この女は、認知機能が落ちはじめている。目の前の女性警察官に、そう思わせたほうが都合がよい。だから要領を得ない話し方も、弱々しい声のボリュームも、由美本人にとっては計算の上だった。
由美はトレンチコートの一番上のボタンへと指先をかけた。
担当の警察官が女性でよかったと心から思ったそのとき、交番の奥の電話が鳴った。それまで笑いもせず、つっこみも入れず、辛抱強く聞いてくれていた由美の話をメモに取っていた女性警察官の手が止まった。彼女とは別の、もう少し年上の男性警察官が受話器を取ったようだった。ひとこと、ふたこと、低い声で話している。空気が緊張していくのが分かった。由美の体もつられて硬くなる。警官は由美たちのほうへ振り返って、言った。
「ブラの件、今捕まったって。朝っぱらから現行犯」
体中から力が抜けた。警察官は再び受話器に向かって何か告げて切ると、由美の方へ歩み寄り、目線の高さを合わせるようにかがんだ。それから、
「そういうことで奥さん、犯人は、あなたではありません」
微笑みながら、幼稚園児に使うような声色で言った。
間に合わなかった、と由美は思った。
「大丈夫ですよ、奥さん。あなたじゃ、ありません。ほらそんな顔しないで」
間に合わなかった、間に合わなかった──。
「じゃあ俺も行ってくるから。ここは頼みます。奥さん、気を付けて帰ってくださいね」
その警察官が出て行ってしまうと、女性警察官は、表の掲示板の不審者情報の貼り紙を一枚はがした。ブラ氏の情報だろう。そのあとで、由美に温かいお茶を入れて持ってきてくれた。
「せっかくですから飲んでいってください」
私じゃなかった、と由美は思った。いや、そうじゃない。それよりも何よりも、間に合わなかった。間に合わなかったのだ。
由美はお茶に手を伸ばせなかった。女性警察官の顔をぼう然と見つめた。
「どうされました、大丈夫ですか」
また優しい声で聞かれ、自分がどんどん年老いていく気がした。
「すみません、まだお話ししてもいいですか」
女性警察官は苦笑いを押し込めたように口角を上げてから頷き、もうメモとペンに手は伸ばさなかった。
*
お忙しいのにごめんなさい。……今度こそ、本当の話をします。
さっきの話ももちろん、本当ですが、今度のほうがさらにもう一歩進んだ本当です。一週間前の出来事です。これが、私をここに来させた一番のきっかけです。
一週間前のその日、パートが一件、依頼人の都合で急きょキャンセルになりました。私が予定より早く帰宅すると、寝室にしている和室の襖は、半開きになっていました。その奥では、夫が、畳に仰向けになっていたんです。
い草の香りに脱力しきった全身を包まれて、障子の和紙を通り抜けた十月の陽を浴びていました。平和な午睡の風景であるようにも見えましたが、私の手からは、林檎と卵の入った買い物袋がすべり落ちました。殻の崩れる不吉な音が立ちました。それでも夫は、ぴくりともしませんでした。
私はどうするべきなのだろうか。悲しみとも恐怖とも呼べない初めての感情でした。混乱していたのでしょうか、気が付くと私の手は襖を閉めていて、夫の姿が視界から消えました。
そうか、通報か。通報しなければならないのか? と思った瞬間、どうでもいいことが頭をかすめました。夫の寝息のことです。結婚の決め手のひとつは、彼の寝息の好ましさだった、ということです。
彼はどんなに熟睡していても口を閉じ、ちゃんと鼻で呼吸をしました。ときに呼吸が止まっているのではないかと心配になって、近付いて胸の上下や鼻からの呼気を確認してしまうほど静かなのです。五つ年上の彼の胸板に自分の頭を預け、鼓動と鼻息に耳を澄ます夜は、安心できる時間でした。
ぴー、ぷす、などといった間の抜けた音など、まず出しません。もちろん、いびきもかきません。そこについては絶大な信頼を置いていました。私にとって、寝息の好ましさは結婚相手に求めるものすごく大切な条件だったんです。毎日となりで眠ることになるのだから、いちいち気に障る寝息を立てる人では困るのだと、若いころからかなり真剣に思っていました。
結婚してからの三十数年、新婚旅行の夜も、ひとり娘の夜泣きが途切れた隙も、大きな地震があった日も。私はあの胸に耳を寄せ、この寝息に出会えた幸運に幾度となく感謝しました。
私にとって完璧な寝息の夫。彼のことを本当に、心から思うなら――。目を逸らしてはいけないと、思いました。
もう一度、襖を開けました。
さっきまでと変わらぬ姿で夫は、そこに転がっていました。
上半身に桜色のブラジャーをして、転がっていました。
レースに包まれた胸は、仰向けになっていてもわずかにふくらみと谷間が出現していて、じっと見ていると上下しています。あいかわらず完璧な寝息を、立てています。表情は穏やかで、ものすごく気持ちよさそうです。定年まで銀行員として勤め上げた厳格な夫の、その胸だけが今、別人のもののようでした。
