2(承前)
プールでは准斗がしつこく嫌みな声援を送ってくる。
同じレーンでは、野球部の大槻翔と古平と呼ばれた後輩が一生懸命歩いている。
遠藤先生とのやり取りで准斗が告げ口した内容は、准斗自身が普段口にしていることだった。
ひととの距離の取り方が准斗は一方的なのだ。あれは、優柔不断な笑みを浮かべるだけで意見しない古平も望んでいる距離の詰め方なのだろうか?
そもそも准斗はどこを怪我しているのだろう? 怪我をしたとの話も聞かないし、最近学校で不自由そうにしている様子も見たことがない。
(周りには気づかれないようにしているだけかもしれないし)
(わたしのように)
いつまでもうるさい准斗からの声援を止めるために、瑞月は仕方なく片手を挙げた。やっと応えてくれた、と騒ぐ准斗の前を翔が通り越してゆく。古平が必死に後を追う。
(大槻もどこか怪我していたっけ?)
一旦通り過ぎた准斗のところへ翔が引き返す。なにやら話しかけると、再び後輩と歩き出す。准斗は仕方ないというように水中ウォーキングを再開した。厄介だった准斗の声援がやっと止んだ。
トレーニングを終えた瑞月はプールサイドへ上がった。左足首を庇いながら泳いだせいで背中が張っている。陸上部の顧問がこちらを見ているのに気づき、瑞月は歩き方がぎこちなくならないよう注意する。
一年前、瑞月は春の大会直前に足首を痛めた。瑞月は無理してでも大会に出場しようと思っていたが、顧問に強く止められた。ここで無理をする必要はない。次もあるから、と。忸怩たる想いで他の選手が大会で走るのを見つめた。幸いに怪我は数週間で治ったが、二度とこんな悔しい想いはしたくないという想いがよりハードな練習へと瑞月を駆り立てた。ところが、夏の大会が近づくにつれ、治ったはずの左足首が痛みだした。あり得ない。完治したはずだ。前の大会に出られなかったことが激しい後悔となって、また出場できなかったらという不安が痛みとなって表れているだけだ。自分に言い聞かせたが、足首の痛みはその後も大会が近くなるたびに必ず起きた。結果、どの大会でも痛みのせいで思うような成績が残せなくなった。
病院で再診してもらおうとは思わなかった。病院にかかるためには顧問か担任、または女子寮責任者に申し出る必要があった。瑞月は足首の問題をだれにも知られたくなかった。もし先生たちに知られたら、また出場を止められるかもしれない。それに、もし実際病院にかかって本当に問題があったら。もう走れないと言われたら。
(死ねと言われるようなものだ)
走っている間は余計なことを考えずに済んだ。瑞月は三人家族だったが、両親は瑞月が物心ついた頃にはすでに不仲で、夫婦らしい会話をしているのを見たことがない。瑞月の学校関連のことを事務的に報告、対応するだけで、同じ家に暮らす実の親子のはずなのに三人は他人のようだった。どんよりした家庭の空気から逃れるために、瑞月は小学校高学年になるとよく家を空けた。公園のベンチで、河原で、寂れた神社の境内で。瑞月はひとり過ごした。下校時刻をだいぶ過ぎて家へ帰っても、どんなに辺りが暗くても、両親は瑞月を叱ることも心配することもなかった。
ある時、帰り道で雨が降りだした。最初は小雨だったから、瑞月は歩いた。そのうち雨粒が肩で弾けるようになった。歩調を速めた。傘をさすひとが増えた。小走りになった。世界が雨音で満たされる頃、瑞月は駆け出した。息が切れても、足と肺が悲鳴を上げても走り続けた。走って走って、走り続けた。
通り雨が止んでも、足を止めなかった。ずぶ濡れのスニーカーが水を撥ね上げる。奇異なものでも見るような顔をした人々とすれ違う。皆、笑いながら走る瑞月を見ている。
家の前で初めて立ち止まった。
いつもは、家に着くと生ぬるい不安の塊が込み上げて、次に家を出る時まで喉元を塞いでいた。でも、今は家を見ても、玄関を潜っても、両親と同じ空気を吸っても憂鬱じゃない。走った後の爽快さが全身に漲っている。
