「高いわねえ」
丸山は、「やっぱりそうですよねえ」と言いながら、後頭部をバリバリと指で掻いた。困ったときの癖なのかもしれないが、飲食店スタッフとしてそれはアウトだろう。次の瞬間、丸山が軽く飛び上がった。
「ああ、すみません、すみません」
流し台へ向かい、石鹸を泡立て始めた。手を洗いながら丸山はケイコに声をかけた。
「料金については、僕も疑問だったんです。店長のめぐみさんと相談してみます」
「いつもコーヒーを淹れてる女の人?」
「はい。水島めぐみさん。お店のオーナーです。明日以降、連絡します。メモ用紙、そこにあるのでよかったら携帯の番号を」
「あらそう。よろしくね」
ケイコはそう言うと、身体を回して祥子を見た。
「待たせてごめんなさいね。ええっと、なんて呼んだらいいかしら」
ケイコも一緒に聞くつもりのようだ。勘弁してほしいと思ったが、考えてみればここはカフェのカウンターである。
お医者くんカフェの仕組みがだんだん飲み込めてきた。他人に聞かれてもいい話や健康や病気にまつわる雑談は、カフェ料金の範囲内。それ以上の突っ込んだ話がしたければ、個別相談として一時間一万円を払うのだ。どうしようかと迷っていると、丸山が助け船を出してくれた。
「気になる症状があるんですよね。それはあなた自身の問題ですか? それとも、ご家族やお知り合い?」
この状況で嘘をついても、丸分かりだ。ケイコは同性だし、まあいいか。
「自分です。半年ほど前からトイレが近くて困ってて」
丸山が口を開く前にケイコが身を乗り出した。
「私もなのよ。夜に何度も起きちゃうの」
丸山がケイコを手で制した。
「ケイコさんのターンは終了。今はこの人のターンです」
祥子に向き直ると言った。
「差しつかえなければ詳しく教えてください。その前に、ニックネームでもいいので……」
祥子、と答え、症状を説明した。
自分の場合、夜は特に問題ない。トイレに簡単に行けない状況、あるいはそういう状況になりそうなときに、行きたくなる。ただ、実際に間に合わなかったことはない。ドラッグストアで頻尿に効きそうな市販薬や漢方薬をいくつか購入して服用してみたが、症状は改善されなかった。
「医療機関は受診しましたか?」
「先月、泌尿器科のクリニックに行きました。尿や血液の検査、超音波検査をやってもらいましたが、悪いところは見つかりませんでした。心因性、端的に言うと、気のせいだそうです」
丸山は、うん、うんと二度うなずいた。
「よかったです」
祥子は、顔がこわばるのが分かった。何がよかったというのだ。
祥子の表情に気づいたのだろう。丸山は慌てたように頭を下げた。
「すみません。でも、症状が改善しないのに、自己判断で市販薬を飲み続けずに、医療機関を受診したのは正解だと思います。あと、腎臓や膀胱に問題はなかったわけですよね。もっと深刻な疾患、たとえば、がんとかじゃなかったのはよかった。そう言いたかったんです」
ゴマ塩あごひげの話を聞いたときには、まったくそんなふうには思わなかった。でも、言われてみれば確かにそうだ。去年の秋にあった高校の同窓会で、吹奏楽部で一つ上の代の先輩が、乳がんで闘病中だと聞いた。三十代でもがんは決して他人事ではない。
丸山は続けた。
「頻尿には、婦人科系の病気が関わっていることもあるようです」
「そっちも大丈夫です」
三十歳の誕生日に、両親が人間ドックの受診券をプレゼントしてくれた。受けに行ったところ、子宮筋腫が見つかった。良性だし小さいので手術は不要と言われたが、半年に一度、婦人科で経過観察をしている。去年の暮れ、その婦人科で、頻尿の原因になりそうな疾患はないことを確認した。
「そうなると、その先生がおっしゃったように心因性の可能性が高そうですね」
それは分かっている。知りたいのはその先、つまり対処法だ。
丸山が突然手をポンと鳴らした。
「ああ、そうか」
期待しながらその先を待っていると、丸山は突然話題を変えた。
「僕の奥さん、プロレスファンなんです」
ケイコも首を傾げている。丸山は、嬉しそうに話を続けた。
「付き合い始めた頃、僕、言っちゃったんですよね。プロレスは筋書きがあるからフェイクだろうって。そうしたら、痛みはリアルだって怒られました。それと似ているなと思って」
「えっ?」
「祥子さんの尿意はリアルなわけですよね。気のせいなんかじゃない」
論点がズレている。でも、尿意がリアルというのは、まったくその通りである。
「ええ。なのに、気にするなとか、我慢する訓練をするようにとか言われても、どうすればいいのか」
「訓練について、具体的な指示はありましたか?」
「いえ。質問したかったけど、さっさと出ていけと言わんばかりの態度なんです。一時間も待たされたのに」
ケイコが身を乗り出した。
「分かるわー。ろくにこっちの顔も見ないで、はい、次の人ってかんじでしょ」
「そうなんです」
苦手なタイプだと思っていたケイコにシンパシーを感じた。同時にゴマ塩あごひげに対する怒りが蘇ってくる。
丸山は困ったように目を瞬いた。
