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「そうだけど」

 私の誕生日プレゼントは、ここ数年、現金支給でした。自分で食べたいケーキを買うと、その分の金額を夫がくれていました。ともに甘党ですから、二人だけでも二日とかからずホールケーキを食べつくしたものです。

「これプレゼント」

 照れくさそうにしながら、夫がその包みを手渡してきました。

「開けてみてよ」

 少しわくわくしたような顔までして促してきたので、その場で包装紙を破いていきました。

「おいおい、もうちょっと丁寧に開けてくれよ」

 と夫が苦笑いします。私には中身が見え始めていました。布。紐。花模様。桜色。

「なにこれ」

 私の口から出た声がかすれて、両腕には鳥肌が立っていました。

「なにこれって」

 夫はためらいながらも、答えました。

「ブラジャーだよ」

 それは、あの日彼が着けて寝ていたブラジャーでした。

 夫はかすかに頬を赤らめ、目線を落としていました。思春期の少年のようなその微笑みかたを見たとき私は思いました。だめだ、自分が彼を守らなければ、と。

 夫は、警察に追われるブラ氏だ。

 下着を着けてうろつく以上の性癖を、おそらく隠し持っている。そして、それを今、私についに明かそうとしている。

 混乱していました。まず浮かんだのはどこかにいるはずの被害者のことでした。被害を受けた方々に、どうつぐなえばよいのだろうか。申し訳ございません、私の夫が、申し訳ございません。どれだけ頭を下げても許してもらえるわけはない……。

 だがしかし。目の前の小太りの男は、完璧な寝息のただひとりの夫でもあるのだ。産まない自分を選ばなかった自分が、選んだ夫。

 私が守らなければと思いました。ブラジャーが、私と夫の間に落ちました。

 私だって同じ格好で徘徊していたのだから、私が自首すればいい。そうだ、それでいいと思いました。

 タオルのストックのカゴの奥に隠した例の量販店のブラジャーとパンツを慌てて漁った。それは、そこにちゃんとありました。

 私は飛び出しました。髪もとかさず、化粧もせず、でも夜な夜な着けて歩いたきつくて痛いそのブラジャーとパンツを身に着け、上からトレンチコートを羽織っただけで、ここへまっすぐ走ってきました。はい、この下はそうです。寒いです。夜じゃないだけで、この格好の緊張感は増しますね。

 私を捕まえてほしかったのですけど、そうですか、間に合わなかったんですね。

 そういえば、目玉焼きが焦げているかもしれません。火を止めたかどうか覚えていません。

 

 

 女性警察官が、半信半疑の表情で電話をかけている。相手は、ブラ氏現行犯逮捕の連絡を受けて出て行った男性警察官のようだ。

「はい、だからさっきの年配の女性が今、話してくれて。はい、はい。夫をかばいたかった、みたいなことで。……そうです、え、なんですか?」

 現行犯逮捕された容疑者が由美の夫であるらしい、と伝えてくれているようだったが、やけに時間がかかっている。由美は、ひとりで抱えていた秘密を打ち明けてしまって、脱力していた。最初の話を聞きながら女性警察官がとっていたメモの丸い文字を、ぼうっと見ていた。口を付けていないお茶からは湯気が消えていた。

 やがて女性警察官が、訳が分からないといったふうに首を傾げてから、由美へと受話器を手渡した。

「ああさっきの奥さん? ごめんなさいね」

 電話の向こうから、またしても子どもに話しかけるような口調で話しかけられる。

「あのね、旦那さんのお名前とお歳、教えてくれるかな」

 由美は、とぼけた演技をしすぎたようだと感じた。その印象を覆そうと、できるだけはきはきと、夫の名前と年齢を答えた。電話の向こうで笑い声が上がった。

「ああ、やっぱり、違いますよ。捕まったのは、旦那さんじゃないです」

 相手も負けじとはきはき言う。

「はい?」

「犯人は、旦那さんじゃ、ないですよ」

「じゃあ……」

「もちろん、あなたでもないです。本当は詳しいことは教えられないんですけどね、三〇代の男で、あの、聞こえてますか」

 由美の耳が遠いとでも思っているのか、相手の声のボリュームは上がり続ける。

「とにかく、あなたもあなたの旦那さんも、関係ありませんから」

 最後、由美は「はあ」としか答えられなかった。

 女性警察官がお茶を片付けはじめた。トレンチコートのポケットの中の、携帯電話が一度震えた。交番を出てから取り出すと、娘の名前とメッセージが表示されていた。

「おかあさん誕生日おめでとう。これからも、おとうさんと仲よくね」

 ここへ来る前、おとうさんとおかあさんの間に何かあったらよろしく頼むと、連絡していたことを由美は思い出した。

 まだ朝だというのに由美は、疲れきって家路についた。一生分の芝居を打ったような気持ちだった。学校へと向かう小学生たちとすれ違う。彼らは、由美のコートの中がブラジャーとパンツだとは知らず、さわやかにおはようございますと言った。一気に自分が老人になった気がした。

 見慣れた玄関を開けると、焦げくさい匂いがした。夫は食卓についている。やわらかい逆光に浮かぶ夫の形は、やはり自分とそっくりだった。

 近づくと夫は由美の顔を、はっと見上げた。

「大丈夫か」

 由美のことを、心配して待っていたようだった。さっき警察官に説明されたように、本当に、変質者としてのブラ氏は、夫とは別人なのだろうか。ここにいるのはただの健全な、ブラジャーをして昼寝していただけの男なのだろうか。

「大丈夫です」

 由美が向かい側に座ると、夫はさっきの続きだと言うように、食卓の上へもう一度、ブラジャーを差し出してきた。

 ――なんのつもりだろうか。どうしてこの人は、寝息が完璧なのに、こんなに言葉が足りないのだろう。歯がゆくなって由美は自分から聞いた。

「どうしてブラジャーなの。あなたがブラジャーして昼寝してたところ、見たの。どういうつもり。私、今、警察に行ってきました」

「け、警察?」

「見たこと、したこと、話してきました。だけど違った。捕まったのはあなたじゃなかった。私はただのおかしな初老の女でした。もう疲れました」

 動かない夫の丸い肩と毛量が、自分に似ていて疎ましかった。

「二年前の夏、由美が」

 夫がやっと声を出した。

「由美が、出産しなかったほうの自分のことを今でも考えてしまうと言ったこと、覚えてるか」

 由美は頷いた。

「あの時、大量の下着整理の仕事をしてきたと、そう言っていた。そのあとで、出産しなかったほうの可能性について今も考えることを聞いて、心底驚いたんだ。きみは、そうめんを茹でながら淡々と話してた。でも、まさか産んでから三十年以上経ってもまだ、そんなことを考えているなんて、こっちは思ってもみなかったから。思えば、ブラジャーへの関心が再燃したのは、それがきっかけなんだ」

 夫が思いもよらぬ角度から告白を始めた。

「俺、昔、下着部屋に住んでいる友人がいたんだ」

トレンチコートの上からひとつめのボタンに手をかけ、由美はそう思った。

 

 

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