それから瑞月は走るようになった。走れる距離がぐんぐん延びた。両親といる苦痛の時間が多少マシになった。もっと走った。中学で本格的に始めた陸上競技は、もちろん長距離を選択した。初めての地区大会で優勝した。中学三年生の時には北信越大会で新記録を出し、全国大会にも出場した。架純学園は申し分のない進学先だった。陸上競技の強豪校であり、なおかつ全寮制である。瑞月が選んだ高校を、両親は反対も賛成もしなかった。淡々と入学手続きを進めるだけだった。ひとり娘が寮に入り、二年間ほとんど家に帰らなくても、会いたいのひと言もなかった。
瑞月にとって、走ることは生きることだった。
プールでは、まだ水泳部の部員が泳いでいて、八コースでウォーキングしていた生徒たちはすでに水から上がっている。陸上部顧問の前を通る時、瑞月は呼び止められた。
「話があるから、着替えたら戻ってくるように」
いよいよ足のことがバレたかと、瑞月は暗澹たる気分で更衣室までの廊下を歩いた。
更衣室の扉が勢いよく開かれる。出てきたのは降旗茉莉で、小さな顔によく目立つ大きな目をさらに見開いている。
「驚かさないでよ」
扉の向こうにだれかいると予想していなかったのか、茉莉はひどく驚いているようだ。心なしか顔色が悪く見える。
水着姿で水泳キャップとセームタオルを持った茉莉は、瑞月がプールにいる理由を探るような顔で、
「今日は陸上部のトレーニング日か」
と言った。
隣り合った男子更衣室から濡れた髪の翔が出てくる。翔の背中にぶつかりそうになった准斗があわてた様子で足を止める。准斗の隣にいる古平は、肩に置かれた腕が重いのか困ったような顔で笑っている。
「お、茉莉じゃん。チアの練習終わったの?」
准斗は後輩から腕を離して前に出ると、見えないポンポンを両手で振った。
「うん。だから自主練に来た」
「さすがだね。スタイルいいのはそのせいか」
ポンポンを振っていた腕を組むと、准斗はまじまじと茉莉の全身を眺めた。いやらしさより好奇心が勝った目つきだったが、あんな風に見られたらいい気はしないはずだと瑞月は思う。
案の定、茉莉は持っていたタオルでさり気なく身体の前面を隠した。それより一瞬早く、翔が准斗の前に歩み出た。准斗は壁になった翔から顔を出し、
「瑞月もいたのか」
言いながら、値踏みするような目を向けてくる。
「茉莉の隣に立たない方がいいよ。なんて言うか――」
突き出した手で体のラインをなぞる仕草をした後、
「すごく貧相に見える」
と言い切った。瑞月は大してショックを感じない。准斗はこういう無神経な奴だし、茉莉と比べたら貧相と表現されても仕方ない体形であることは自覚している。
「准斗。失礼すぎる」
茉莉が注意する。
「わたしは、五明さんみたいな引き締まった身体が羨ましいよ」
「引き締まってるっていうか、出るとこも大して出てない貧相な身体だよね」
瑞月の身体を『貧相』と表現するのがいたく気に入ったらしい准斗は、しつこく同じことを繰り返す。
「古平だってそう思うだろ? タコ先生みたいなごつい身体や、瑞月みたいな貧相な身体より茉莉の方がいいに決まってるよな?」
古平は困った顔をさらに困らせている。
野球部員三人に塞がれた出入り口の向こうから声がした。
「ごめん、通して」
准斗が声に応じる様子はない。むしろ後輩の肩を組み、出入り口をもっと狭くした。
厚みのある手が戸口にかけられる。声の主である熊谷勇人は、幅のある身体を隙間から通そうと突き出たお腹を引っ込めた。それを見た准斗は笑いを堪えている。
プールから上がって着替え終えたばかりなのに、熊谷勇人は顔中汗びっしょりだ。やっとのことで更衣室から脱出した勇人は深々と息を吐き出した。その拍子にお腹の贅肉がベルトの上に載った。勇人のお腹から目を逸らさない准斗は、もはや隠す気もないらしく、肩を震わせて笑っている。瑞月はうんざりした気分になる。
「なあ、古平。水中をたくさん歩いて腹減ったろ? これ喰えよ」
言うや否や、准斗は熊谷勇人を突き飛ばした。その勢いで勇人の顔から眼鏡が飛んだ。顔中に噴き出していた汗が辺りに飛び散り、間近にいた准斗が避けるように顔を背けた。
倒れ込んだ勇人が、灰色の床に手をつき上体を起こした。嫌悪の表情を剥き出しにした准斗が、
