「マーダーミステリーっていうゲームですよ」
三谷がよどみなく答える。後輩にも敬語を使うタイプだった。高校では見かけなかったけど、大学には時々いる。
「プレイヤーが物語の登場人物になりきって、会話や推理で真相を探る。推理小説の登場人物になれるって感じですかね」
「へえ。なんか面白そうっすね」
この部室に来ていなかったら、絶対に知らなかったゲームだ。そう考えると、自然と机上のカードの文字を目で追っていた。「探偵」「犯人」「被害者」と言葉が並んでいる。シナリオのようなものが書かれた紙には『クローズドサークルでミステリー』という言葉がおどろおどろしいフォントで書かれていた。
「『クローズドサークル』ってのはなんです?」
俺の問いに、三谷はなぜか声を弾ませた。
「クローズドサークルは、外部から完全に遮断された状況のことです。雪山の山荘とか絶海の孤島とかあるでしょ? 犯人も探偵も被害者も、その場所に閉じ込められている。だから『犯人はこの中にいる』という条件が成り立つ。そういうジャンルですね。わくわくしますよね!」
早口でまくしたてられて、この人こう見えてもやっぱり文芸部なんだ、と思った。なんか、テニスサークルにいそうな雰囲気だけど。
「なんでクローズド『サークル』なんすかね。『プレイス』とかじゃだめなんすか」
俺が適当に話題を繋げると、三谷が思いがけない問いだ、という風にきょとんとした。そして眼鏡の学生に目をやった。眼鏡の彼は肩を竦めて、ぼそぼそと返した。
「語源は諸説ある。けど、placeよりcircleの方がイメージしやすいんじゃないかな。単なる場所の限定じゃなくて、輪に閉じ込められるっていうニュアンス。ほら、ぐるっと囲まれて、逃げられない感じ」
うんうん、と満足そうに三谷は頷く。
「まあ、ある種の言葉遊びなんでしょうね。その言葉遣いの方が雰囲気が出る。さっき薄暗くしてたのも、雰囲気を出すためですよ」
三谷は喜色満面といった具合に続けた。
「でも、クローズドサークルって言葉自体に、そういう疑問を持ったことはなかったなあ。乃木くん、うちの部に向いてるかも。どうです? 入りませんか? 残念ながら僕が一回生の頃から女子はいないですけど、ミステリから純文学、ライトノベルまで、日々創作して、部内で読み合ってるんですよ」
ゆるゆると首を横に振る。創作活動なんて、消費者の見本みたいな俺の対極にある言葉だ。
「小説を書くって、楽しいんすか?」
単純な疑問で話を継いだ。素直に訊きたいという気持ちも多少あった。
「楽しいけど、創作活動はそれ以上に誇らしいんですよ」
目を細めて感慨深げに呟く。けど、俺にその感覚が分かるわけもなく、それ以上話を掘り下げられない。沈黙は困るので、仕方なく適当に話題を振った。
「部員、三人だけなんすか?」
「年々減ってしまって。色々広報イベントもしてるんですけど、なかなか。あ、そうそう。有名な研究者の永須先生、知ってます? あの人もうちのOBですよ。ちょっと自慢できるでしょ? 昔の文集にエッセイもあったはずですよ。確か、地元を書いたものだったような」
お、やっと話がつながりそうだ。OBがどうこうでなく、その前。
俺は慌ててその話題を繋ぎとめた。
「イベントって、十月の頭にあったやつっすか? 競馬がどうとか」
ぽん、と三谷は手を打った。スマホに目を落とす。
「あ、その話で来た方なんですね。もうそんな時間か。朝から籠ってたから、外の時間の感覚がなくなっちゃって」
三谷は仕切りなおすように、一つ咳ばらいをした。
「あの五万円が盗まれた留学生の方の友達だそうで」
