1(承前)
架純学園はいじめを許さない。
明里が架純学園に赴任して早々、柔道部員の三年生がいじめ加害者として学園を退学処分になった。春休みに起こした事件が原因だった。
退学になった生徒は顧問が来る稽古前の柔剣道場で後輩の首に絞め技をかけた。その場にいたのは更衣を終えた柔道部員数人で、最初は笑っていた。だが、「参った」の合図であるタップが行われても技が解かれないのを見ると一気に空気が変わった。
絞められている二年生は相手の上腕を二度叩いた。それでも解かれないとわかると、今度は足で畳を二度打った。さらに、自身の頸動脈を圧迫している相手の手の甲を必死に叩いた。
彼の顔は見る間に赤紫に変化し、白目は毛細血管が切れて血走っていた。周囲が止めに入ろうとした矢先、彼は「落ちた」。
通常、柔道の絞め技で失神すると数秒で自然と意識が戻るものだが、落ちた生徒は痙攣し、口から泡を吹いた。何度も「落ちる」現場に居合わせてきた部員たちも、初めての事態に動転した。
そのうちのひとりが顧問を呼びに行こうと道場の扉に手をかけた時、走り寄ってきた加害生徒がその手を掴んだ。
「チクったら殺す」
突き上げるように覗き込んできた加害生徒の顔が、むしろ密告の背中を押した――報告した生徒は平等正文学園長に言った。
「彼の瞳に凝縮されていたのは、恐怖ではなくて興奮でした」
加害生徒の異常な高揚感の危険性を強く感じたその部員が告発に踏み切ったのだった。
幸い、首に絞め技をかけられた生徒はその後すぐに意識を取り戻し、病院での検査も異常はなく、後遺症もみられなかった。学園側は部員全体から聞き取り調査を行った。ある部員からの告白で、加害生徒は被害生徒に対し以前より「しごき」を行っていたことが判明した。
ただし、それは「からかい」といじめ、「厳しい指導」といじめの境界線上にあり、しかも相手部員が困っている様子もなかったことから部員も即刻訴えることに足踏みしてしまった。だからと言って、見過ごしてきた事実に変わりはない。おかしいと思った時点で止めなかった自分たちは加害生徒と同類だ。自分たちも甘んじて処分を受ける――柔道部員全員の意見だった。
被害者に対し執拗なしごきを行っていた生徒を指導せず、看過していた顧問は自主退職し、平等学園長は講堂での説明会で全校生徒と保護者の前で土下座し、謝罪した。脇で見ていた明里は、異様な光景を目の当たりにしたことを思い出す。
おそらく、こういった不祥事が起きた後は学校長が一定数の批判や糾弾を受けるであろうに、学園長の平等正文が頭を下げる間――それは長い時間続いた――保護者たちは口を噤んだまま、辛そうな表情を浮かべるばかりだった。土下座する学園長を見るに忍びないといった空気が充満していた。ようやく頭を上げた学園長はこれまでの経緯を説明した。
「いじめ」は傷害事件である。今回のことを告訴するかを被害生徒と保護者に確認したが、彼らはそれを望まなかった。彼らの意思を尊重し、警察には行かなかった。
その後、被害生徒に寄り添った意見が述べられると、講堂にすすり泣きの声が静かに響いた。明里は驚いて当該保護者を見た。平等学園長の話に感動しているのは明らかだった。
平等学園長は、学園で起きたことは自分の責任だと言った。加害生徒については、理事会において退学処分が相当と判断された。学園を更生の場とすることはできないが、彼には「反省するチャンス」を与えたかった、と平等学園長はくやしそうに言った。
「彼は加害者意識に欠ける。どうしてだれかを苦しめたり傷つけたりしたい衝動に駆られてしまうのか、他責にせず自身と向き合ってほしかった」
保護者の多くが賛同のため息を漏らした。
「今後、彼の選択に我々が口出しすることはできない。願わくば、然るべきところでカウンセリングを受け、更生の道を辿ってもらいたい。そうでなければ彼は自らの非を理解していない状態で社会に放り出される。彼にとって退学処分は理不尽で納得のいかないことだろう。怒りを抱えているはずだ。鬱積した感情が同様のことを繰り返させるかもしれない。次に行った高校で、社会で。だからこそ、わたしは彼に反省するチャンスを与えたかった。なにより彼の心の綻びに気づけなかったことを激しく後悔している。もっと早くわたしが気づけていたらなんらかの手助けができたと思う」
