1(承前)
長野県北部に位置する架純学園は、うっそうとした森を切り開いたところにある。広さは敷地十万平方メートル、東京ドーム約二個分の広大な敷地の学校だ。森には小川が流れ、そこからひいた水が学園を四方に囲む堀に流れている。幅五メートル深さ二メートルの堀は体育棟を除く敷地を完全に囲んでいる。さらに堀の内側は高さ四メートルのレンガ塀で囲まれている。
学園へのルートは一本で、街の中心部から車で三十分かかる。長い白樺並木を抜けるとようやく学園が見えてくる。堀に架かる幅十メートルの橋を渡り、学園唯一の出入り口である鉄製の重々しい門扉を潜ると、解放感ある図書館棟が目に入る。一階がカフェスペース、二、三階が図書館の建物は全面ガラス張りの波打ったデザインで、学園の象徴的建物だ。図書館を挟むようにして、東に木造の講堂、西に女子寮が建つ。これらの後方に横長の校舎がある。ヒノキの匂いが漂う三階建ての校舎は一直線に長い廊下が特徴的だ。校舎の裏手には中央から東にグラウンドと西に野球場が別にあり、グラウンドの北に野球部寮、男子寮、柔剣道場が並んでいる。
校舎二階東から延びる連絡通路は、堀を越えて東の森側に建つ体育棟とつながっている。
体育館に併設されているのが、今、明里がいる屋内プールだ。プールへの行き来は、基本、校舎から連絡通路を渡り体育館へ、そしてプールへという動線だ。体育館南側にはテニスコートがあり、上空から見ると体育館とプールは鍵括弧の形の建物だ。体育館とプールにはそれぞれ南側に出入り口があるが、ここを利用するためには正門から出て堀を渡って森の小径を抜けていく必要がある。遠回りになるので、学園関係者はほとんど利用しなかった。
練習試合や地区大会が催される場合に他校の生徒や保護者が使用するくらいだから、普段は体育棟南側とプールの出入り口は施錠されていた。
これらの施設がメイン敷地の外にあるのは、学園創立時にはなかったものだからだ。現在の図書館東側の講堂が創立当初は体育館だった。珍しい木造の体育館は主に長野県産の木材が使われ、見た目がとても美しかった。外装はもちろん内装も改修工事をしていないため、講堂とは名ばかりで未だに体育館として使っていた当時のままだ。
生徒の要望で部活が増えて新たな体育館が必要になり、学園側はすぐに動いた。体育館と同時にプールも作られ、連絡通路が増設された。
架純学園は全寮制高校のため、休日を除けば生徒が校外に出る機会は対外試合か課外活動の時くらいだった。外部からの出入りは通勤組の教師、学生寮とカフェで働く調理師十数名、食品・日用品・学用品の搬入を行う業者だ。
各寮一階には食堂があり、生徒たちはそこで食事をする。昼と放課後は図書館棟のカフェも利用できる。また、男子寮と女子寮は五階建てで野球部専用寮は三階建てだ。各フロアにひとりずつ教師が住み込み、学生の生活、学習面でのサポートを担っている。明里もそのうちのひとりで、就任した四月から女子寮二階に住んでいる。
生徒は二人一部屋で、部屋にはベッド、机、クローゼットが設置されている。教師の一人部屋は、バス、トイレ、小さなキッチン付きの2Kだ。寮に住み込むと手当てが出るので、家賃と食費はかからないに等しい。むしろプラスだ。大学の奨学金返済の必要がある明里には願ってもない待遇で、特に女性教師の志願者が少ない寮住み込みは学園側も歓迎だった。学園の立地を考えると通勤手段は限られ、街中心部からだと時間もかかるが、それを考慮しても学園内に住むという選択はほとんどの教師が倦厭する事案で、プライベートな時間を持てないというのが一番の理由のようだった。
寮一階には事務室、食堂、大浴場があり、寮の責任者は一階の部屋を使う。女子寮の責任者は体育教師の遠藤夕子だ。
二階以上のフロアの中央にトイレと洗面台があり、洗濯機・乾燥機・アイロンも複数台置かれている。申し出れば制服のクリーニングも業者に引き渡してもらえた。必要な日用品は事務室で購入できたし、明里は寮生活で不便を感じなかった。
野球部顧問の柘植は、野球部寮で暮らしている。
柘植が言う。
「たしかに、外部との接触は少ないから一見安全なように思えるけど……万が一学園内で発症者が出たら感染は避けられないし、むしろ閉鎖的な環境で感染爆発する」
柘植に言われて、明里は初めて学園の脆弱性に気づいた。
「明里先生は、架純学園がどうしてこういう特殊な立地になったのか知ってる?」
明里が周囲から聞いていたのは、学園の評判と――
「学園長の亡くなった奥さまのご実家がたくさん不動産をお持ちで、その一部を分けてもらったとか。だから、学園長のお義父さまがこの学園の理事長なんですよね」
「うん……じゃあ、奥さんがどうして亡くなられたかは?」
「いいえ。若い頃に死別されたとだけ」
「学園長と奥さんは、県内の同じ公立高校で教師をしていた二十代の時に結婚されたんだけど、学園長は私立高校に転職して、奥さんが残ったらしいんだ。その公立高校でインフルエンザが流行ったらしい。おそらく奥さんは学校で感染して重症化した。その後は……あっという間だったそうだよ」
「インフルエンザで……」
「学園長が奥さんを亡くした辛い経験から『感染症や他の危険なものから生徒と教師を守れる環境を創りたい』と志して創ったのがこの学園なんだ」
「……知りませんでした」
「感染症だけじゃない。校内に侵入してきた人物に危害を加えられるっていう事件もある。これはぼくの考えだけど、学園長がこの要塞みたいな全寮制の学校を創ったのは、在学中の三年間だけでもより安全な環境で生徒を過ごさせたいと思ったからじゃないかな」
明里の胸に、ふと「いじめ問題」がよぎった。集団で過ごす環境で、いじめ、暴力、感染症の蔓延を完全に防ぐことはできない。他人と生活する限り対立はあるし、なんらかの病気が流行っても不思議はない。現につい最近、柔道部において「いじめ」があったではないか。
学園長が目指す理想はだれしもが切望することだ。だからこそ架純学園は素晴らしい環境で文武両道だと全国的に人気が高い。おそらく……皆、見えていないだけで、理想と現実の狭間には、わずかだが決して陸続きにならない深いクレバスが存在するのではないか。
明里はそれ以上考えるのを止めた。
危険なものから生徒を守るという点で、架純学園は環境も志も他校にはないものを持っている。それで十分だ。
「学園長の志は素晴らしいと思います」
明里は、あるものを思い出していた。学園長が常に着けているシグネットリングだ。左手薬指にはめた指輪を近くで見た時、学園の校章が刻印されているのがわかった。右上に小さな金星が輝く校章は、流れるようなKを薄青色のかすみ草が囲んでいる。
ふたつの意味を持つ「K」。
「それに、ロマンチストですよね。たしか、亡くなった奥さまの名前である架純を学園名に冠したとか」
明里が言うと、柘植はこれ以上ないほど柔らかな表情を浮かべた。
「美しいよね」
美しいのは柘植の心だと明里は思う。生徒と真剣に向き合う姿勢や、批判したり見下したりしない柘植の心は美しい。
『期待は全員にしている』野球部員を指して柘植は言った。野球部部長である鈴木教頭のあからさまな贔屓の態度を見れば、周囲から大槻翔への期待が高いのは一目瞭然だ。それでも、柘植は入部したての一年生と翔に同等の期待を抱いている。
野球部監督の百瀬は若くして指導には定評があるようだが、生徒からの信頼が厚いのは柘植の方だ。それは同じ学園にいればわかる。
プールを見ていた柘植がこちらに顔を向けた。
「長話をしてすみません。感染症のせいで春の大会が中止にならなければいいですね」
会釈を交わし、一度はその場を離れようとした明里だったが、自身を鼓舞するように両手を握り、思い切って言った。
「柘植先生と話すと、いつも元気をもらえます。だから、お話しできて嬉しかったです」
柘植の反応を見るのが怖くて、明里はさっと背を向けた。恥ずかしさで消えてしまいたくなっている明里の背中に、柘植の声が届く。
「ぼくも」
思わず両手を胸の前に組んでいた明里は、足を止めた。
「ぼくも、明里先生と話すと元気になります」
嬉しさと恥ずかしさで、明里は足早にその場を離れた。
2
柘植馨と梨子田明里、ふたりの教師のやり取りを、陸上部三年生の五明瑞月は水中から途切れ途切れにだが、窺っていた。無視しようにも梨子田先生の浮かれぶりがプールサイドから光線みたいに溢れ出ているせいでトレーニングに集中できない。ただでさえ爆弾を抱えた左足を庇う泳ぎで神経を使っているのに、いい大人が小学生レベルの会話をしていることも気になり、集中力を削ぐ原因になっていた。
瑞月は泳ぐのを止めて水中から顔を出した。
背後から声をかけられた梨子田先生がゆでタコ並みに顔を赤くしている。声をかけた柘植先生は落ち着いた様子でなにも意識していない。それは授業中によく見る顔、生徒を教える時の顔、子どもを諭す時の顔だ。瑞月に恋愛経験はほとんどないが、これが恋する男の顔でないことくらいは判別できる。
梨子田先生の好きなひとが柘植先生だということは四月の新任紹介の際にわかった。
講堂の壇上で、緊張を隠せない梨子田先生は命綱を握るみたいにマイクを両手でしっかりと握っていた。挨拶を済ませ隣の教師にマイクを渡した後、しばらく俯き加減だった梨子田先生がふと顔を上げた。頬を紅潮させてどこかを見つめるその様子は「恋する者ならでは」の顔だった。梨子田先生の視線の先を辿った瑞月は驚いた。彼女が見つめていたのは女子生徒に「学園一のイケメン」と言われている化学教師の百瀬蓮ではなく、いいひとではあるけれど地味な外見の柘植先生だったからだ。
泳ぎを再開した瑞月は左足首に違和感を覚えた。すぐに泳ぐのを中断してコースの端に寄る。
「瑞月、ファイト!」
水音を縫って声援が飛んできた。休憩中なのか、プールサイドに座った同じクラスの小泉准斗が拳を突き上げている。瑞月の無反応にも臆せず、准斗はさらに声を張り上げる。
「瑞月ー、ファイトー!」
瑞月のことは教師もクラスメイトも五明と呼ぶのに、准斗は繰り返し瑞月と下の名前を呼ぶ。そのたびにウェーブのかかったミルクティー色の髪が勝ち誇ったように揺れる。
水泳キャップを被りたくない、とごねる准斗の口の達者さ。それを窘められない梨子田先生の不甲斐ない態度。瑞月はどっちもどっちだと思う。梨子田先生は、准斗のことを明るく人懐こい子だと思っているのだろう。もしかしたら、自分を慕ってくれるかわいい生徒だと肩入れしているのかもしれない。
准斗の成績はあまりよくなかったが、野球以外のスポーツもそつなくこなした。
同じクラスで過ごすようになって三年目、時々悪ノリする陽キャくらいにしか思っていなかった准斗のことを「苦手だ」と認識したのは梨子田先生の初めての授業がきっかけだった。准斗が瑞月と下の名前で呼ぶようになったのもその授業からだ。
「好きなように描いてね」梨子田先生は言った。
瑞月は猫の絵を描いた。猫が好きだったからだ。全寮制の架純学園ではもちろんペットなど飼えないし、これまで家で猫を飼った経験もないが、瑞月は猫の自由な感じが好きだった。だれにも媚びず、一匹でもたくましく、我がある振る舞いをする猫が羨ましく見える時もあった。
「五明は猫好きなんだ」
キャンバスを覗き込んだ准斗が言った。美術教師にならいざ知らず、描きかけの絵を、しかも断りもなく勝手に見られるなんて心外だった。瑞月が抗議のために口を開きかけた時、准斗はすでに次の獲物を捕らえていた。
「熊谷、こういうのがタイプなの?」
キャンバスに向かう熊谷勇人はビックリ顔で准斗を見上げた。
「ふうん」
准斗は意味ありげな視線を瑞月に送ってくる。周囲の生徒が何事かとざわつき始める。満足そうに微笑みながら、准斗は言った。
「熊谷は瑞月のことが好きらしい」
初めて瑞月の名を口にした後、准斗は掴んだキャンバスをこちらに向けた。
黒のエンピツで描かれた人物は、彼のキャンバスの中で凜としている。切りそろえられた前髪から覗く目は強くしなやかだ。生意気そうにつんと上を向いた鼻先とは反対に、かすかに上がった口角が優しげだ。ポニーテールにした長い黒髪が肩にかかって波打っている。明らかに瑞月だ。
(猫みたい)
その絵は瑞月自身が憧れるしなやかな強さと美しさを内包していた。
瑞月の後ろにいた降旗茉莉が席を立ち、隣にやってくる。彼女は勇人のキャンバスに目を向けると、
「意外」
と囁くように言った。騒がしさの増す教室で、勇人は大きな身体を縮めて視線を落としている。やっと騒ぎを鎮める気になったらしい梨子田先生が、席に着くよう促す。
准斗からキャンバスを奪還した梨子田先生は、勇人へ返還する際、
「細かく描けているわね。でも、もう少し明るさを足した方がいいかな」
と言った。瑞月は的外れなアドバイスだと思う。「明るさを足せ」つまり、「暗い」と言いたいのだろう。あの絵のどこに暗さを感じるのか? 黒一色だから? それとも、描かれているのが、
(わたしだから?)