ようやく話が本筋までたどり着いた。そして、思ったより協力的な態度でほっとする。彼らからしたら俺たちは探られたくない腹を探っている存在だ。しかも大学当局も絡んでいる。もう少し邪険にされると踏んでいたけど、考えすぎだったか。
三谷はこれでもかと眉尻を下げてしょげている。
「あれは本当に申し訳なかったです。こちらの管理不足というか、まさか楽しいイベントのお金を盗まれるなんて、思わないじゃないですか。うちの部で弁償できるものならするんですけど……」
「盗まれたことは確かなんすか? 勘違いとかではなく?」
「それは確かですね。動画のこと、聞いてます? 夕方の四時きっかりに、誰かが廊下に置いたカップの中に、手を入れてる姿が映ってたんですよ。つまりその時間に廊下に出ていた奴が犯人です」
「でも、犯人はまだ分からない?」
「それが不思議なんですよ。その時間、その時参加者も僕たち歓迎会の進行をしていた二人も、全員談話室にいたんです。間違いないです」
残りの部員を横目で見ると、神妙にうんうんと頷いている。案山子さんはいつの間にか棚から勝手に本を出して、ぱらぱらとめくっていた。こういう人だ。人助けに真剣なのかそうじゃないのか、よく分からない。
「なら、部室棟の中にいた他の誰かが、盗んだんじゃないすかね?」
「それが、誰もいなかったんですよ。もともと、このイベントをするから部室棟には誰も入らないでくれ、ってのはお願いしてたんです。イベントとはいえ一応お金を賭けてるわけで、公平性のためにも誰かに助言をもらうのも禁止にしてるんです」
「スマホとか携帯端末を事前に回収してるのも、そのためでしたっけ」
「そうなんです。前にスマホで予想を見たとか、部室棟の他の人に予想してもらったとかで揉めたことがあって、そこは徹底してた」
「ちなみに盗まれたあと、事務とか警察に連絡はしたんすか?」
三谷は出会ってから、初めて表情を曇らせた。
「いや……さすがにそれはちょっと。軽いイベントとはいっても、違法賭博ですし」
言われてみればその通りだ。大学生なんて賭け麻雀や賭けボーリングをやって当然のところがあるけど、さすがに五万円盗難はまずい。
「まるで、クローズドサークル、だね」
と、そこでようやくぬるりと案山子さんが会話に入り込んできた。
俺は慣れているけど、三谷はぎょっと細い目を見開いた。明らかに普通じゃない風貌の人間が、おかしな話し方で、かつよく分からないタイミングで割り込んでくるのだ。そういう反応になるのは理解できる。
「どういうことです?」
俺は仕方なく案山子さんに尋ねる。無視をしたら、あとからぐちぐちと言ってくるのだ。変人なら変人らしく、他人のことなど気にせず超然としていたらいいものをと思うけど、案外そうでもない。妙なところで人間味があるのが、案山子さんなのだ。
「今回の出来事も、まんまクローズドサークル、じゃないかな」
案山子さんは指折り始める。
「第一に、犯人も探偵も被害者も、この建物にいた。第二に、この建物は外部から遮断されていた。当日、スマホみたいな情報通信端末は手元にない。仮にあったとしても、違法賭博だから、外部に相談できない。電話もメールもできない。絶海の孤島と、同じ状況だ」
「人の死なないクローズドサークル、ですね」
三谷は頬を上気させて反応している。
「クローズドサークルものは多いですけど、いわゆる日常の謎でそういうのって、読んだことないかもしれないです」
と、そこまで言ってから冷静に首を横に振った。
「……けどまあ、今回の件はクローズドサークルって言えるほど、外部と遮断はされてませんよ。別に窓に警報機が付いてるわけでもないし、入り口のドアだって開いたままだった。絶海の孤島でもないし、デスゲームをする施設でもない。だから、入ろうと思えば誰でも入れたんです。実際、僕らは外部の人間の仕業だろうってことで、落ち着いたんです」