平等学園長が口を閉じると講堂に静寂が落ちた。多くの生徒と保護者が感銘を受けているのが、その場にいる明里にも伝わってきた。被害生徒の立場で見聞きしている明里にとって、それはゾッとするような光景でもあった。悪寒の原因はハッキリしている。加害の自覚がない人間に加害者意識を持たせられると信じ込んでいるからだ。そういう場合もあるだろう。今回の彼はそうであるかもしれない。機会さえあれば「正しい」方向へ進める者がほとんどだろう。だが、実際には、どうやっても加害事実を認めない者はいる。諭されても叱責されても世界中から非難されても、たとえ被害者の遺影を突きつけられても。自分に落ち度はないと涼しい顔で言うのだ。
なにより――平等学園長が言った。
「心と身体に傷を負わせてしまった生徒と保護者に再度、心より謝罪をしたい。申し訳ございません」
壇上を下りた平等学園長は、額を床に着け土下座した。
講堂から音が消えた。
彼は長い時間、そうしていた。ようやく立ち上がった時、足元がふらついていた。彼は顔を上げると深々と頭を下げた。そうして再び壇上へ戻った。
最後に、と言う平等学園長の声に明里はハッと顔を上げた。
壇上には、いつの間にか三十名ほどの柔道部員が並んでいる。
平等学園長は、彼らを手のひらで指しながら言った。
「彼らは看過してきた自分たちを責めて退部の意向を示しているが、それでよいだろうか?」
一瞬、押し黙るような間があった。
「その子たちがいじめたわけじゃないんでしょう? いじめられた生徒と保護者は、彼らが退部することを望んでいるんですか?」
保護者のひとりが立ち上がって言った。
「一緒に部活を続けたいと言っています」
平等学園長の答えを聞いた質問者は「それなら問題ないわね」と呟きながらパイプ椅子に戻った。他の保護者が続く。
「告発は勇気ある行動だ。私はむしろ、彼らを称賛したい」
平等学園長は講堂を見回した。
「生徒の皆さんはどう考えているだろう?」
しばらくして野球部三年の大槻翔が立ち上がった。
「もし私が柔道部員だったら同じようにできたかわかりません。彼らは十分に――いえ、できる以上のことをしました。だから、退部の必要はないと思います」
同意のさざ波が頷きとなって生徒間に広がっていった。
「辞めなくていい」
生徒が口々に言いながら起立した。保護者からは激励の言葉が飛んだ。だれかが手を打ち始め、最後には割れんばかりの拍手と声援が講堂を包んだ。
顧問の打診時にも感じたことだが、平等学園長は決して意見を押しつけない。こちらの声に耳を傾け寄り添ってくれる。最初は逆の意見でも、次第に彼の意に添うよう流されている。
そして最終的には熱狂的に拍手を送るようになるのだ。
明里は、平等正文のカリスマ性を垣間見た気がした。
部活に入っていない熊谷勇人がコースを折り返す。大きな身体の動きに合わせ、水が激しく波打った。
小泉准斗は、古平鉄平の肩に手を置きながら勇人を見ている。
「熊谷の家は金持ちで、学園にたくさん寄付してる。それなのにタコ先生の鬼レッスンを受けさせられるんだから、古平みたいな零細企業の家の子はもっと厳しいお仕置きをされるに決まってるよ。古平は成績もあんまりよくないよね? いっそのこと勉強に打ち込むか、それか……思い切って水泳部に入部したら? 野球よりよっぽど向いてるよ。ね、明里先生」
鉄平はかなづちだ。彼は泳げないし、なにより水が怖いのだ。三日前、鉄平が初めてここを訪れた際に明里はすぐに気づいた。今年度、野球部はまだプールを利用していなかったから、准斗は一年生の鉄平が泳げないことを知らないのだろう。
競泳に向いているのは熊谷勇人だ。水中歩行を始めて間もなく、プールにだれもいないと思ったらしい勇人はお手本のように綺麗なフォームでスピードに乗って泳いでいた。競泳競技者でも身体の大きな者はいる。明里が勇人の勧誘に二の足を踏んだのは「身体の大きな生徒を指導する」自信がなかったからなのと、部内にあんなに太った生徒がいたら、他の指導者から管理ができていないと笑われるかもしれないと懼れたからだ。なにより彼はもう三年生で出場できる大会も限られる。
「おい、小泉」
遠藤が膝を折り、准斗にぐいっと顔を近づける。彼女の厳しい横顔を見た明里の喉がごくりと鳴った。遠藤がなにか言う前に、だれかが鉄平の肩に手を置いた。
野球部三年の大槻翔だった。澄んだ茶色の瞳を鉄平に向けている。
「後がつかえてるよ」
