタピタにくっついている。

「最近見ないじゃん。なにしてんの。あ、俺? 試飲のバイト」

 聞く前から勝手に答えている。この押しつけがましい感じ、何かの新入生歓迎会で出会った気もするけど、名前は憶えていない。大体、四月の大学生なんて、大方の人間が押しつけがましいのだから、しょうがない。大変だね、と手を振って歩を進める。

 通りを抜ければ小さな古本屋がある。ドアはいつも開いていて、店主はなぜか扇風機のつまみをいつも触っているけど、扇風機は回っていない。その店の隣に人一人が通れるほどの路地がある。そこを抜けて角を曲がると、小さな洋風の建物がある。入口横にちょこんと置いてある『定食の店 みよし屋』というプラスチックの看板は割れていて、この店の年季の入り方が分かる。

『みよし屋』の扉を開けた瞬間、肌にまとわりついていた汗が一瞬で霧散した。出汁と油の混ざった匂いが、冷気といっしょに鼻の奥に飛び込んでくる。外の灼熱とは別の世界に、そのまま押し込まれたみたいだ。

 外観は洋風なのに店内は昭和の定食屋、というこの店では、今日もおばあちゃん店主とその娘がちょこちょこと動き回っている。俺たちは十五席ほどある机の中でも一番隅の席に向かった。

「何にする? Aセットで、いいよね」

 先ほど講義室で沸き上がった俺の不信感は、案山子さんの「昼飯を、奢るよ」という言葉で塵となって消えた。結果、こうしてのこのこ付いてきてしまっているわけだ。

 壁にかかる黒板の品書きを見ると、Aセットはチキンソテーだった。サラダがついて五二〇円。学生証を見せたらプリンがついてくる。

「で、誰こいつ」

 案山子さんの隣に座っている女性は、俺に一瞥を投げた。

 煙草を咥える女性を間近で見たのは、初めてかもしれなかった。母親は喫煙者を毛嫌いしていたし、わりと派手に遊んでいた姉貴の服からも、そんな匂いは一度も漂ったことがなかった。

「乃木です。乃木りく。初めまして」

 俺は半ば強制的にそうさせられるように、きちんと頭を下げた。鬼に金棒、虎に翼、美人に煙草。顔立ちの整った人に煙草を持たせると、そんな風に人を勝手に動かす特殊能力が備わるということも、もちろん初めて知った。

「そう、乃木くん」

 と、案山子さんは簡単に紹介してくれる。

「ふうん、乃木クン」

 と、女性は飾り気のない黒い前髪をかき上げる。

「こちらは、志紀しきさん。黒崎くろさき志紀。うちの大学の、事務員」

 と、案山子さんは今度は俺に紹介してくれた。どうも、と俺はもう一度頭を深々と下げる。

「乃木くんは、うちの一回生。宮部先生の、授業を取ってる」

「ああ、キャリア支援センターの」

「うん。一般教養の、講義。僕も講義を、聞いているんだ」

「なんで博士課程のあんたが、今更学部のパンキョーなのよ。聴講ってこと?」

「興味が、あるから」

「キャリアの講義に、あんたが? どうして?」

「いろいろと」

「相変わらず、意味が分かんないことしてるね」

 志紀さんの視線は、俺の頭をかすめて壁の品書きへと向けられている。俺への関心など毛ほども感じさせない。おかげで俺も最初に感じた緊張は、少しずつ解けていった。

「で、その乃木クンと鈴木すずきが、あたしに何の用事?」

 案山子さんの名字は鈴木というらしい。見てくれと違って案外と普通で、俺は「すずき?」とオウム返しに聞き返してしまった。

「そういえば、言ってなかった、かな。鈴木大樹だいき、です。はじめ、まして」

 案山子さんは深々と頭を下げて自己紹介をした。犬の尻尾みたいな髪束も、その動作につられてぺたりと案山子さんの首筋に垂れた。

「で、何の用だってば」

 案山子さんは志紀さんの問いに答えずに、店員を呼んだ。俺と案山子さんは学生証を見せて、Aセットを二つ頼む。志紀さんはBセットを注文した。Bセットはアジフライ定食だった。値段はAセットと同じだが、プリンはつかない。