「なるほど」
「じゃあ、まず談話室でも行きますか? クローズドサークルの捜査にでも」
三谷はにこりと微笑む。
案山子さんは帽子を取って胸に当て、顎を引いて会釈を返す。まるで映画の名探偵みたいに。これも一応、案山子さんなりのユーモアだ。
まあ、帽子が麦わら帽子のせいで、全てが台無しだけど。
談話室には男子学生が二人、女子学生が二人パイプ椅子に座っていた。男子学生は二人ともTシャツがはちきれんばかりの胸板で、見るからに屈強だった。テレビにはラグビーの試合が流れていて、ラグビー部だろうと推測できる。俺たちが入るとちらりと振り返っただけで、すぐにテレビに視線を戻した。
「ここが例の談話室です」
と三谷は説明した。
談話室はミンさんの話の通りの部屋だった。
部室よりは広いけど、講義室ほど広くはない。大きなテレビとその前にある簡素な木製の長テーブル、その周りには丸椅子やらパイプ椅子が雑多に置かれている。電子レンジと給湯ポットが一台ずつ部屋の隅の台に置かれていた。その隣には給湯器のついたシンクもあるけど、生ごみもなく掃除されていた。
「この部屋に限らないですけど、案外綺麗なんすね。部室棟っていうくらいだから、もっとこう、ごちゃついているもんかと」
俺は率直に感想を漏らす。
「もともとぼろぼろの合宿棟だったのを、数年前に改修したんですよ。だから、部室棟なのにこういう談話室もあるし、まだまだ綺麗なんです」
三谷は賃貸アパートを紹介する不動産屋みたいに、相変わらず笑顔をふりまいている。最初は胡散臭くみえたそれも、ここまでくるとそういう性格なのかとも思えてくる。
「そのカーテンも、最近文化部有志で買い換えました。置いてある家電も最新のものです。電子レンジにオーブン機能まで付いてるんですよ。時々、野球部がケーキを焼いてます」
「テレビだって最新だぞぉ」
急にラグビー部の大きな声が割り込んでくる。
「最新モデルだから大体の機能は付いてる。見逃した試合を見返すのも手軽だし、録画してるドラマを追いかけ再生することもできるし、無修正のAV見る時なんて画質がもう」
その坊主頭を横にいる女性がぴしゃりとはたく。
「一回生にマウント取ろうとしてハラスメントするの、ダサいからやめて」
はたかれた男性はしゅんと黙り込んでしまった。ごめんね、と女性が頭を下げてきて、いえいえと俺は首を振る。
大学生はなぜか、一回生をきちんと一回生だと見ぬく変な眼力を持っている。俺も来年には備わっているのだろうかと考えたけど、半年後の自分がそんな風にきちんと年を重ねて変わっているイメージが持てなかった。まあ、案山子さんのせいで、色々と巻き込まれてるのは確かだろうけど。
案山子さんのことを思いだして振り返るのと、案山子さんの声が届くのが同時だった。
「乃木くん、今、何時、だっけ?」
スマホを見ると、四時になろうとしていた。「あと一分で四時です」
あ、と反応したのはラグビー部だった。
「風呂入るわ、俺」
さっさと立ち上がって、談話室を出て行く。ややあって、聞きなれたメロディーがどこかから流れてきた。『お風呂が沸きました』とアナウンスが告げる。
「部室棟って、風呂まであるんすか?」
と俺は驚いて尋ねる。
「うーん……」
と三谷は先ほどとは打って変わり、歯切れの悪い口調になった。「体育会はたまに使ってるみたいですけど、うちは使わないので」
「たまにじゃなくて、毎日使ってるぞぉ」
と、残ったラグビー部の男子学生が補足してくれる。「大浴場とまではいかないけど、割とでかい風呂だぞ。毎日四時に湯が沸くようにしてる。男でも四、五人は入れる。女なら多分……」
