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翌日の午前中は、洗濯機を二度回し、部屋の掃除を徹底的にした。このところ、週末もプレゼン会議の準備に追われていた。完全オフは久々だ。
冷凍庫で眠っていた和風パスタをレンジで温めて遅い昼食を済ませると、東中野駅のほうに徒歩で向かった。昨夜、駅の近くにあるフィットネスジムを見学する予約を取ったのだ。
トレーニングマシン、スタジオ、更衣室などを見学した後、トイレを確認した。清潔だし、個室も十分な数があった。その後、フロントのカウンターで、料金システムの説明を受けた。
今日、入会を決める気はなかった。「見学後」「断り方」で検索をかけた結果を参考に、丁寧にお礼を述べ、他施設も見学して決めたいと説明してジムを後にした。
スーパーで食料を買い込むと、東中野を南北に縦断する生活道路を北に向かって歩き始める。
さて、どうしよう。運動は苦手だし、嫌いだ。気乗りがしない。
なのに、ジム通いを思い立ったのは、ストレス解消のためだ。ゴマ塩あごひげも、「心因性の頻尿はストレスが原因の一つ」と言っていた。
真っ先に思い浮かんだストレス解消手段は、高校から大学にかけて打ち込んでいたチューバの演奏だ。腕に自信があるので、そのうち社会人向けの吹奏楽団に入りたいと思っていたのだ。しかし、すぐに気づいた。楽団に入るのは無理だ。練習はともかく、演奏会に出る自信がない。
気分を変えるために一人旅でもと思ったが、ここでも心配になるのは移動中のトイレだ。飛行機は離着陸時が心配だ。電車は新幹線ならいいが、トイレが少ない在来線は避けたい。以前、次の停車駅まで待てずに車内のトイレに行こうとしたら、故障していたり、汚れていたりで、パニックを起こしそうになった。映画鑑賞も途中で席を立ちにくい。
トイレの心配をしなくていい趣味は……。いや、そもそも自分は趣味を探しているのではない。ストレスを解消したいのだ。
ストレス解消の王道と言えば運動だろう。好き嫌いの問題ではなく、やるしかない。とはいえ、一万円もの月会費を払って、苦手で嫌いなことをするなんて。
思い悩みながら歩道を歩いていると、知っている店の前に、立て看板が出ていた。日中はカフェ、夜は軽食とアルコールを出すバーとして営業をしている。祥子は休みの日に時々このカフェを利用していた。落ち着いた雰囲気の女性バリスタが、美味しいコーヒーを淹れてくれるし、トイレもきれいなのだ。新しいサービスでも始めたのだろうか。
足を止め、看板に視線を走らせる。
お医者くんのカフェタイム。火、木、土。14時~17時。
お医者様でも、お医者さんでもなく、お医者くん……。アニメかゲームのキャラクターの呼び名だろうか。
袖看板の店名を確認した。店名はこれまでと同じ「カミナーレ」。経営者が替わったわけではなさそうだ。
祥子は立て看板の説明を読み始めた。
お好きなドリンク(1500円)を楽しみながら、カウンターの中にいる「お医者くん」と健康管理や気になる症状についてお話ししませんか? お医者くんは、医師免許を持っている医師です。健康に関するよもやま話はもちろん、簡単な質問ならその場でお答えできます。個別相談をご希望の方には、後日別料金で対応します。詳しくは店主またはお医者くんにお尋ねください。
お医者くんは、二次元のキャラではなく、実在する医師のようだ。雑談に応じ、相談にも乗ってくれるらしい。
寄ってみたい気がした。
泌尿器科クリニックで受けた検査、そしてゴマ塩あごひげによる「一分間診療」により、自分の頻尿が心因性であり、ストレスや不安が原因かもしれないのは理解したが、「気のせいみたいなもの」とか「我慢する訓練をするように」と言われても、納得できなかった。尿意は、はっきりある。気のせいではない。我慢したら漏れそうになるからトイレに行くのだ。なのに、我慢しろと言われても困る。
ストレスや不安が強いようなら心療内科を受診したらどうかとも言われた。それは変だと思った。ストレスや不安は感じている。でもそれは頻尿の原因ではなく結果だ。薬を出してほしいと頼んだが、「心因性だからねえ」と断られた。