 おしぼりで顔を丁寧に拭ってから、ようやく案山子さんは志紀さんの問いに答えた。

「乃木くん、面倒なことに、巻き込まれて。それで、僕が解決してあげようと思ってる」

 回答を待たされても志紀さんは、別に気にしていないらしい。二本目の煙草を咥えて、

「ふうん。なんで?」

 と、煙を一筋吐いただけだった。

「解決すると、乃木くんは、うちのチームに入ってくれるんだ。烏川杯の一回戦で見せたあの送球は、野球経験者だと思う。だよね?」

 そんな送球したかな。記憶を辿るけど、よく思い出せない。野球経験者なのは間違いないから、そうですと頷く。

「出身は?」

「東京ですけど」

「ポジションは?」

「ピッチャーでした」

「ピッチャー? エース?」

「一応。けど、普通に三回戦で負けましたよ」

 慌てて「けど」以降を付け足したけど、案山子さんは聞いちゃいないみたいだった。店内に響き渡る激しい拍手をすると、満足そうに頷いた。志紀さんは慣れているのか、たしなめることも恥ずかしがることもしない。

「ならなおさら、今回の件、必ず、解決しないと」

 そりゃどうもと頭を下げながら、俺は椅子をそっと後ろに動かして拳一つ分、案山子さんから離れる。野球だってバッターを警戒する時には、ストライクゾーンから拳一つ分くらい外して投げるものだ。

「で、どんな面倒ごとに巻き込まれて、私は何をすればいいわけ?」

「そうそう。志紀に聞いておきたいことが、あるんだ」

 志紀さんはふんと小さな鼻をわずかに膨らませた。化粧は薄いけど、眉はしっかり描いてある。

「あ、でもその前に、さっきの出来事を、簡単に説明した方がいいかな。さっき、二限の授業が、あったんだけど」

 案山子さんはもう一度お手拭きで顔全体を拭ってから、説明を始めようとした。口を開けるところまでは行った。が、思い直したようだった。口を開けて五秒ほど固まって、一度口を閉じ、すぐに舌の先で唇を嘗めた。

「乃木くんが、話して、ほしい」

「俺ですか?」

「だって、当事者、だし」

「そうですけど」

「朝起きて、からのこと、順番に、話してほしい」

「それ、いります?」

「乃木くんが、どういう人かも、知りたいし」

 俺がどういう人か、どうか。そんなこと知って、何になるんだろ。

 案山子さんがお冷のお替りのために立ち上がろうとして、俺はそれをやんわり制して立ち上がった。三人分のグラスを取り上げ、ウォーターサーバーの前に立つ。

 勢いが強すぎる水流を調整しながら、俺は今朝起きてからのことを思い出していた。

 

 目が覚めて三十秒後、アラームが鳴った。

 得をしたのか損をしたのか、その三十秒間について考えを巡らせたけど、すぐに思考の行先は分からなくなって、あくびで誤魔化した。

「今日は二限だけだよね?」

 目を閉じたまま、美里みさとが尋ねてきた。

 髪を掻く彼女の細い指が、頭のかたちに沿ってゆっくり動く。その動作につられて、ショートボブの髪から微かにシャンプーと汗の混じった甘い匂いが漂った。薄いカーテン越しの光は強い。美里の形のいい耳の輪郭にうっすらと血の気をにじませていた。

「私も二限からだし、一緒に行こ?」

 俺はそうしようかと頷いて、二人でベッドを出た。

 俺が寝ぼけ眼でクロワッサンを齧る隣で、美里は真剣な眼差しでスマホを叩いていた。「何してんの」と聞くと「占い」とすぐに答えが返ってきた。学部のOBのいる飲み会で、『MBTIとかの性格診断は面接でも聞かれるから、やっておいた方がいい』とアドバイスを受けてから、美里の中でこの手の性格診断や占いへの熱が高まっている。

「SNSでも占いができるの?」

「そうだよ。この人のコメント欄に生年月日と血液型を書くと、ラッキーアイテムを答えてくれる」

 と美里はスマホの画面を示した。口元をベールで覆ったいかにも胡散臭そうなおばさんが、自信満々にこちらに横目を投げている。自分のことなんて自分でも分からないのに、なんでこんなおばさんに分かるんだろうと思う。けど、興ざめするようなことは言わない。

