最初から読む

 

 集中するときに前髪が邪魔だからと、いつもおでこを丸出しにしてクロッキーブックに向かっていたサホちゃん。

 制服のスカートの下に、体操ズボンをはいていたサホちゃん。

 ほとんどの女子がこっそり化粧をしている中、高三までずっとすっぴんだったサホちゃん。

 デートの行き先が気に食わないと、あさっての方向へ歩き出してしまうサホちゃん。頭の中に、牡鹿が棲む鬱蒼とした森を持っていたサホちゃん。

あのサホちゃんは、もうどこにもいない。

 地下鉄に揺られつつ、裕希は両耳Bluetoothイヤホンを差し込み、スマホの音楽アプリを起動した。数年ぶりにColdplayの代表曲を聴いてみるが、やっぱりどうハマればいいのかわからない。繊細な光の粒が、さらさらと紗幕のように流れているイメージが浮かぶ。綺麗なんだろうけど、触れられない。

 続けて、トンネルらんたんの曲を検索した。ドラマの主題歌やCMソングは曲名に見覚えがあるけれど、知らない曲も多い。再生数の多い曲をタップし、目を閉じる。

 奔放で野蛮で、人慣れしない獣みたいなサホちゃんの世話をして、彼女と世間の橋渡しをしながら生きていく。そんな傲慢なことを考えていた時期があった。あれは実際のところ、サホちゃんに守られて生きていきたい、という甘えの表れだった。

 付き合って一年で美術部の活動に集中したいからと、サクッと俺を振ったサホちゃんは入江沙帆になり、成功して、結婚して、すっかり社交的でお洒落な女性になっていた。

 ワインで軽くなった体を夜風に泳がせ、最寄り駅から徒歩十五分ほど離れた小さなワンルームに帰り着く。

 フローリングに布団が敷きっぱなしになっているごちゃついた一人の部屋を眺め、ため息が漏れた。

 この部屋に帰ってきたくない。それなのに、ここ以外に帰る先がない。

 スパイスドリンクのシロップやリキュールをたくさん売った。一つ一つの飲食店を訪ね、交流し、その店にあった商品を提案し、地道に顧客を増やしていくのは性分に合った仕事だった。成績優秀者として、社内報にも載った。

 入社五年目で新設された希釈飲料部門のマネージャーに抜擢されたときは、少し早すぎないかという戸惑いもあったけれど、働きを認められてうれしかった。このままとんとん拍子にキャリアを築いていけると思っていた。担当者の変更をいやがる大口の取引先が複数あり、それらの担当は継続したまま、後進を育てるよう上司から命じられた。

 一年ほどで、行き詰まった。あまりに業務が多く、部下の教育やサポートに手が回らない。教育が行き届かないものだからトラブルが頻発する。込み入った案件を部下に任せるのが不安だった。電話が鳴る。責任者ですと名乗った途端に、怒声が耳に飛び込んでくる。緊張で寝つきが悪く、しかし会合を休むことはできない。

じわじわと状況が悪くなり、部下からの不満や苦情が上司へ届くようになった。いつしか、中途入社の年上部下だった副マネージャーの方が「おおらかでいろいろ任せてくれる」とチームメンバーから信頼されるようになり、裕希は「いつもピリピリしていて口うるさい」と疎まれるようになった。嫌われていると思うと余計に仕事を振るのにためらいが生じ、業務が雪だるま式に増えた。

 社用車での移動中に事故を起こしたのは、きっと必然だった。

 疲労で意識が散漫になったほんの一瞬、車体が道路をはみ出し、三メートル下の沢に転落した。死んだ、と思ったがなんとか生きていた。軽いむち打ち症になり、三ヶ月ほど通院した。

 幸い車に乗っていたのは裕希一人で、他に怪我人はいなかった。しかしそれ以来、運転への恐怖感が残った。取引先からの急な呼び出しに対応するため、営業担当者は運転を避けて通れない。部署を異動したい、と上司に相談したが、小さな会社なので難しい、そんなのは気持ちの問題だろう、とあしらわれた。次の事故では人を殺すかもしれない。そんな不安に駆られ、裕希は会社を辞めた。

 業務中に事故を起こしたことがある、運転ができない営業マンの転職活動は厳しかった。不採用通知が続く中、新人時代に世話になった通販サイトの在庫を扱う倉庫会社の社員に声をかけられ、次の職が決まるまでバイトをしないか、と誘われなかったら、今頃どうなっていたかわからない。

 ひとまず必死で新しい職場に慣れた。作業を覚え、ある程度の生活のリズムを作って毎日を回していく。幸い勤め先の倉庫は穏やかな人が多く、業務もかなり自動化が進んでいて、思ったよりも早くなじむことができた。ただ、終日立ちっぱなしな点、常に効率を意識して動かなければならない点で体力を使う。

 バイトに慣れたら、求職活動を再開しよう。そう考えていたが、休日は疲労に負けて寝てしまうことが多かった。なんとか早く起きられた日に求職情報を眺めても、次の職場ではまたあの恐ろしい過重労働がやってくるのではないかと、暗い考えが頭をよぎって手が止まる。

 フリーターのまま二年が過ぎた。節約すれば暮らしてはいける。ただ、ここから生活が良い方向に変わる兆しが見えない。もう現場に慣れただろうと、十人ほどいる担当エリアのバイトリーダーになるよう打診されたこともあったが、前職での苦い失敗を反芻するうちに、自分は他人を率いる素質がまるでないのではないかと恐ろしくなり、断ってしまった。

 このままではよくないとわかっている。わかっているが、動けない。

 会社員時代は近所のボルダリングジムに通ったり、好みのスニーカーを収集したりと日常の楽しみを維持していたが、どれも金を使うのが気になってやめてしまった。唯一残った趣味のゲームも、将来への不安が募っていた時期に対戦で負け続け、コントローラーを床に叩きつけて壊して以降、やっていない。

 息子には自分のような苦労をさせたくない、と親族に金を借りながら大学に送り出してくれた母親には、非正規雇用になったことを打ち明けられていない。今も返済を続けているだろう彼女に失敗を伝え、悲しまれることが恐ろしい。

 裕希はため息をついて万年床に腰を下ろした。真夜中のリビングで伯母に叱られながらテーブルに突っ伏していた母親が、なにを言いたかったのか、今はわかる。心のどこかで、親になりきれない弱い人、と馬鹿にしていた。でも、みじめさで潰れた言葉の先が、今ならぜんぶわかる。

 ──お姉ちゃんにはわからない!  なんで私ばかり……。

 うまくいかないの、だ。

 私ばかり、うまくいかない。

 こんなはずじゃなかったかい?    トンネルらんたんのボーカルがイヤホンの内側で軽やかに歌う。裕希はそっと音楽の音量を上げた。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください