最初から読む

 

 木村(井藤)野々花、というスマホの着信履歴を見て、裕希の頭に浮かんだのは、そんな傷口みたいな二十年前の一夜だった。

 あの日、自分は小学六年生だった。妊娠中の父親の浮気で両親が離婚したことも、自分たちが伯母夫婦が所有する物件に抑えた家賃で住ませてもらっていたことも、母親が人が次々と辞めていく苛酷な職場で疲弊していたことも、なにもわかっていなかった。Do As Infinityとスマブラとホットミルク。ゲームで負けても怒らない、心が強くて明るい大人になるのは、思春期の密かな目標だった。

 そして三十二歳になっても、そんな目標は叶っていない。

 勤め先の大型倉庫から最寄り駅へ運行している送迎バスの到着まで、あと二十分ある。裕希は着信履歴をタップして、野々花に電話をかけた。少し緊張して、鼓動が速くなるのがわかる。七コールで、呼び出し音が途絶えた。

『もしもし、裕希くん?』

「ののちゃん」

『ごめんねー急に連絡して。あっ、長くなるからかけ直すよ』

「いいよ、このままで」

『そう?   ありがとう』

 親族がらみの連絡かと思いきや、野々花が口にしたのは思いがけない名称だった。

「トンネルらんたん?」

『そう。裕希くん知ってる?』

「んー、一応。そこまで詳しくはないけど」

『私いまタウン誌の編集やってて、地元の有名人を紹介するコーナーを担当してるんだけど、「トンネルらんたん」のメンバーの一人が裕希くんと同じ高校で、同学年だったらしいの。誰だか知ってる?   心当たりないかな』

 トンネルらんたんはたしか、十年くらい前にブレイクした男性四人組のロックバンドだ。全員がそれぞれ形の違うサングラスをかけていて、素顔を公開していない。爽快感のある力強い楽曲が若者を中心に支持を集め、清涼飲料水や菓子のCMソングを担当していた。裕希の周囲にもファンがいたし、会社の飲み会後のカラオケではいつも誰かが熱唱していた。ただ、ここ数年は活動が下火になっているのか、あまり話を聞かない。

 そのトンネルらんたんのメンバーの一人が、同級生?

「え、メンバーの誰……あのスパイラルパーマのボーカル?   つか俺、いつも歌番組でドアップで歌ってたボーカル以外、髪型すらわかんないわ。ごめん」

『いやいや、謝らないで。トンネルらんたんって、デビューからずっとライブでもMVでもサングラスかけてるし、わからなくても仕方ないよ。ただ、こう、同級生の中で、誰々がミュージシャン的な噂とか流れてないかなーって』

「そもそもどこからそんな話が出たの?」

『町内の偉いおじさんたちの飲み会。発端は地元企業で活躍してる裕希くんの同級生の女の子の話題だったらしいんだけど、その場にいた裕希くんの高校の副校長がぽろっと〝あの代にはミュージシャンだっているぞ。タラララァ、タラララァって曲の〟って、口を滑らせたんだって。で、その場にいたうちの部長が追い聞きしたら、ぱっと真顔になって否定したの。あやしいでしょ』

「あやしいけど、曖昧だなあ。えー……音楽やってた人なんていたかなあ。同級生も、三百人くらいいたし」

『ああ、裕希くんの代は多かったんだっけ』

「八クラスあったよ。もう、会っても顔と名前が一致しない人の方が多いかも」

『同窓会は?』

「年の瀬にやろうって話はあるみたいだけど」

 でも自分がそれに参加するかというと話は別だ。裕希はわずかに顔をしかめた。

『えーん裕希くんお願いっ。このコーナー、地元愛が強いスポンサーさんたちのお気に入りで、一人でも多く紹介できる人のストックが欲しいんだよ。同級生のお友達に、機会があったら聞いてみて』

「うーん……」

 高校の同級生とは、もう誰ともまともに連絡を取っていない。しかしそう伝えるのは人付き合いの少なさをわざわざ自己申告するみたいでいやだった。言葉を濁していると、電話越しにピンポーンとインターホンが鳴る音が聞こえた。マーマー、開けてー、と呼びかける柔らかい声も聞こえる。

『あ、やばい。子供が塾から帰ってきちゃった。とにかく、忙しい中ホントごめんなんだけどよろしくね!   また連絡する!』

 嵐のような慌ただしさで通話が切れた。地元の出版社に勤める野々花は、今日はリモートワークだったようだ。

 送迎バスに乗り、裕希は頬杖をついて車窓を流れる街並みを眺めた。勤め先の倉庫は東京の郊外にあり、周囲は道幅が広く、落ち着いた住宅街が広がっている。十五分ほどバスに揺られ、最寄り駅に着いた。