「私のラッキーアイテムは、缶コーヒー。陸くんは……赤い帽子だって」

 残念ながら赤い帽子は持っていなかった。持っていたとしても被ったかは怪しい。それでも「調べてくれてありがとう」と付け加えることは忘れなかった。

「しかも陸くん、『人生を変える出会いがある』ってさ。やったじゃん」

「誰に出会えるんだろ」

「もう私に出会っちゃってるしねえ」

 快活に美里は笑う。

「美里へのコメントは?」

「『転ばぬように慎重に進むべし』だって。……ねえ、この人あたしを老人だと勘違いしてない?」

 二人で下宿を出たのは十時すぎだった。自転車を数回漕いだだけで、汗が吹き出てくる。

 大きな通りに出ようとする時、目の前に大きなバッグを持った若い女性が立ち止まった。彼女は肩で息をしていた。

「大丈夫ですか?」

 自転車を止めたのは、その頭に広島東洋カープの帽子が乗っていたからだ。レプリカユニフォームも着ている。背中には『KURODA』と懐かしい選手の名前が載っていた。

 もちろん、占いのことを思い出していた。ラッキーアイテムは『赤い帽子』。広島カープの帽子は真っ赤だった。『人生を変える出会いがある』とかなんとか。

「ちょっと立ち眩みがして」

 彼女は微笑んだが、無理に頬を持ち上げたせいでひきつったようなしわができただけだった。七月の太陽は、午前でもアスファルトを強火で焦がしていた。リュックには妊婦であることを示すキーホルダーが揺れている。

 人生を変える出会いかどうかは知らない。けど、少なくとも恋愛イベントのフラグではなさそうだった。とはいえ、そのまま放置するわけにもいかない。バス停まで行くという彼女の荷物を運ぶことにした。

 別れ際、彼女は何度も頭を下げた。

「本当に助かりました。あの、お名前は?」

「乃木です」

「のぎ。禾編ののぎ? 学生さんですか?」

「乃木坂の乃木です。そこの大学の学生です」

 女性を見送ってから自動販売機でコーヒーを買おうとすると、待っていた美里の不機嫌そうな視線にぶつかった。

「……コーヒーに一四〇円って、もったいなくない?」

 俺は百円玉を二枚入れておつりの小銭を拾い上げてから、コーヒーを美里に渡した。

「ほら、ラッキーアイテム」

 それで、美里の機嫌は少し治ったみたいだった。ふん、と鼻を鳴らして受け取る。見知らぬ女性に優しくするのは美里がいないときにしよう。案山子さんの佇む交差点を過ぎて、共通講義棟に入った。

「お疲れ、乃木。美里ちゃんもおはよ。今日も可愛いね」

 近づいてきたのは綿貫わたぬきだった。首筋の汗をペーパーシートでふき取っている。シトラス系の香りが漂う。トレードマークの七三分けもまた、清潔感を演出するためらしい。

「今日も乃木の家から?」

「まあね」

「しかもペアルック? なんかエロいなあ」

 面倒ないじり方をしてくるのもいつものことだった。朝からきわどい単語が使える自分、という自信の裏返しでもある。

 綿貫は関東の有名な大学の附属高校出身で、高校生の時はビジネスプランのグランプリで最優秀賞を取ったんだそうだ。わざわざそれを取り上げたサイトのURLをメッセージで送ってきたのだから、真実なんだろう。その綿貫がなんでこんな地方都市の大学に来る必要があるのか不思議だ。本人曰く「永須大樹えいすだいきという研究者がいたからだ」と説明している。

 永須大樹は、ここ数年でよく聞くようになった名前だ。

 遺伝子だか生命科学だかの研究者で、二十代で海外の有名な研究雑誌の表紙を飾った。しかし、その写真は後ろ姿だけだった。そのミステリアスな雰囲気と秘密主義者的な振る舞いが、ぴたりと日本人の趣向に刺さったわけだ。

 ワイドショーやSNSでは実際はどのような人なのか、という話題でもちきりになった。検索サイトに名前を打ち込むと、『いかがだったでしょうか。これからも永須さんの活躍に期待ですね!』と似たような文言のサイトが乱立している。けど、もちろんそこにはほとんど何も書かれていない。謎は謎を呼び、凋落している日本の研究者の希望の星だという人もいるし、政治家が金を出して息子を載せたんだという人もいる。

「服だけじゃないよ」

 と、美里は綿貫を見上げてたおやかに微笑んだ。

「マグカップも財布も、色んなものがお揃いだよ。いいでしょ?」

 あくまでも自然なその態度に、綿貫はなぜかたじろいだ。しかしすぐに「乃木が羨ましいよ」と取り繕うように口を動かした。美里は人との距離感を測り、その場で適切な言葉を発する。天才的だ、といつも思う。

「なあ乃木、来週は烏川杯の二回戦あるんだから、動ける服装で来いよな」

 美里と別れた途端、綿貫の声のトーンが低くなった。その素直さが綿貫らしい。

「行けたらでいいんだろ? メンバーも決まりがないって言うし」

「いや、来いよ。乃木は元野球部だろ」

 ふと思い出したことがあった。もちろん、交差点の案山子のことだ。

「そういえば、今日も見たよ。案山子さん」

「かかしさん?」

 

(つづく)