「そこまで困った先生は、最近少ないと思うんですが。時間に追われているという事情もあるんだろうなあ。とにかく災難でしたね」
ケイコが鼻を鳴らした。
「同業者だからってかばう必要なくない?」
憤慨するのを「まあ、まあ」といなし、丸山は続けた。
「とにかく災難でした。それはそうと、その先生がおっしゃっていた訓練ですが」
いわゆる「膀胱トレーニング」だろうと丸山は言った。初めて聞く言葉だった。丸山は説明を始めた。
頻尿にはいくつか原因がある。主な原因の一つが過活動膀胱だ。患者数は国内で一千万人以上と言われる。その名の通り、膀胱が過剰に活動する病気だという。尿が溜まっていなくても、膀胱が勝手に収縮するのだそうだ。
「急に強烈な尿意を感じるそうです。トイレに間に合わない場合もあります」
膀胱トレーニングは、この病気の治療に有効とされ、心因性の頻尿にも効果があると言われている。
「尿意を感じても、少し我慢してからトイレに行くようにするんです。最初は五分ぐらい。だんだん我慢する時間を延ばしていきます。すると、膀胱に溜められる尿の量が増えて、頻尿が改善する人もいるそうですよ。お金もかからないし、無理のない範囲で試してみたらどうですか」
「そうですね。やってみます」
ゴマ塩あごひげが、今みたいに説明してくれたら、素直に取り組めていたかもしれない。
「薬はないんでしょうか」
「うーん、そうですね。ズバリ心因性頻尿に聞く薬、というものはないようです。ただ、さっき言った過活動膀胱の薬を心因性頻尿の患者さんにも処方することはあるようです。膀胱を緩めて、尿意を抑えます」
なんだ、薬はあるじゃないか。
「それで治るんですか? だったら、なんでこの前の先生は処方してくれなかったんでしょう。ひょっとして……」
はっきり口にするのは、はばかられるが、いわゆるヤブ医者に当たってしまったのではないか。
丸山は祥子が飲み込んだ言葉を汲み取ったようだ。丸い頬を引き締めた。
「その先生が間違っている、と言いたいわけではありません。その先生は、薬を使うより、膀胱トレーニングをしたり、気にしないように、つまり、意識をそらして尿意を抑えるようにしたりすれば、祥子さんの症状はよくなっていくのでは、と考えたんだと思います。しばらくそれで様子を見て、よくならないようであれば、薬という選択も出てくるかもしれませんね」
なるほど、そういうことか。そして少し驚いた。ゴマ塩あごひげと丸山が言っていることは、実質的にほぼ同じである。違いは、邪険に扱われたか否か。その一点だ。話をしっかり聞いて、丁寧に説明してくれ、疑問に答えてもらえると、納得感がぜんぜん違う。
丸山は続けた。
「ストレスや不安が強いようなら、心療内科の受診を考えてみてもいいかもしれません」
ゴマ塩あごひげもそう言っていた。
「不安を和らげる薬を使うことで、頻尿が改善する場合もあるようです」
「心療内科はなんとなくハードルが高くて……。薬はなんだか怖いし。そもそも、ストレスや不安は頻尿の原因ではなくて結果だと思うんです。卵が先か、鶏が先か、という問題かもしれませんが」
うんと丸山はうなずき、祥子に先を促した。
「でも、ストレス解消のために、何かやったほうがいいとは思ったんです。それで今日はフィットネスジムを見学してきました。運動は苦手だし、嫌いなんですけど、そうも言ってられないので」
丸山は笑顔になった。
「大正解だと思います。素晴らしい」
ギョッとした。そして丸山の表情をうかがった。
大人が大人を手放しで褒めるなんて、何か裏があるのではないか。しかし、丸山の表情には邪気がなかった。そういう人なのだ。
そうか。ジムは、大正解なのか。
「ジムでは、ヨガのクラスとかもあるんじゃないですか?」
「そうみたいですね」
骨盤の底にある「骨盤底筋」を鍛える目的のヨガが最近流行しているようだと丸山は言った。
「頻尿の改善に効果があると言われています。祥子さんが通える時間帯にクラスが開催されていたら、ぜひ行ってみてください。そんなかんじで、しばらくやってみましょうか」
「はい」
やるべきことがクリアになった。それだけで前向きな気持ちになれる。
ケイコが尋ねた。
「ねえ、丸くん。ジムって、そんなにいいの?」
「ジムというより、運動をする気になったのが、素晴らしいです。そもそも現代人はたいてい運動不足です。僕だって体形を見てもらえば分かると思いますが、まったく運動が足りてません。たまの休みに子どもと公園で遊ぶぐらいでは、食べた分のカロリーを消費できないんだろうなあ。かといって、好きなものを食べるのを我慢するのも辛いし」
「それはダメよ。ストレスになって、かえって身体に悪いから」
「いやまあ、でも、適正体重をオーバーしている人間が、なんでも好き放題に食べるわけには……」
「まあねえ」
二人のやり取りを聞きながら、自分のターンは終わったのだなと思った。
明日、早速ジムに申し込みに行こう。トレーニングウエアとシューズも買わなければ。
半分以上残っていたアップルジュースを一気に飲み干すと、祥子は丸山に会計を頼んだ。
この続きは、書籍にてお楽しみください