翔が八コースの壁にタッチすると水飛沫が上がった。コースを折り返し、狼狽えている後輩を追い越していく。鉄平は目が覚めたようにあわてて後を追った。小泉准斗は顎を上げ眇めた目でふたりの背中を見ていたが、明里に笑顔を向けた後コースを歩き始めた。
「タコ先生、もうあがってもいい?」
女バス三年の生徒が遠藤を見上げ、言った。
遠藤は生徒の顔を狙いすまし、手のひらですくった水をかけた。
「ちょっとタコ先生!」
生徒が水面をバタバタたたくと、水滴が遠藤の胸元に撥ねた。無地だと思っていたシャツの胸元には、小さなバスケットボールの柄が印刷されていた。
「まだ始めたばかりだろ」
生徒は「ばれたか」と言って笑うと、水中歩行を再開した。
明里は、遠藤が立ち上がるのを待って声をかけた。
「練習の合間を縫って毎日来るのは大変じゃないですか」
遠藤はバスケ部員を目で追っているのか明里の方を見ない。それどころか明里の声も耳に入っていないようだ。
「遠藤先生?」
「彼女、バスケをするには身長が低いけど、とても俊敏なんです」
「え?」
遠藤は女バス部員を見ながら言った。小柄な部員は水面に顔を出すのがやっと、といった様子で水を掻きながら歩いている。
「とろそうに見えるけど、バスケ部の中では一番スピードがあるしゲームを組み立てるのも上手い。わたしとしては彼女を部長にしたかったけれど、あのやわらかい雰囲気では大事な局面で気迫に欠ける。だから、部員に厳しい態度がとれる他の生徒を部長にした。適材適所、向き不向き。そういうのって、あると思いませんか」
遠藤が明里に顔を向けた。彼女はやけに真剣な顔つきだ。
「えっと……」
返答に困った明里を置いていくように、遠藤は続ける。
「ポジション決めは気を遣います。その生徒に任せて大丈夫か、間違っていないかと」
言葉を切った遠藤はプールを見つめた。明里は思う。遠藤先生の視線の先にいるのはバスケ部員じゃない。
「わたしは授業でしか関わりがないけれど、いつ見ても彼はあんな風で。もっと彼の内面まで切り込めたら、見えているのとはまったく違うものがあるような気がするんです」
『彼』とは古平鉄平のことだろう。明里は彼をよく知らない。『坊主頭の野球部員』という認識しかなかった彼のことを知ったのは、デッドボールを肘に受けて三日前にプールを利用し始めてからだ。わかったのは、彼が泳げないこと、それも、どうやら極度に水が怖いらしいこと。優柔不断な笑顔を浮かべてその場をやり過ごそうとする癖があること。
その程度のことしかわからない明里にとって、遠藤の言葉の真意は掴みどころがない。
「見た目だけじゃわからないことがたくさんあります」
「遠藤先生?」
「体育館に戻ります」
「え、あの――」
「溺れるなよ!」
遠藤のよく通る声にバスケ部員が振り返り、高く上げた片手を左右に振った。
遠藤と入れ替わりで野球部顧問の柘植馨がプールサイドに現れる。二十六歳、国語教師の彼は、ひとのよさそうな顔をさらに柔和にしてこちらに駆けてくる。
「柘植先生、走ったら危ないですよ」
明里が注意すると、柘植先生はしまったというように立ち止まった。わざとおどけた顔がおかしくて、明里は自然と笑みがこぼれた。
「注意されるなんて生徒みたいだ」
照れくさそうに言うと、柘植は明里の隣に並んだ。
「遠藤先生、毎日来てるんですか」
「はい。バスケ部の練習時間の合間を縫って毎日いらっしゃいます」
柘植が感嘆の声を漏らす。
「ぼくも見習わないといけないな」
「野球部は部員数が多いですし、なかなか難しいですよね」
「うちは教頭先生も百瀬先生もいるから、来られない理由にはならないなあ」
柘植は他の野球部顧問の名前を出した。
「柘植先生と百瀬先生は同い年ですよね? 学生時代は甲子園をかけて戦ったりしたんですか?」
「ええ。お互いに長野県内では強豪校だったので」
「ライバルだったんですね」
「ライバル校だったというだけですよ。百瀬先生は大学でも活躍してプロ入りだって夢じゃなかったのに、後進育成のために指導者の道を選んだ。指導力の高さも志もぼくなんか足元にも及ばない」
「そんなこと……野球部の監督は百瀬先生なんですよね。教頭先生は――」
「主にマネジメントをしています。現役時代は優秀なキャッチャーだったそうですよ」
明里は、鈴木康範教頭の立派な太鼓腹を思い浮かべる。それを察したように、柘植は、
「力のある中学生をスカウトしたり、大学やプロの球団と話をして道筋をつけるのは教頭先生にしかできない大役です」
と言った。
「なかなか様子を見に来られなくて申し訳ない。古平たち、どうですか」