ハラスメント的なことを言いかけたのを察して、事前に女子学生が頭をたたいた。へいへい、と学生は二回叩かれた頭を撫で、テレビに向き直った。
談話室の前の廊下をはさんで左斜め前の窓に、腰ほどの高さの棚があった。
「ここに優勝カップを置いてたんです」
棚のちょうどすぐ傍に窓がある。窓から外を見ると、部室棟の前に駐車場と駐輪場があるのを見下ろせた。なるほど、あのスペースをステージに利用したんだろう。
「盗まれた瞬間の、動画は、今見られる?」
「もちろんです」
三谷がスマホを取り出した。
動画は一分ほどだった。画面の中心では、ステージで学生が尺八を吹いている。画面の右側にはポール時計が建っていて、四時を指している。画面の左側に部室棟の白い壁と窓が並んでいた。そしてその二階の窓の一つに、優勝カップがあった。
動画が四十秒進んだところで、優勝カップの周囲で動きがあった。
一瞬だった。窓枠の下から腕が伸びて、さっとカップの中を漁ったのだ。尺八奏者はそのまま音楽を奏で続けて、動画は終わった。
俺はスマホから目を上げて、眼前の棚を見た。ただのスチールの棚で、中には何も入っていない。犯人はしゃがんで、腕を伸ばして五万円を盗んだのだろう。映っていたのは、その犯行の様子に間違いなさそうだった。
案山子さんは腕を組んで、天井を睨み上げている。
「この動画を撮ったのは誰?」
「外にいた、第二文芸部員の一人です」
「例の事件の四時ごろ、誰も談話室から出てないってのは、なんで分かるの?」
「僕が談話室の入り口近くにずっといたからです。そしてその僕の隣には、マカオからの留学生の参加者がいた。四時に談話室から誰も外に出ていないことも、僕が外に出てないことも、その参加者が証明してくれました」
「この建物って、一階も同じ、構造だよね? 東側に廊下が一本あって、西側に部屋が並んでる。談話室の、下の階には、何があるの?」
「脱衣所ですかね。浴場の脱衣所」
「談話室の窓を出て、脱衣所の窓を通ってこの建物に入りなおす、とかはどう? そうしたら、君がいた談話室の入り口を通らずに、優勝カップのあった廊下に行くことができる、かも」
「脱衣所の窓はかなり小さいですよ。それにこの真下の脱衣所は目隠しが下りてたはずです」
「一度、脱衣所も行ってみても、いいかな」
「もちろん、いいですけど」
談話室のすぐ右手に階段がある。二階建ての部室棟に階段はここだけだ。となると、もし誰かが一階から上がってきてこの優勝カップの前まで来るには、必ずこの談話室の前を通らないといけないことになる。
「外部犯が部室棟の入り口から入ってきたとしたら、絶対この談話室の前を通るじゃないっすか。誰も不審者に気がつかなかったんすか?」
三谷は首を横に振った。
「そうなんだよね。けど、ずっと見張ってたわけでもないんだ。だから、見落としたんじゃないかと思うんだけど」
脱衣所は当然、男子と女子に分かれていた。
そしてなぜか当然のように、案山子さんはためらいもなく女子脱衣所に入ろうとドアに手をかけた。慌てて制止する。
何考えてんだ、この人。
「こっちは女子ですよ! ハラスメントどころじゃないですって! 犯罪です、犯罪」
案山子さんは、はたと気がついて手を引っ込めた。
「こっちが、談話室の下の脱衣所だから、つい」
「ついじゃないっすよ! 盗撮よりひどいっすよ、まじで気を付けてください」
三谷が苦笑いしながら、隣の男子脱衣所のドアを開けた。
「中のつくりは多分同じでしょうから、男子の方を見たらどうですか」
脱衣所は案外広かった。温泉のような木製のロッカーが壁に沿って置かれている。入口の正面に窓があり、そこにはベージュのカーテンが引かれていた。脱衣所の左手に風呂場の入り口があり、ラグビー部がサカナクションの新曲を口ずさむ声が漏れ聞こえた。
案山子さんはカーテンを開け小さな窓を観察したあと、カーテンを開けたり閉めたりして、眉を顰めている。さらに匂いまで嗅ぎ始めた。
「止めてください、案山子さん。さらに変人っぽいですよ」
「いや、新しい、カーテンかな、と思って」
「それ、匂いで分かりますか?」
「まあ、なんとなく。そしてこれは、古そう、だね」
案山子さんは、もう一度カーテンに鼻を近づけている。俺は諦めてそばを離れる。
「あの人、何者なんですか? 時々、キャンパスで彼が立ってるの見ますけど」
小声の三谷の問いに、俺は「さあ」としか答えられない。何者かも分からないし、なぜ佇んでいるのかもよく知らない。こうしてカーテンの匂いを嗅ぐ理由も全然分からない。
「うちの博士課程の人みたいですけど、それ以上は」
投げやりな回答に、ふふっと三谷は笑みをこぼした。
「友達ってわけでもなさそうですね。彼はなんの研究をされてるんでしょう?」
「理系らしいんですけど、よく知らないんです。知ってるのは変人ってことだけっす」
「乃木くんは、一回生でしたっけ」
うーん、と三谷はおおきく伸びをした。「いいですねえ。まだまだ、たくさん遊べる」
「だといいすけど」
綿貫みたいに一回生からハードに動いているやつがいるのを知っている分、遊んでていいのかな、という気持ちにもなる。気持ちになっているだけで、特に何かをしているわけじゃないけど。
「そんな、焦ることなんてないですよ」
三谷が励ますように微笑みを深くした。カウンセラーみたいだ。
「僕なんか一回生の頃からずっと、この部室で創作活動を満喫してますよ。そういう時間って、人生でもこの期間だけでしょうから」
「創作して誇らしいって感覚、あんまり分かんないんすよね」
三谷は「ですよね」とすんなり頷く。
「あの感じって、きっと創作活動をしてないと分からないと思いますよ。要は新しい世界を創ってるわけです。登場人物を思いのままに動かして、見たことのない情景を拵える。それは誇らしい。誇らしさから、次々に創作欲が湧いてくる」
「でも、就活でガクチカに困りません?」
学生時代に力を入れたこと、略してガクチカ。就職活動では、そういうものは必ず聞かれるというのが相場だ。「創作活動に没頭してました」っていうのは、なんというか、あんまり受けがよさそうじゃないけど。
三谷は珍しく渋顔を作った。
「インターンには行きましたよ? でも、大学生が無理に社会人っぽい言葉遣いをして、社会人は変に忙しそうにしている。全部嘘っぽく見えました」
創作活動をしているという人が嘘っぽい感じに嫌悪感を抱くというのが、俺にはしっくり来なかった。だって、そもそも創作が嘘っぱちのわけで。
俺の回答に間が空いたことで、三谷は心中を察したみたいだった。諭すように教えてくれた。
「創作活動ほど、嘘のないものはありませんよ。そこにあるのは自分だけです。自分に嘘をつかず、嘘を描く。会社みたいな『営み』という嘘は、創作にはありません」
「営みが嘘?」
「経営で出る利益は、大雑把に言い換えるなら騙し合いの結果でしょう?」
「小説家だってエッセイストだって、本書いて金を稼いでるんじゃないすか?」
それだっていわば営みで、だとすれば騙し合いの結果だ。しかし、三谷は微笑みを深くした。
「だからこそ、うちの部は部内で読み合うだけで、公募にも出さないんですよ。文化祭にも出さない。ああいうものに出そうとすると、創作の目的が果たせない。顔も知らない他者の顔色を窺うことを前提に創作すると、濁るんです」