 ふと、駅と直結しているショッピングモールの、オータムフェアを伝えるポスターが目についた。

 大きなプレゼントボックスを抱えた老若男女が、地面にキノコが生え、木の実が散らばった秋の森を散策している。森は紅葉していて、鹿やリス、小鳥などの小動物たちがさりげなく木陰から顔を出している。透明感のある、綺麗な絵だ。よく見ると動物たちが淡いピンクや紫、青っぽいグレーなど、実際とは異なる色で塗られていて、どこかファンタジックな印象も受ける。

 出勤するときにも、少し気になっていた。木陰からゆるりと首を伸ばした群青色の牡鹿が妙に気になる。頭部からしなやかに伸びた二本の角が淡い輝きを放っている。

 これによく似た鹿を、どこかで見たことがある気がする。

 ──牡鹿?

 ──そう、牡鹿。派手な角がにょきって生えてる。頑固で、重くて、振り回される。でも綺麗で、目を奪われるの。ユウくんの中にも、そういうのいる?

 ──いるわけないよ。

 そんな会話をして、笑いかけた相手は誰だっただろう。俺をユウくんと呼んでいた人。

 ──サホちゃん、頭ん中で牡鹿を飼ってるの?   マジで?

 そうだ、入江沙帆。

 高校二年のときに付き合っていた同級生が、とてもよく似た牡鹿を描いていた。美術系専門学校に進学し、イラストレーターになったと聞いた覚えがある。

 スマホの検索ボックスに名前を入力すると、すぐにイラストレーター・入江沙帆の公式インスタグラムが表示された。ショッピングモールのキャンペーンビジュアルに関する投稿もされている。やはりこれは、彼女が描いたのだ。

 こんなに身近な生活圏で同級生、しかも元カノの仕事を目にするとは思わなかった。思ったよりも世間は狭いのか。それなら三百人いる同級生のうちの一人が有名なバンドマンになっていたって、それほど驚くようなことではないのかもしれない。

 というか、広告なんて華やかな仕事を引き受けている沙帆なら、芸能関係の話にも詳しく、トンネルらんたんのメンバーの正体を知っているのではないか。

 ガラケー時代からデータを移行してきたスマホの連絡帳をスクロールする。ほんの三秒で、入江沙帆のメールアドレスが表示された。

 

「もう近藤だよ。近藤沙帆」

「うへえ」

「名字が変わるってほんとヘンな感じよ。アイデンティティがぐちゃっとする」

 沙帆が待ち合わせに指定したのは、よく打ち合わせに使っているという丸の内のカジュアルなイタリアンレストランだった。半地下の、隠れ家っぽい落ち着いた雰囲気の店だ。値段も抑えめで、居心地がいい。軽めの赤ワインをおいしそうにあおり、沙帆は肩をすくめた。

「まあ、私は仕事上の名前があるし、結婚してもそっちの名前で人から呼ばれる方が圧倒的に多いから、いいかって思ったんだけどさ。結婚後も、意識としては入江沙帆がメインで、近藤沙帆がサブって感じ」

 高校卒業以来、沙帆に会うのは十数年ぶりだ。シニヨンヘアというのだったか、ウエーブのかかった長い髪を後頭部でお洒落にまとめ、両耳にパールのピアスを光らせた彼女は、すっかり隙のない大人の女性になっていた。

 ただ、目が。

 目の前の人間をすとんと貫き、心の底まで見通すような、黒目がちの強い目が変わらない。高校のクラスでも、沙帆は他の生徒とは少し異なる、静かな気配を発していた。

「近藤さん」

 試しに呼んでみる。彼女に対して長年持ってきた、どこか野蛮でとらえにくい印象と食い違って、おかしい。沙帆も楽しげに目を細めている。

「誰? って感じ」

「でしょう? だから真嶋くんもさ、いい仲の人がいるのかもしれないけど、結婚するぞってなったときにはよく話し合った方がいいよ」

「いい仲の人がそもそもいないよ」

「そうなんだ、意外だな。器用だし、人当たりも良いし、早めに結婚しそうなイメージだった」

「フッた人がそういうこと言う?」

「あの時期、なんとなく人と一緒に行動するのが辛かったんだ」

「ひどい話ですよ」

 軽く笑って次の話に移れるぐらいには、十数年前の恋は既に遠い。そりゃ期待がひとかけらもなかったかというと嘘になるけれど、既婚じゃだめだ。父親の不倫で苦労の多い人生を歩むことになった母親を見て育った裕希は、不倫や浮気に強い嫌悪感を持っていた。