「頑張っていますよ」
明里の返答に、柘植はホッとした表情を浮かべた。
「古平はまだ一年生だし、これから力をつけていく選手なので春の大会にはベンチ入りしませんが、大槻と小泉には一日も早く戻ってもらわないと」
野球部の週末は練習試合や遠征で埋まっている。人工芝のグラウンドを持つ架純学園に他校が来て試合をすることも多いが、学園のバスで出かけることもある。
「ふたりに期待しているんですね」
「期待は全員にしていますよ。ただ、次の大会に合わせて調整してきたからペースを乱したくなくて。ふたりが要なので、なるべく練習には参加してほしい」
言ってから、柘植は、
「大槻がピッチャーで、小泉とバッテリーを組んでいるんです」
と補った。
大槻翔は鈴木教頭がスカウトした生徒で、プロへの道も期待されているらしい。
「大槻の投球と技術は高校生の中でも群を抜いています。ゲームの流れを読むセンスとチームをまとめる力もある。小泉はお調子者のところがありますがとてもクレバーだし、ムードメーカーで後輩との距離を縮めるのが上手い。バランスがとれたバッテリーです。小学校の頃から一緒のクラブだったそうだから、一緒に長くプレーした経験が影響しているのかな」
活き活きとした柘植の横顔を、明里は弾んだ気持ちで見つめる。生徒や野球の話をする時、彼はいつも心から嬉しそうな、楽しそうな顔になる。
「授業はふたりとも美術を選択しているようだけど、どうですか」
「大槻君は色彩豊かでダイナミックな絵を描きます」
「ああ、わかる気がする。彼は投球フォームもスイングもすごくダイナミックなんですよ」
「小泉君は精密で模範的な絵を描きます。絵を習ったことがあるのかしら」
「さあ、それは知らないけれど、なんだか納得です。小泉は野球でもお手本みたいなプレーをするから。面白いな。絵って描くひとの性格が表れるんですね」
柘植は息を吐き、そう言えば、と話題の転換を図った。
「もうじき春の大会ですが、調整は順調ですか」
柘植に会えて浮ついていた気持ちに急ブレーキがかかる。
「それが――」
明里は正直な気持ちを吐露した。
明里の想いを聞いた柘植は、にこやかな顔をわずかに引き締めた。
「明里先生の不安な想いは、きっと指導者ならみんな持っているものだと思いますよ。ぼくも、いつも不安があります。あの時もっと別のアプローチをしていたら、違う指導していればって。でもそれって、生徒を想っているから不安になるんですよね。成果をあげたいわけじゃない。優勝させたいからじゃない。自分のせいで、彼らが実力を発揮できなかったら……潜在的な能力を引き出せなかったら。そう考えるから不安になる。そうでしょう? その不安を持っているだけでも、明里先生は指導者として十分ってことです。自信を持ってください。大丈夫ですよ」
明里を安心させるような大きな笑顔で柘植は言った。
「……柘植先生に言われると、なんだか本当に大丈夫な気がしてきました」
柘植が目を細くする。
明里が架純学園を希望した理由はこの笑顔だ。彼に会いたくて、彼のそばにいたくて、それだけの理由でここを志願した。
「話は変わりますが、例の感染症、いよいよ日本にも上陸しそうですね」
表情を引き締めた柘植は続ける。
「新型ウイルスが『上陸』なんて不謹慎な表現かな。諸外国では死者数が急増しているみたいだし。学園側も対策を練っているらしいですよ」
昨年中国で初めて確認された新型ウイルスは、今、世界的に爆発的な感染の拡がりを見せていた。これまで島国の利点を活かしてウイルスの侵入を食い止めてきた日本の水際作戦もいよいよ限界を迎えそうな気配だ。
ニュースなどの情報によると、新型ウイルスの潜伏期間は一~二日と短く、発症すると「咳・鼻水・発熱」など風邪によく似た症状が現れる。その後、三日から二週間のうちに重症化すると死亡するケースが相次いでいる。
まだ治療法もワクチンもないウイルスに、世界中の人々が戦々恐々としている。
明里も、もちろん「未知のウイルス」を恐れてはいたが、架純学園は他の学校よりもずっと安全だという確信もあった。
だから、明里は言った。
「これまでも学園で基本的な対策はしてきましたし……そもそも、うちは他校と比べて外部との接触が少ないですから、そんなに神経質になることもないような気がします」
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