子どもたちには、夫が伝えてくれた。いつ伝えたのかを教えてもらったわけではないが、子どもたちが急に神妙な顔で自分をじっと見つめるので、伝えられたのだ、ということが、すぐにわかった。

 長女は腕をまわしてきて、うつむいたまま、お母さんかわいそう、と言った。

「お母さんって、かわいそう?」

 長女の言葉を復唱したあと、そう? かわいそうだと思う? と重ねた。だまって頷いた長女の頭をなでてから、傍らにしゃがみ、瞳をのぞきこんだ。

「そんなことないよ。お母さんしあわせよ。みんなが、そばにいてくれるだけで。いっしょにここにいるだけで、すっごく、しあわせ」

 それは本当の気持ちだった。永子は長女を抱きしめた。このやわらかさ、あたたかさ、少し酸っぱいような甘い匂い。この感触の生き物がそばにいれば、ずっと幸福な気持ちでいられるだろう。

 両肩に何かが触れた。長男の手だ。夫のものではない。夫の手はもっとごわごわしている。家族のてのひらがどんなふうか、見なくてもわかる。見なくてもわかる、ということに気づかせてくれるために、医者はあんなことを自分に伝えたのだ、そうだそうだ。

 無理やりな解釈だと頭の隅で思いつつも、きっとそうなのだ、そうにちがいない、と永子は考えを塗り替えていく。

 大丈夫だよ。

 夫が、確証もなく自分に言った言葉が、確かなものとしてよみがえる。

 

 

 母親が指さす先には、半透明のスーパーボールが一つ落ちている。小さな女の子は首を横にふったが、母親はとりあわず、さあ急ぎましょうね、と言って女の子を抱き上げた。抱き上げられた女の子は、母親の肩に自分の顎をあずけて、かすかに口を開いた。

「め」

 その視線の先には「め」というひらがなの文字が刺繍されている小さなお守りが落ちている。スーパーボールに寄り添うように。

 

 

 水色の空に、うっすらと雲がかかっている。空の下に電線が見える。ビルがある。屋根がある。どうってことのない風景だけど、景色ってきれいだな、と永子は思う。今見えているものすべてが、きれいだな、と思う。視線を落とし、ぎゅっと握ったままの自分の手を見つめ、夫がその手の中のものをくれたときのことを思い出している。

 

 ただいまー、と上機嫌で夫は帰宅した。東北出張から戻ってきたのだ。

行者ぎようじやにんにくに、笹かま、萩の月にぃー、牛タンだ!」

 鞄の中から、次々に土産みやげをとり出した。牛タン、と聞いて子どもたちが、オーッ、と声を上げた。出張のときは、なにがしかの手土産を必ず買って帰る人だったが、今回はやけに多い。私の病気がわかったために気を遣ったことは明らかだ。

「出張くらいでこんなにたくさん、いいのに……」

「お母さんヒドいよー、お父さんがせっかく買ってきてくれたのにー」

 長男が笑って言う。長女も、牛タンの入った銀色の保冷用の袋を握り締めながら、八重歯やえばを見せて笑っている。

「冷蔵庫に入れてきて」

「はーい」

 子どもたちは品物を抱えて素直に台所へ向かう。その背中を見届けてから夫が、えーっと、それから、と背広の内ポケットをまさぐりはじめた。

「まだ、なにか?」

 うん、まあ、ね、これが一番大事な……、と言いながら、白い袋を取り出した。

 受け取ってその袋に指を入れると、中からお守りが出てきた。緑色のきらきらした布地に、白い糸で「め」というひらがな一文字の刺繍がほどこしてある。

「め?」

「中尊寺の薬師如来は、目の神様なんだって。だから目のお守り。日本中探しても、ここにしかないものなんだって」

「わあ、ありがとう。わざわざ、これを買うために、中尊寺まで行ってくれたの?」

「いやいや、おれ、神社仏閣に並々ならぬ興味があるからね」

「そうだった?」

「そうそう」

 夫は、永子に顔を向け、すぐに照れくさそうに視線をはずした。その横顔を見ながら、かわいい、と永子は思った。

 

 公園のベンチに座っている永子は、てのひらを開いた。白い「め」の文字がふたたび目にあざやかに映る。永子は、「め」という文字の上に人さし指の先を当て、正確になぞる。「め」と声に出してみる。

 夫の負担となる人間に、自分はなってしまうかもしれない。それを「負担」と考えるかどうかの話なのかもしれないが。

 

 両手でお守りをつまんで、じっと字を見つめた。見つめすぎると、それが字であるということがだんだんわからなくなってくる。「め」という文字がほどけ、白い煙になって上昇し、空の雲と交じりあう。くらくらしてきて目を閉じる。指先の力が抜けて、ぽろりとお守りが地面に落ちた。永子はお守りを落としたことに気づいたが、目は開けなかった。

 お守りは、このままここに置いて家に帰ろう。お守りの本体は、あえてこの場所に。ここで見守ってもらう。好きな景色がよく見えるこの場所で。お守りの中の願いは、すでに自分の中に溶け込んでいる。大丈夫。自分の身体がどう変わっても、自分は自分。変わらない。

 永子は目を閉じたまま立ち上がり、記憶をたよりに、階段をそろりそろりと降りはじめた。今という時間に、身体全体で集中することの楽しさを、噛みしめていた。

 

 

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