脱衣所の蛍光灯を見上げる。……三谷の言い分が、よく分からない。
例えば、と三谷は早口で説明した。
「プロのラーメン屋がつくる最高のラーメンと、アマチュアが作る最高のラーメン、どっちが真のラーメンなのか、ってことです。プロは多くの客を想像しながら作るけど、アマチュアはただ自分の信じたラーメンを作るでしょう? 前者は言い換えるなら大衆への迎合で、後者は言い換えれば世界の創造です。ラーメンの全てを自分の思いのままにできる、そういう後者のあり方が、僕は真実だと思います。誇らしいっていうのは、そういうことです」
「……あー、なるほどっす」
大学にはいろいろな人がいるんだな、と思う。
三谷の言う創作とは、どこまで行っても個人的なものなんだろう。自分の拵えた世界の支配者として、個人的な世界をこつこつと創り上げる。それは多分、じっと鏡を見続ける行為に等しいはずだ。そうやって鏡を見て自分を確認していく、それを続けられる忍耐も根気もそれはそれですごいと思う。
同時に綿貫のことを思いだす。あいつはあいつで、鏡なんてそっちのけで、目の前に広がる広大な現実の世界を自分の手で変えようとしていた。そこには誰かに影響を与えることを通して、自分の存在を確認し誇示しようとする目的もあったはずだ。それは間違いなく営みだったし、騙し合いだった。そして事実、俺も騙されたわけだ。
でも、それは単なる嘘っぱちだっただろうか、とも思う。
綿貫なら、この三谷の言葉になんと答えるんだろうか。そう考えてしまうのは、きっと俺に考えなんてものがないからなんだろう。
話がひと段落したところを見計らって、三谷はスマホで時刻を確認した。そういえば、談話室にも廊下にも時計がない。
「そろそろ、部室に戻りましょうか?」
男子の脱衣所を出ると、ちょうどさっき談話室にいた女子学生が脱衣所に入ろうとするところだった。
案山子さんが躊躇なく彼女を呼び止めた。
「あの、もし誰もいないなら、脱衣所の中を、見せてくれませんか?」
「……は?」
いやいや、ちょっと待て。
慌てて俺と三谷が事情を説明して、何とか納得してもらい、同席の上で女子の脱衣所に入る。これだけ冷や汗をかいたわりに、収穫はゼロだった。窓のカーテンがブラインドであること以外、男子脱衣所と同じ配置だ。
部室に戻ってエアコンの風を浴びた時も、冷や汗は引いていなかった。
残っていた眼鏡と猫背は、俺たちには目を向けずカタカタと自分の目の前のパソコンを叩いていた。「前見せたやつ今書き直したから、読んでみる?」と眼鏡が尋ねて「また今度な」と猫背が応じた。三谷の創作に対する考えはあるのだろうけど、部内でこんな風にブラッシュアップするならせめて学園祭で売ればいいのに、ともったいなく思う。
三谷がふう、と長い息を吐いた。そろそろ帰ってほしい、というシグナルだと俺には分かる。けど案山子さんに通じるわけもない。
「あのさ、お金が盗まれた後、部室棟の中を、捜したって、言ったよね。どこを、捜したの?」
「トイレに倉庫、脱衣所とかですかね。あとは廊下を一通り見回りましたよ」
「部屋の中は見なかった?」
「鍵がかかってて見れませんよ」
「脱衣所も倉庫の鍵はどうだったの?」
「脱衣所は鍵があります。、僕がそれで開けました。……もちろん、男子の方だけですよ」
三谷は女子脱衣所まで覗こうとする案山子さんと話すのが面倒になったらしく、ぶっきらぼうに親指で壁を差した。壁にはフックが打ち込んであって、そこに鍵がひっかけられていた。鍵は四つで、きちんとネームプレートがついている。奥から『男子脱衣所』『女子脱衣所』『初稿保管用』『部室』となっている。
