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 立ち上がろうとしたときだ。海野が太い指でくびきながら、井岡に声をかけた。

「とっくに定刻を過ぎてるぞ」

 井岡は狼狽ろうばいした様子で林に尋ねた。

「林くん、どう?」

 林は顔を上げ、のんびりと言った。

「マニュアルが解読不能なんです。自動翻訳ソフトに丸投げしたんじゃないかな。粗悪な海外製品にありがちですよね」

 今の発言は問題だと思いながら、祥子は海野の横顔を盗み見た。案の定、ふんで歪んでいる。

 空気が緊迫したせいか、尿意はいよいよ強くなっていた。タイミングとしては最悪だが、背に腹は替えられない。祥子は静かに腰を上げた。井岡と目が合ったので、「中座して申し訳ありません」という意味を込めて会釈をしたところ、井岡がホッとしたような表情を浮かべた。

「悪いね、大場さん」

「えっ」

「君は一昨日、リハをしてたから大丈夫だよね」

 林と発表順を替われと言われているようだ。

「そうか、そうか。大場はやる気満々だな。おおいに結構。さっそく頼む」

 海野にそう言われては、やるしかない。

 颯爽さつそうとプレゼンを始めれば、評価は確実に上がる。社長がその場で祥子の案を採用してくれる可能性だってありそうだ。

 しかし、演台へ向かって歩き始めるや否や、頭の中で言葉がぐるぐると回り始めた。

 ――トイレ、トイレ、トイレに行きたい。今すぐ行きたい。

 これは気のせいだと自分に言い聞かせながら、自分のPCとホワイトボードを接続した。

 さあ、始めよう。そう思って口を開きかけたとき、海野の隣に座った林が、ペットボトルの水を豪快に飲み始めた。水が喉を落ちる音が聞こえてきそうだ。

 次の瞬間、強烈な尿意に襲われた。祥子は自分の顔が歪むのが分かった。無理だ。とてもじゃないけど、プレゼンなんかできない。

「すみません、中座させてください。すぐに戻ってきます」

 誰にともなく言うと、うつむきながら、小走りで会議室を出た。皆の視線が全身に突き刺さるようだった。海野が怒鳴り声を上げた。

「どいつもこいつもたるみすぎだ!」

 トイレへと急ぎながら、唇をみ締めた。

 休日返上で都内の主なスーパーをはしして自主リサーチを行った。昨日だって、帰宅した後、午前二時まで資料をブラッシュアップしていたし、今日は普段より三十分早く出社した。これ以上ないほど意気込んで会議に臨んだのだ。なのに、たるみすぎだなんて言われたらあまりに救われない。目の奥から熱いものがこみ上げた。でも、涙より先に出したいものがある。

 祥子はトイレへ急いだ。

 

 昼休みに入ると、経理部に所属する橋爪はしづめ沙紀さきとエレベーター前で落ち合った。社内でたった一人の女性同期である沙紀は、息子が四月から保育園に入ったのを機に育休を終えて復職した。特別仲がいいわけではなかった。しかし、廊下で顔を合わせたとき、週に一度ぐらいは外食したい、付き合ってくれと言われたので、金曜は二人で外にランチに行っている。

 エレベーターに乗り込むと、祥子は沙紀に尋ねた。

「今日は何食べる?」

 間髪を容れずに沙紀は答えた。

「辛いもの! 家では息子に合わせて薄味のものばかり作ってるから、刺激に飢えてるんだ」

「それならせん料理は? 去年できたお店があって、麻婆豆腐が美味しいよ」

「うーん、本格中華はパス。花椒ホアジヤオだっけ? しびれる香辛料が苦手なんだ。油がキツいのもちょっと」

「じゃあ、タイ料理とか? 橋爪さんが気に入ってた店、まだあるよ」

「あそこは並ぶよね」

 エレベーターを降り、ビルの外に出ると、青空が広がっていた。日差しはそこまで強くなく、風は爽やかだ。

 沙紀は、「どうしようか」と言いながら祥子の顔を見上げた。小柄で華奢な沙紀は、女学生のように見えた。

 それはともかく、辛いものか……。

 中華、タイ料理がNGなら、残るはカレーぐらいだろう。近場のカレー店にはコスパ重視の全国チェーンしかない。

 キッチンカーはどうだろう。歩いて五分ほどの高層オフィスビルの前に、人気のスパイスカレーを出すキッチンカーが来ていると聞いたことがある。天気もいいし、公園のベンチで食べたら気持ちがよさそうだ。

 提案すると、沙紀は不満そうに頬を膨らませた。衛生面が気になるという。しかし、代案を考えるのも面倒だと思ったのだろう。

「子どもに食べさせるわけじゃないし、たまにはいいか」

 やれやれと思いながら、祥子は歩き始めた。

 

 空いているベンチを見つけ、二人で並んで腰を下ろした。

 人気店だけあって、その店のバターチキンカレーは絶品だった。付け合わせのアチャールも、彩り豊かで味もいい。南アジアで人気の漬け物だ。沙紀も気に入ったようだ。「こういうのが、食べたかったのよ」と言いながら、スプーンを口に運んでいる。

「そういえば祥子ちゃん、今日はプレゼン会議だったよね。どうだった?」

 チキンを飲み込むと、祥子は作り笑いを浮かべた。

「今回は無理っぽい。準備不足だったから、しかたないかな」

「ふーん、そうなんだ」

 本当はそうじゃない。トイレに行っている間に、林とは別の社員のプレゼンが始まっていた。祥子は彼の次に演台に立った。社長の海野が不快感をあらわにしているものだから、プレゼンはボロボロだった。発表を終えると同時に海野は「準備不足。却下、却下」と吐き捨てた。

 案自体は絶対に悪くなかったと思うのだが……。

 紫キャベツのアチャールを噛み締めながら、ふと思った。沙紀に悩みを打ち明けてみようか。

 迷っていると、沙紀がため息をついた。

「実は昨日、息子が保育園で熱を出してね。大事な会議を抜け出してお迎えに行かなきゃならなくて……」

 一昨日の夜、夫に「明日は決算関係の重要な会議がある」と伝え、保育園から緊急連絡が入ったら、対応してもらう約束をしていたという。保育士にもその旨を伝えておいた。

「なのに、旦那が電話に出ないもんだから、私に連絡が来たの。父親なのに無責任すぎると思わない? 急な商談が入ったらしいけど。そもそも、家事だって半々に分担する約束だったのに、いつの間にかほとんど私がやってる。もう、くたくたよ。なのに、明日から旦那の両親が泊まりで遊びに来るんだって。勝手に旦那がオーケーしちゃって」

 また愚痴かと思ったが、「大変だね」と話を合わせた。

「しかも、義母は危なっかしいの。ずいぶん前のことだけど、朝食の準備をお願いしたら、息子に食べさせるヨーグルトにはちみつを入れたのよ。一歳未満にはちみつはダメだって常識だよね」

 カレーを食べ終わっても、沙紀の愚痴は終わらなかった。相当ストレスが溜まっているようだ。

 それでも少し羨ましかった。彼女は、自分が選んだ人生を前に進んでいる。それに引き換え、自分はどうだ。尿意に振り回され、仕事すらままならないなんて、とことん冴えない人生だ。

 スマホの時刻表示をチェックした。昼休みは、もうすぐ終わる。沙紀に話を聞いてもらう時間はなさそうだ。

 祥子は笑顔を作ると、沙紀に声をかけた。

「そろそろ戻ろうか」

「えっ、そんな時間?」

 沙紀は驚いたように腕にはめたスマートウォッチを見た。

 

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