 ただ、沙帆が急な呼びかけに応えてくれたのは、別れたあともそれなりに仲が良かった元恋人同士だからなんだろうな、と裕希は思う。他の友達よりも、相手のことをちょっと多めに知っていて、自分のこともちょっと多めに知られている、慣れに似た感覚。

 自家製ピクルスにマルゲリータピザ、熟成肉の炭火焼きを味わい、沙帆は店員に向けてひらりと片手を上げた。二杯目のグラスワインを注文する。

「それでなんだっけ、トンネルらんたん?」

「うん」

「めちゃくちゃなつかしい!   はやってたねえ。面白いバンドだよね。歌詞は真面目 で重さがあるのに、曲を聴いたときの印象はふわっと明るくて、ノリノリで歌えるの。独特だなーって思ったのを覚えてるよ」

「珍しい。入江さんがはやりの歌を褒めるなんて。学生時代は、洋楽しか聴いてなかったのに」

「誰だっけな、トンネルらんたんの大ファンの友達がいて……ああ、渡瀬晶子だ。社会人になったばかりの頃、晶子とよく憂さ晴らしにカラオケに行ったんだ。あの子がいつも歌ってたから、メジャーな曲はだいたい知ってるよ」

「ふーん……」

 渡瀬晶子がトンネルらんたんのファンだ、というのは少し意外だった。

 晶子はいわゆる秀才で、教師からの信頼が厚い優等生だった。生徒会役員や文化祭実行委員に選出されるしっかり者で、スポーツも得意。周囲から一目置かれていた。

 あんなになんでもできる人が、トンネルらんたんの大ファンなのか。

 裕希のなかでトンネルらんたんのイメージは、「なんとなく泥くさい」だった。曲 調は明るいが歌詞が暗く、失恋や挫折がよく歌われる。裕希は疾走感のある美しい世界をイメージさせる音楽が好きで、日常の気配が強い音楽はあまりピンとこなかった。

 晶子なんて、トンネルらんたんが歌う世界の真逆に位置する人じゃないか。なんでもできる。どこへでもいける。高校時代はたしか、サッカー部のイケメンと付き合っていたはずだ。失恋や挫折からいかにも遠い人。

「ちなみに渡瀬さんって、今なにしてるの?」

「大手家電メーカーで開発の仕事をしてる。このあいだ、生活の身近なAI家電を紹介する番組で、気鋭の若手開発者って紹介されてた」

「優秀だあ」

「晶子、学年で一番勉強できたもんね」

「みんなすげえなあ」

「真嶋くんは、飲料メーカーだっけ。高畑くんのインスタで、真嶋くんがクラフトコーラの営業に来たって投稿を見たよ」

 書道部部長だった高畑良一を、都内のバーのカウンターで見つけたときは驚いた。

 お互いに見覚えがあるのにスムーズに名前が出てこず、照れながらぎこちなく名刺交換をしたものだ。

 真嶋くんじゃん!  スーツだとわかんないねえ、と笑い出した高畑の顔を思い出し、裕希は一つうなずいた。

「実は飲料じゃなくて、スパイスの会社なんだ。俺が入社した頃からスパイスドリンクのシロップやリキュールを売り始めて、それがずいぶん売れてさ。クラフトコーラは一番人気だったな。試供品を営業車に詰め込んで、都内中の飲食店を回ったよ。高畑とも会ったし……どこだっけ、神奈川のレストランかな……西野まつりさんにも会った」

「まつりちゃん!   なつかしっ。背の高い子だよね」

「俺、西野さんと高校で一度も話したことなかったから、取引相手として話すのが妙に面白かったよ」

「じゃあ、ずっと営業職?」

「あ、いや」

 誰ともまともに目が合わない、冷え冷えとしたオフィスの風景が脳裏をよぎる。胃が締めつけられる感覚がよみがえり、裕希はうっすらと眉をひそめた。

「今は転職して、物流関係の仕事してる」

「あれ、そうなんだ」

「ちょっと忙しすぎて、このままじゃだめだなって」

「あー、健康が一番大事だよねー。三十代になってなおさらそう思うよ。徹夜とかもうできないもん」

「やっぱり人気のイラストレーターって徹夜多いの?」

「そういう時期もあったけど、今は控えめにしてる」

 沙帆はメニューを開き、デザートを選び始めた。裕希もそれにならい、クリームブリュレを注文する。コーヒーとデザートがテーブルに並び、裕希はやっと沙帆に聞くべきことを思い出した。

 

『青春とそれから』は全4回で連日公開予定