だったら、どうすればいいのか聞きたかったが、ゴマ塩あごひげは、祥子の目を見ようともせずに、野良犬でも追い払うように、ドアのほうを手で指したのだった。思い出すだけでも、腹が立つ。
ガラス張りの店内をのぞいてみたところ、ふっくらとした体形の男性がカウンターの中にいた。髪を全体的に短く刈り込み、黒っぽいカフェエプロンをつけている。ほぼ直立不動の姿勢で、カウンターの一番奥に座っている初老の女性の話に耳を傾けている。
店には四人掛けのテーブルも二卓あるが、いずれも空席だ。いつもの女性バリスタも見当たらなかった。
自分に注がれている視線を感じたのだろうか。お医者くんと思しき男性が突然首を回して祥子を見た。弓形の太い眉を上げたかと思うと、しゃっちょこばった様子で会釈を送ってくる。
無視するのも申し訳ない気がした。会釈を返して立ち去ろうとしたところ、男性が笑顔になった。はねるような足取りで、カウンターの中から店の外に出てくる。
年は四十前後といったところだろうか。身体ばかりか、頭の形も顔のパーツも丸っこい人だった。開けたドアを身体で押さえながら言う。
「寄っていきませんか? 今、患者さん、じゃなくてお客さんは一人だけなので」
興味はあるけど、今日は無理だ。祥子は膨らんだレジ袋を少し持ち上げて見せた。
「鶏肉を買ったので」
断ったつもりだったのに、お医者くんは、「さあ、どうぞ」と言ってドアを大きく開けた。
「鶏肉は足が早いから心配ですよね。すぐに冷蔵庫にスペースを作ります」
よく分からない人だ。でも、一つだけ確信できた。この人は、あのゴマ塩あごひげのように、患者をぞんざいに扱ったりしない。
祥子が渡した鶏肉のパックを受け取ると、男性は、カウンターの奥にある厨房へと引っ込んだ。
祥子は先客の女性と席を一つ置いて座った。戻ってきたお医者くんは、お冷やの入ったグラスを祥子の前に置いた。
「注文の前に」と言って、エプロンのポケットから、「医師資格証」と書かれたクレカ大のカードを取り出し、見せてくれた。
名前は丸山賢太。昭和六十二年三月生まれだから、祥子より六つ年上の三十九歳だ。
どこかの医療機関に勤めているのだろうか。
「丸山先生は……」
尋ねようとしたら、丸山に遮られた。
「丸くんと呼んでください。カフェなので。ただし、医師としての守秘義務は守ります。カフェのスタッフはもちろん、他のお客さんも、店内で聞いた話は口外しないルールでやっています」
守秘義務やルールはもっともだが、丸くんは微妙だなと思いながら、丸山が出してくれた手書きのメニューを見た。ソフトドリンク、紅茶とコーヒー。食事は出していないようだ。
「コーヒーをお願いします。えーと、豆ですけど……」
この店は、三種類の豆を置いている。祥子は、フルーティーなものが好みだった。
丸山は申し訳なさそうに頭を下げた。
「コーヒーはまだ練習中なんです」
それならしかたない。アップルジュースを注文した。丸山は冷蔵庫から、紙パックに入ったジュースを取り出すと、不器用な手つきでグラスに注いだ。ストローを添えて、祥子の目の前に置く。
待っていたかのように、先客が口を開いた。
「丸くん、続けてもいい?」
「あ、はい。ケイコさん、お待たせしました」
近くで見ると、彼女が着ている服は、アジアか中南米の民族衣装のようだった。髪はボブカットのグレーヘアだ。ちょっと癖のある人なのかもしれない。よく通る声で彼女は言った。
「そんなわけで、嫁にガツンと言ってやってほしいのよ。手作りおにぎりを食べたぐらいで、病気になんかなるものですか」
丸山は、腕を組んでうん、うんとうなずいた。
ケイコは、子どもに与える食事を巡ってお嫁さんと対立しているようだ。どこの家庭でも似たようなトラブルがあるんだなと思いながら、ジュースを飲んだ。
丸山は、時折り相槌を打ちながら、ケイコの話を聞いていた。医療相談というよりは、嫁に対する愚痴っぽい。
ケイコの話が一段落したところで、丸山は言った。
「分かりました。お嫁さんと話してみましょう」
「助かるわ。ところで個別相談っていくら? 他のお客さんの前で嫁を非科学的だと糾弾するのは気が引けるでしょ。他の人の目がないところで、三人で話したいの」
「それが……。一時間一万円なんです」
丸山が遠慮がちな口調で言う。ケイコがムスッとした表情になる。
『お医者くんカフェ』は全4回で連日公開予定