いつものように胸に耳をあててみようかと考えましたが、足はそれ以上、前には進みませんでした。見知らぬブラジャーに、威嚇されているようでした。
あれは確実に、私が使っているものではありませんでした。繊細な花模様のレースで覆われ、見るからに丈夫そうなU字型ワイヤーが入った桜色のブラジャーなど、私が買うはずがないのです。実用的ではないと、生活には向かないと、私はもう知りすぎるほど知っているのです。
近所の奥さんからブラ氏の噂を聞いたとき、もしかすると二年前の夏に盗ったのは桜色のブラジャーだったのかもしれないと思い出していたことは確かですが、まさかこんな形で私の前に現れるなんてこと、あるでしょうか。夫はこれを自分で買ったのだろうか? 夫がブラジャーを買う姿など想像できないけれど、誰かに買ってもらったのか? もしや盗んだのか? さまざまな想像が一気にめぐりました。
夫は、下半身には見慣れたトランクスと靴下を穿いていました。寝相がよく、かつ、おなかの弱い彼らしく、両の手は裸のおへそを隠すように上品に重ねられています。上半身にそのブラジャーだけを着けているという部分のみが、いつもの寝姿と違うことでした。
頭の中の砂嵐は収まらず、結局、襖を最初の半開きの状態へと戻しました。割れてしまった卵をパックのまま冷蔵庫に入れてから、音を立てないように、再び家を出ました。
といっても行くところなどありません。娘に電話をかけてみましたが、仕事中だったのでしょう、出てくれる気配はありません。仕方なくふらふらと歩いて、駅前まで来てしまい、この交番に貼られていたというブラ氏の貼り紙を、見に来ました。
そこにはいくつかの不審者情報が貼られていて、そのうちの一枚には、近所の奥さんが言っていたブラ氏のものがありました。「ブラジャーとパンティーの上からトレンチコートを羽織っている」「中肉中背」「推定五十~六十代の男」「白髪交じりの短髪で毛量多し」といった情報が書かれていました。
「小太り」という文言はなく、あの奥さんが話を少し盛っていたことが分かりましたが、おおかたは事実であるようでした。しかし私は正直、これだけで不審者というのはいかがなものかとも思いました。
誰だって、桜色のブラジャーを着けて街を歩きたい日くらいあるだろう。コートがたまたま強風で煽られ、中の下着が向かいから歩いてきた誰かに見られてしまっただけだ、ということもあるんじゃないのか? と思ったのです。ごく自然に不審者の肩を持っていました。
そして、それが夫の無実を信じたいという気持ち、それのみから生まれた気持ちではないということにも、気付いていました。私はたぶん、私自身のことも、かばおうとしていました。
五十~六十代の小太り(中肉中背)、白髪交じりの短髪で毛量多し。これは、私にも当てはまる特徴でした。そういう風貌の人間が、桜色のブラジャーを着けるなんて変だ、と嗤われている気がしてしまったのだと思います。
使命感に駆られ、そのまま駅前の量販店へ向かいました。その二階の婦人服売り場で、迷いに迷って夫が着けていたのに似た、桜色の上下セットの下着を買いました。アンダーバストは余裕を見て、A90を選びました。レジで同じ年ごろの女性が対応してくれている間、恥ずかしくて顔から火が出そうでした。ワイヤー入りのものなんて、娘を出産して以来でした。
「あれ、いつもより早かったね」
帰宅すると、夫は何食わぬ顔で私を出迎えました。
彼は首元のゆるんだ白いTシャツを着ていました。思わず目を凝らしましたが、その白にブラジャーは透けていません。パンダの目元の模様に似た、横幅広くたるんだ乳のシルエットが浮かんでいるだけでした。
「ねえ、きょうの昼寝の時、ブラジャー着けてた?」
そんなことは聞けませんでした。
結婚をして三十年以上経って、もう彼に聞けないことなどないと思い込んでいましたが、ありました。
その夜は、割れてしまった卵で親子丼を作り、わかめと豆腐のお味噌汁とほうれん草のお浸しを添え、食後は林檎を剥きました。夜七時に始まる報道番組を夫は見ていました。不審者もこのように堂々とニュースを見るものだろうかと、その後頭部を眺めながら私は思いました。
いつものように、それぞれ寝床へ就きました。私は、先に眠った夫の胸へ耳を寄せました。ブラをしておらず、寝息もいつも通り完璧でした。
それを聞きながら、決めたのです。私は今夜、買ったばかりのブラジャーとパンツを着け、この秋初めてのトレンチコートをおろして、羽織り、街へ出ようと。私が不審者に、なるのです。夫をかばい、また、自分をもかばうために。