「脱衣所の鍵は、みんな持ってる?」
「部室棟の中で、一年ごとに鍵の管理の担当が回ってきます。今年はうちが脱衣所の鍵の管理の担当です」
「ちなみに事件の時、この第二文芸部の、部室は開いてた?」
「開いてましたよ。見ての通り、ここに隠れる場所なんてないですけど」
「この『初稿保管用』って、いうのは? 原稿を、保管してるの?」
「これです」
質問が重ねられ、苛立たしそうに三谷が鍵を手に取った。隅にあるデスクの一番上の引き出しに鍵を差し込む。中にはノートパソコンとボールペンが一本あるだけだった。
「この部室を捜してもらっても構いませんけど、五万円はないですよ」
語気が強まったのは、案山子さんの質問が徐々に部室内のことに向けられ始めたからだろう。案山子さんが第二文芸部を疑っている、という疑念を持たせたのは間違いない。三谷の先ほどまでの微笑みが、徐々に陰り始めている。
当の案山子さんは風当たりの強さを気にせず、天井を仰いだ。
そのまま、じっと動かなくなった。太い眉を上下させているだけだ。
……あ、やばい。
下手すると、ここで案山子になる。
俺はお礼もそこそこに、案山子さんの手を引っ張って部室から飛び出した。
部屋を出た時、なんとなく息がしやすくなった気がした。
あの柔らかい微笑みも、四六時中見せられると息苦しくもなる。
共通講義棟の中庭にあるベンチに座ると、そこには太陽の温かさが染み込んでいた。案山子さんが真ん中で、ミンさんと俺がそのわきに腰を下ろした。
「少し、調べてみました。けど、何があったのか、まだ分かりません」
グラウンドから野球部の大声が聞こえるせいか、案山子さんはいつもよりゆっくりとミンさんに語りかける。ミンさんはぎこちない微笑みを浮かべた。
「ありがとう。ほんとうに。あの、すみません」
「謝ることは、ない、ですよ」
「すみません」
あ、と口を押さえ、またミンさんははにかむ。そのおどおどとした態度を見ていると、何だか胸の奥が重くなる。何も分からなかった。それ以上に、伝えるべきことがないのだ。
「あの、とりあえず飲みましょう」
と俺は早口に言って、自販機で買ったばかりのジュースを無理やりミンさんに渡した。
ベトナムの言葉とか日本の観光地とか、他愛ない話題を何とか繋いでいるうちに、ミンさんがトイレに立った。
「ミンさんに五万円渡すのが、一番早いんじゃないんですかね」
ミンさんの姿が見えなくなってすぐに、俺はそう言ってみる。ミンさんのしょんぼりしている姿を見るのは忍びなかった。ただの偽善なのかもしれないし、そこにはミンさんが外国人だから、という偏見があるのかもしれない。でも、なにせ弱々しく微笑む姿は見ていられない。
案山子さんは缶コーヒーにちびちび口を付けながら、曖昧な返事をした。
「そう、だね。早い。確かに、早い」
「お金があって、損はないでしょ」
案山子さんは組んでいた手をゆっくり解き、少し考えるふうに無精ひげの生えた顎を撫でる。
やがて、横顔だけこちらに向けた。
「でもミンさんは、お金がないことに、困ってる、のかな」
ちょうど、講義棟から五限の始まりを知らせるチャイムが鳴った。
案山子さんはまっすぐ、俺を見ている。
「説明されないで、勝手に物事が進む。それって、取り残されてるようで、悲しいことじゃないかな。ミンさんは困っているというより、悲しんでいるんだと、思うよ」
七月、俺は美里や綿貫に騙されていた。あの時、どう思っただろう?
もうはっきりとは覚えていなかった。ただ、いい気分はしなかったはずだ。いまだって思い出すと、胸の奥が鈍く痛む。けど、痛みは確実に和らいでいる。何が、薬になったんだろう。時間? それとも?
