洗濯物を取り込んでいると、どうだった、病院、と夫が思い出したように話しかけてきた。心なしかやさしい。うん、まあ、とあいまいに答えると、どうってことなかったんだろ、という表情を浮かべて、今日の晩飯何? と訊いた。鯖の塩焼き、と答えると、魚かあ、と低い声がした。床で寝そべっている長男の声である。今、小学六年生。鯖を夕食に決めたときから想像したとおりの言葉。低い鼻が動物めいて見える。おにくがいいー、と小学四年生の長女がおもちゃのラッパのような声を出した。兄の頭の横で、Tの字を作るように床に寝そべり、長くのばした髪が床に広がっている。

 ――見えなくなるかもしれないって。

 大きな声でそう言いたくなった。でも言わなかった。もうちょっとちゃんとした感じで、せめてみんな椅子に座っている状態で、落ち着いて話したい。今は話したくない。永子は鼻から短い息を吐き出した。

「洗濯物、ここにまとめて置いとくから、自分のたたんで持っていってよね」

 洗濯物を入れた籐籠とうかごを永子がリビングの床にどんと置くと、ふぁーい、と長男があくびのような返事をした。夫は、籠にすぐに近寄り、両手で籠を抱えてひっくり返した。

「おい、手伝えよ、ほら」

 長女の肩をゆすった。長女は半分眠りかけている。長男はもう起き上がっている。長男は、夫の言うことは昔からよく聞く。家の中ではいつも油断しきっているとはいえ、父という存在に一応の怖れはあるのか。

 長男は、おれのパーンツとつぶやきながら、トランクスをいったん広げて、さっとたたんだ。

 目が見えなくなっても、洗濯物を取り込むことくらいはできるだろう。目を閉じて考える。自分が取り込んで、夫が籠をひっくり返して、それぞれが衣服に手をのばして取り、たたんで持っていく。あとに残されるのは、共通の使用物であるところのタオル、布巾のたぐい。それらをたたむことは、暗い世界でもできるだろう。洗濯に関するこの一連の流れは、変えずにすむ。何枚かのタオルをたたみそこねて、そのことに気づかないまま私が立ち上がったとしても、大した問題は起きない。この床の上の平和は保たれる。タオルを置きっぱなしにしたとしても、私は糾弾きゆうだんされない。誰か、見える人が気づいて黙ってタオルを拾い上げてくれるにちがいない。万事、事もなし。

 こともなし、と永子は胸の中でひらがなにして繰り返しながら、大根の皮を剥く。うまく剥けない。指先がふるえてくる。包丁が重い。包丁とはこんなに使いにくいものだったかと思い、今、まったく間違った使い方をしているのではないか、と不安になってくる。大根から包丁を離し、手を止めた、はずなのに手が勝手にふるえて動いてしまう。ふるえを自分の意思で止めることができない。止めようとすればするほど、ふるえる。

「どうした?」

 顔を上げると、夫と目が合う。見てないようで、見ていたのだ。

「あ、えっと、別に」

「疲れたの?」

「え、うん、あ、どうかな。そうでもないよ」

「かわろうか」

「いや、いいよ。座ってて」

 夫が目を見開く。いつもなら、あ、それならかわってくれる? と気軽に手放すところだから、驚いたのだろう。

「やっぱり、なんかあった?」

 驚いた目のまま夫は言う。

「ううん……。あとで」

 目を伏せたまま言い、大根の皮剥きを続けた。たとえ少しでも声を出して話をしたら落ち着いたのか、指のふるえが止まった。視界の隅で夫がそばを離れたのがわかった。

 このまま、今日医者から聞いたことを家族に話さなければ、すべてなかったことになりはしないだろうか。そうなればいいのに、と望まずにはいられない。

 なかったことになる。なかったことになればいい。ただ強く望む。病院に行く前の今朝の自分と、今の自分とでは、なんの変化もない。苦痛もなく、大きな不具合もない。なんとなく目が疲れやすかっただけだ。夫に勧められなければ、病院にも行かなかった。知らないままの日々がもっと長ければよかった。早く知る方がいいということはよくわかっているはずなのに、病院へ行ったことを、決定が一つ下されたことを、後悔する気持ちが浮かんできた。後悔などしてはいけないという気持ちと同時に。

 

 永子が、失明の可能性があると医者から言われたことを夫に告げたのは、その日の深夜零時をまわった頃だった。子どもたちはそれぞれの部屋に引き上げ、リビングのソファーに夫が一人で座っている。点けっぱなしのテレビから、ニュースが絶え間なく流れている。半分まぶたが閉じかかっている顔に、テレビの光を浴びている。その隣にそっと座った。

 やっぱりそうなのか、と夫は言った。何も言わないってことは、何かあるってことだと思っていた、と。

「でも、そっちが言い出すまでは、しつこく聞けないだろ」

 夫の低い声を聞きながら、永子は黙った。夫は手をのばして永子の手をとると、もう片方の手をかぶせた。

「大丈夫だ、オレがずっとそばにいるから、心配しなくてもいい。大丈夫」

 永子は、穏やかな口調のその言葉を半分うれしく、半分空々しさを感じながら受け止めた。胸がもやもやとしてきた。

 大丈夫だなんて、そんなに軽々しく言わないでほしい。なんの確証もないのに。なんにもわかってないくせに。でも。でも、言ってほしい。確証がなくてもなんでも、大丈夫、と言ってもらえれば、やはり救われる気がする。

 握ってきた夫の手をやわらかく握りかえしながら、永子は揺れていた。混乱していた。

「だいじょうぶ、なの?」

「大丈夫だよ」

 夫は大きな声でしっかりと答えた。握る手に力が入る。痛いほどだ。そうね、と答えながら永子は胸が熱くなり、込み上げてくるものがあった。胸にたまっていたものを吐き出すように、するすると涙がこぼれてきた。

 言いたかったことが言えた。言いたかったことを受け止めてもらえた。ただそのことだけで、出口を失ってぱんぱんに膨らんでいた感情の袋が、ぷつりと破れた。永子の流す涙は、そこから放出される水だった。目は、膨張した感情を解放させるための放出口だった。

 夫が腕をのばし、永子のふるえる肩を抱いた。

「泣くなよ」

 肩に添えられたてのひらはあたたかく、やさしい気持ちがそこから浸透してくるようだった。夫にとって、今の自分は、泣いている、かわいそうな、か弱い妻。羽の折れた小鳥。雨の路地に捨てられた子猫。道にうち捨てられたビニール傘。そんなイメージなのかもしれない。

 それは違う、と涙をこぼしながら永子は思う。これはただの放出。気持ちの排泄行為。おしっこと同じ。たまっていたものを、元気に外に出しているだけ。だから、泣くな、なんて禁止してはいけないのだ。なのに夫は、やさしくしているつもりになっている。これは、的外れのやさしさ。的外れなやさしさは、気が楽。そう、いつもこの人は、どこかしら自分に対して的外れだった。そのことは、ずっと前から気づいてはいた。が、気づかないふりをしていた。でも、今、確信に変わった。この人は、的外れ。

 的から外れても、前に向かって矢を飛ばすことが大事だと、弓道をやっていた人が言っていた。そうだ、前に飛ばすことが大事。自分に対して、矢を前に飛ばしてくれたことは、純粋にうれしい。そう、うれしい。この人のしてくれること、話すこと、一周回ってうれしい。

 永子はしみじみと思い、首を傾けて夫の肩に身体をそっともたせかけた。

 

 

『ひとっこひとり』は全3回で連日公開予定