冷やかしの言葉を次々に投げかけてくるクラスメイトに、勇人はますます萎縮している。いじられキャラだが寡黙な人物で、瑞月は入学してから彼と会話を交わした記憶がない。
「なんだよ、熊谷。瑞月のことが好きなのか。だったらそう言えばいいのに」
准斗に肩を組まれた勇人は、
「……好きじゃない」
と、消え入りそうな声で言った。准斗は目を丸くしている。
「だって『好きなものを描く』って言われて描いたのがこれなんだから、瑞月のことが好きなんだろ」
勇人は梨子田先生を見上げた。
「『好きなように描け』、そう言いましたよね? 梨子田先生」
唐突な問いに梨子田先生は戸惑っているようだ。席に着くように諫めていた手が落ち着きなく胸の前で組まれる。
「じゃあなんで、好きでもない瑞月のことをわざわざ描いたわけ?」
准斗が訊ねると、クラス中が同意するような声を漏らして勇人に注目した。勇人は小さな声で、
「見えたのが五明さんだったから」
と答えた。束の間の静寂後、教室が笑い声でどっと沸いた。准斗など涙を流してひいひい笑っている。驚いたことに教師の梨子田先生も笑っている。
さすがの瑞月もこれは堪えた。ひとりでいても平気だし、無視されるのも慣れっこだった。軽口を叩かれても文句を言われてもスルーすることはできた。でも笑いものにされるのはキツイ。
「おま、おまえ、失礼すぎるだろ。たまたま視界に入ったからってわざわざ瑞月を描くなんて」
まだ笑い足りないらしい准斗はバンバンと勇人の肩を叩いている。
「あれか。苦手を克服する的な。だからわざと嫌いなものを選んだのか」
すぐそばで「ふっ」と鼻で笑うのが聞こえた。隣に立つ降旗茉莉が漏らしたものだった。チアリーディング部のリーダーで学園の女神と称えられている彼女には、この状況がおかしなものに映るようだ。
ここで初めて、瑞月は勇人と目が合った。瑞月はいたたまれなくて目を逸らそうとしたが、教室の中で彼だけが笑っていないことに気づいた。黒縁眼鏡の奥の目は、謝罪も同情もなく、純粋な光をたたえている。
「嫌いじゃない」
勇人のひと言でクラスがしんとなる。
「え? なに?」
准斗の顔にはまだ馬鹿にしたような笑みが残っている。勇人は瑞月から目を逸らさず、これまでで一番大きな声で言った。
「嫌いじゃない」
今度こそ教室が静まり返った。
「好きなように描く」という、一見自由で「理解ある教師が出すテーマ」に思えるお題を出した梨子田先生が、もっと早く事態を収拾していたら。梨子田先生が准斗を特別視せず、きちんと注意できていたら。
准斗はみんなが納得するような画を描く。瑞月が彼の絵を覗いたわけじゃない。彼が自ら見せびらかしたその絵は、だれか有名な画家の模倣みたいだった。巧いが、心に響くものがないうわっ面だけの絵だ。美術の専門である教師が「明るさが足りない」と評した熊谷勇人の絵は、瑞月の心を動かした。
課題終了後、瑞月は初めて勇人に声をかけた。
瑞月の願いに、彼はおどおどしながらも応じてくれた。
勇人からもらった絵は、今、寮の部屋の壁に飾ってある。その絵は鏡を覗き込むより何倍も自信を持たせてくれた。こんな風になりたいと前向きにさせてくれた。
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