「ミンさん、よく笑うよね」
「そうっすね」
「笑う前に、少しだけ、息を止めるね」
「そうでしたか?」
「息を止めてから、頑張って、不自然に笑みを作ってる」
「……」
「僕は思うんだけど、不自然な笑顔って、何かを覆い隠すときに、よく使うよね」
ミンさんがハンドタオルで手を拭いながら戻ってきた。確かに微笑んでいる。けど、おずおずとした微笑みだ。
本当にそうだ。頑張って笑みを作ってる。
覆い隠しているのは、きっと悲しみだ。
「それにしても、暑いですね」
ミンさんに向かって、俺は無理やり声を張り上げた。会話の切り口がいつも天候ばかりで、自分でも嫌になる。ベトナムの人と会話する時に使えるストックが俺にはない。今までベトナムのことを考えた瞬間が、俺にはほとんどない。
「バーバーバーが、飲みたい」
とミンさんはふと遠くを見るような目つきをした。
「バーバーバー?」
「ベトナムの、ビール」
とミンさんは恥ずかしそうに頷く。
「わたし、ホーチミン出身。バーバーバー、ホーチミンのビール」
「地域によって、飲むビールが違うんですか?」
「あー、そう。ハノイには、ハノイビールがある」
「日本で言うなら、沖縄の、オリオンビール、って感じかな。いいなあ、飲みたい」
案山子さんは缶コーヒーのプルタブを弾きながら、恨めしそうに青空に言葉を浮かべる。今年に入って、案山子さんが酒も煙草もやめているのはもう何度も聞いていた。
「性格も、地域で、結構違う」
とミンさんは空をじっと見つめている。遠くベトナムにもつながる空だ。
「ホーチミンは、南の方。南の人はね、たいてい明るい。声大きくて、笑うの好き。そしてわたしは、ホーチミン。笑うの好き」
彼女の声は、英語でも日本語でもない抑揚を含んでいて、言葉の端が少し丸く響く。言い終わって、ふっと視線を上げた。遠くに、何かを探す視線だった。
「わたし、祖父は戦争で死んだ。生きることは、笑っていることだと、祖父は言ってたらしい。わたし、笑いたい」
その「笑いたい」という言葉を言うとき、彼女は少し胸を張った。
「朝起きて、よし頑張ろう、と思う日々にしたい。『なんとかやり過ごそう』でもない。『知らないことを知ろう』って笑いたい。父も母も、多分祖父も、きっと喜ぶ」
コーラを持ち上げた俺の手が、なんとなく止まってしまった。ミンさんの遠くを見るまっすぐな瞳のせいだ。その目は沈みかけの太陽の光を受けて輝いていた。
太陽は俺にもミンさんにも案山子さんにも、平等に降り注ぐ。
けど、俺の目はミンさんほど、輝いてはいないだろうな、と思った。
彼女は遠い国から来て、異国の言葉を学び、未来を切り開こうとしている。笑いたいのに笑えない状況になって、それでも笑おうと努力している。
一方で、俺はどうだ。
夏と秋の間にぶら下がって、昨日と今日の違いも見つけられない日常を過ごしているだけだ。ミンさんに話しかけることも厄介ごとに巻き込まれると思うような、平凡でちんけな日常。
俺の目はいつの間にか案山子さんを探していた。もしかしたら、何か救いを求めるような色をしていたかもしれない。
案山子さんは俺を見返した。いつもの瞳だ。探るわけでもなく、促すわけでもない。
ただ、俺の底の何かを見ている。
結局、俺は視線をぐいと引きはがすように持ち上げる。
夕方の空は、小学生が夏休みの課題で適当に仕上げた絵みたいに、やけに奥行きがなかった。のっぺりと青白く、すぐに剥がれ落ちそうだ。
俺の底だって、多分、こんな感じなんだろうなあ。薄くて、浅い。その上、作り物みたいだ。案山子さんは今そういうものを見ているんだと思うと、やるせない。
何だか、空にコーラをぶちまけたい気分になる。
そんなことをしても何も変わらないから、もちろんやらないけど。
じゃあ何をしたら変わるのかと考えても、何も分からない。