月の見えない夜でした。私を「小太りの男」に見せてくれるちょうどよい暗さです。風が金木犀の香りを運んできます。外灯の少ない住宅地の狭い道を、駅へ向かって前のめりに進みました。コートのボタンはすべて開けていましたが、スピードを出す一台の外車とすれ違ったとき、風で裾がばさりと広がりそうになったので、あわてて両手で前をかき合わせました。それからじわじわと足元から寒さを感じました。一歩踏み出すたび揺れる裾から覗く自分のすねが、今までで一番白く見えました。毛を剃っておくのだったと後悔しましたが、いや、毛があったほうが頭髪が多いとされるブラ氏らしいかとすぐに思い直しました。
久しぶりのワイヤーが胸の脂肪に突き刺さります。余裕を持って選んだのに胸全体が締め付けられ、はみ出た肉がボンレスハムのようになっているのが触れなくとも分かります。背中にホックがめり込みます。綿一〇〇%ではない生地は、こんなにも冷たいものだったろうか。おなかを壊しそうです。私は徐々に途方にくれていきます。何のときめきも官能もありませんでした。誰かに中身を見せたいという欲求も起きません。二年前の夏の部屋で目にしたような下着と、私が買った近所の量販店の安物では、やはり何もかも違うのだろうと思いました。
すでに零時を超えていました。そのままの姿で駅前を通り抜け、二十分ほど歩き回り、帰宅しました。この交番の前も通りました。逮捕されるかしらと思いましたが、あなたは私のほうをちらりと見ただけでしたよ。
ほうら、どうせ気付かないんだろう、これくらいで不審者扱いされてたまるか。
あなたの節穴の目は、そんな私の反抗的な心をおおいに刺激してくれるものでした。
家へ戻ると、夫はしっかりと寝入っているようでした。私はブラジャーから胸をだらしなく解放し、いつもの綿のパンツに穿き替えて、安心して眠りました。
それをこの一週間、毎夜、繰り返したのです。あなたも、他の誰も、私が不審者とは気付きませんでした。
そしてきょう、私の六十四歳の誕生日です。
昨夜も私は、不審者として歩き回ったあとで布団にもぐりました。
鮮明な夢を見ました。私は桜色のブラジャーを着けていました。鏡を見ると、おなかは若いころのように平らです。まるで脱皮したように、厚い脂肪を全身からするりと脱ぐことができていたのです。腰回りの硬い肉も跡かたなく落ち、胸とお尻の位置がきゅっと持ちあがっています。体が軽くてどこまでも走れそうだったので、Tシャツを着て、細いジーンズを穿いて、街に出ました。うれしくて、あの夏に一部だけ見えた六本木ヒルズのふもとまで走りました。流れる汗もさらさらしていて、ただ清々しいばかりでしたが道中、誰にも会いませんでした。交番の中にも誰もいない。ひととおり走り回って帰りました。今見てきた景色を話して聞かせようとしたのですが、家にも誰もいませんでした。夫もいないし、娘もいない。名前を呼んで、捜し回っても、どこにもいなかった。鏡を見ると、私も映っていませんでした。
夢だと気付いて目を開けると明け方で、部屋の中は薄青く、夫は隣にいました。いつもの完璧な寝息です。娘は、いない。就職し結婚もして、もうこの家にはいない。徐々に意識が現実に戻ってきました。
私は、パジャマのズボンに手を入れてみました。零時を超えて六十四歳になりたての、自分のおなかに直に触れてみました。脂肪と、出産後も消えなかった妊娠線のでこぼこが、そこには変わらずありました。妊娠線の下には、臀部を丸ごと包み込んでくれるベージュ色のパンツの、伸縮性に優れたウエストゴムがありました。
まぎれもなく、産んだほうの私でした。小太りの男として一週間歩き回っても、産んだほうの自分でした。ほっとしたのか残念に思っているのか、違いがわからないくらいの眠気が襲いました。
「おまえ、ズボンの中に両手入れて寝てたよ」
今朝、目玉焼きを作っていると、歯みがきの最中の夫にそう声をかけられました。
新婚当初は頬を赤らめたでしょうが、今はその程度のことが恥ずかしいとはまったく思いません。それどころか、ズボンに手を入れていた程度の些細な行為をわざわざ忠告してくるなんて、と思いました。そんな中学生のような正義感を持つこの人は、やはり例のブラ氏ではないんじゃないか? と思いました。
夫がうがいをしに、洗面所へと入っていきました。戻ってきたら正々堂々聞こうと思っていました。あなた、ブラして寝てたけど、あのブラ氏じゃないのよね? ブラジャーをしてみたかっただけで、それ以外に、他人に危害を加えるような変なことは、別にしてないのよね? ブラジャーを盗んだりもしてないわよね?
聞こうと思えたのは、信じていたからです。
「きょう誕生日だろ」
しかし、戻ってきた夫が先にそう言い、出ばなをくじかれました。後ろ手に何かを持っています。
『胸なんて夢と希望でふくらみません』は全3回で連日公開予定