「でっかいハムだろ」
と、引き攣った笑い声を上げた。
汗が染みたワイシャツの背をこちらに向け、勇人は床に手を這わせている。
「なんだ、このハム。まだ生きてた。ハムじゃなくて豚だ」
この場でうんざりした顔をしているのは瑞月だけだ。瑞月に近い表情なのは翔だが、彼は状況を見極めようとしているようだった。古平はおどおどするだけだ。茉莉に至っては見るのも嫌なのか、曇らせた顔を他所へ向けている。なによりこんな目に遭わされた勇人本人が笑っているのが、この場を異様な空気にしている。
堪らず、瑞月は動いた。分厚いレンズの眼鏡を拾うと勇人に差し出した。肉厚の手で受け取った勇人は、眼鏡をかけ直すと床に這いつくばったまま瑞月を見上げた。レンズが蛍光灯に反射したのか、小さな目がきらりと強く光った。刹那、彼の相貌がこれまで見たことのないものに見える。
「ありがとう、五明さん」
強い光は一瞬で消え、目を細めた勇人が微笑んだ。
熊谷勇人は入学当時から体形のことや天然な性格をいじられてきた。率先して「いじる」のは准斗で、勇人はいつも笑うかおどけるかしていた。それが、今の一瞬に限っては恥じ入っているように瑞月には見えた。
よたよたと勇人が立ち上がる。汗で眼鏡が滑るのか、レンズをつなぐブリッジ部分をしきりに人差し指で押し上げている。
「この豚、二足歩行してる」
准斗の言葉に、勇人がさっと顔を上げた。
「それだけじゃないよ。味も抜群な信州ポークだ」
勇人はニヤリと笑った後、鼻を鳴らした。豚そっくりの鳴き声に、瑞月以外の全員が吹き出した。
勇人は豚の鳴き声を真似ながら歩き回った。笑っていない瑞月を見咎めると、汗の臭いが鼻を衝く距離まで顔を近づけ、「グヲッ」とひと鳴きした。堪らず、瑞月は更衣室へ逃げ込んだ。
扉の向こうでは爆笑が起こっている。中でも准斗と勇人の笑い声が大きい。勇人本人があんなに笑っているのだから、いつものおふざけなのか。恥ずかしそうに見えたのは思い過ごしなのだろう。
ロッカーの扉を開ける。持っていたセームタオルを扉の縁に引っ掛け、綿のタオルを取り出す。広げたタオルに顔をうずめた時、つま先になにかがあたった。ロッカーから小物が落下したようだ。固い感触だったが、重さはないようでさほど痛みはなかった。タオルを顔から離し、落下物に目を落とす。
(なにこれ、アイスの棒?)
瑞月は上体を屈めた。
(わたし、アイスなんか食べてな――)
ドキリとして、伸ばした手が止まる。視線は足元の「アイスの棒」に釘付けだ。長さ十五センチほどの細長い楕円形の物体は全体が白く、プラスチック製だ。
(これってもしかして)
アイスの棒より厚みのある白い物体をつまみ上げる。裏返してみる。
中央に四角い小窓が二つあり、それぞれにブルーのラインが浮かび上がっている。
瑞月は頭が働かなくなったように感じる。
実物を見たことはないからたしかではないが、これは――
更衣室の扉が激しく音を立てる。瑞月は持っていたものを咄嗟にタオルで隠した。扉の向こうで准斗が「なにやってる」とか「気をつけろ」とか言っている。
心臓が激しく打って息苦しいほどだ。扉が開かないのを待った後、持っている物をもう一度確認する。二つの小窓、ブルーのライン。妊娠検査薬だ。
(どうしてこんなものがわたしのロッカーに――?)
更衣室のロッカーは空いているところを使うので鍵はない。
瑞月は、検査薬が落ちてきたロッカーの右隣を開けた。空だった。左隣を開ける。そちらが自分の使っていたロッカーだとわかり、検査薬を元の場所へ戻す。扉を閉めてからタオルを持ったままなのに気づき、再び扉を開ける。
トレーニング前に更衣室を利用した時はだれもいなかった。だから、これがだれのものか瑞月にはわからない。
検査薬をフェイスタオルで包むようにたたみ、ロッカーへ戻す。
今度こそ自分のロッカーで着替えを済ますと、瑞月はだれも来ないうちに更衣室を後にした。
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