ボリュームたっぷりの焼肉定食を半分くらい食べた頃、ヨウヘイさん改め須田社長が「家には帰れるのか?」と、僕に訊ねた。
口に食べ物が詰まっていたので、ひとまず首を横に振った。それだけでは失礼だから、急いで飲み込もうとする僕に、「この先はどうするんだ?」と、須田社長が更に訊ねた。なんとか飲み下して口を開く。
「漫画喫茶に泊まって、十月十九日の誕生日になったら役所に分籍届を」
「何それ?」
咀嚼しながら金髪改め奥隼斗さんが訊ねた。
「戸籍から外れるってことです」
「離婚の親子バージョン?」
僕の返事に、もぐもぐと口を動かしながら奥さんが重ねて質問する。
「厳密には違いますけれど、するんです。絶対に」と答えた僕は、小鉢のきんぴらごぼうに箸を伸ばした。
ごぼうの土臭さが苦手で以前は好きではなかった。でも、疲れのせいか、甘塩っぱい濃いめの味付けがすごく美味しく感じる。
奥さんはごくんと音を立てて口の中の物を飲み込むと、「――ガチじゃん」と言った。須田社長は、「そうか」とだけ呟くと、また食べることに専念する。奥さんと黒髪改め頭島丈さんと僕の三人もそうする。
最初に食べ終えた奥さんが切り出した。
「十月十九日まで漫喫に寝泊まりすんの? 金も身体もキツいだろ」
確かにキツい。でも漫画喫茶よりも安く泊まれる場所を僕は知らない。
「アヤと同棲するまで住んでたアパートが空き部屋になってんだよ。とりあえず今日はそこに泊まれよ。一泊分浮くぜ? それに、気に入ったら貸してやるよ」
まだ完全に引き払っていないアパートに一晩泊まらせてくれるまではさておき、そのあとの内容が理解出来ない。部屋の又貸しをしようとしているのだろうか?
急に話が怪しくなってきた。今まで色々とよくして貰ったけれど、すべては何かしらの得をするためだったのかもしれない。
――逃げなくちゃ。
膝をぎゅっと握りしめた。むき出しの二の腕にも力が伝わる。
「隼斗のお祖母さんは賃貸物件をいくつも持っていた資産家だったんだ。亡くなったときにコイツはそのアパート一棟、丸ごと相続したんだよ。だから誰にいくらで貸すとか自分のさじ加減で決められるんだ」
僕の変化に気づいたらしく、須田社長が補足説明をしてくれた。
「オーナーでぇ~す」
ふざけた口調で奥さんが胸を張る。
「毎月けっこうな不動産所得がある奴に、何で俺が飯を奢っているんだか。隼斗、夕飯はお前が奢ってやれ」
ぶっきらぼうに須田社長に言われた奥さんは、頭に手を当てててへっと笑うと、「そんじゃ、夜は俺持ちな。丈も奢ってやるよ」と、言った。
「ありがとうございます」
頭島さんが頭を下げた。二十三歳の頭島さんはほとんど話さない。でも礼儀正しい。察する能力も高く、須田社長や奥さんから何か言われる前に行動に移していることが多い。仕事なのだからとうぜんなのかもしれないけれど、どこか尋常ではないものを感じる。
午前中、僕がへたばる直前に休めと声をかけてくれたのも、無言で飲み物を手渡してくれたのも頭島さんだった。通行人への注意喚起は僕の仕事だったのに、杖を突いたお婆さんやベビーカーを押すお母さんが通りかかると、足場から下りてきて荷物を運ぶ手伝いもしていた。
寡黙だけれど出来る人でしかも優しい。背が高いし、顔もちょっと冷たい感じのする切れ長の目で格好いい。黙っていてもモテる人というのは頭島さんのような人を言うのだろうなと僕は思う。
「夕飯は社に戻ってのミーティングのあとになる。食べ終えたら光希の好きなところに送ってやる」
言い終えた奥さんがコップの麦茶を飲み干した。
夕食をご馳走して貰えるのはありがたい。でも二つ返事は出来ない。
そこまで甘えていいとはさすがに思えないし、やっぱりまだ完全に信用しきれてはいない。日当で貰った一万円があるし、買って貰った食べ物や飲み物もあるから、これで十分だ。でも面と向かってすぐさま断るのも気が引けた。答えを渋っていると、「無理に誘ってはねぇよ。仕事終わりにどうしたいか教えてくれ」と、空気を読んで奥さんが言ってくれた。仕事が終わったらそこで辞去しようと心の中で思いながら、僕は頭を下げた。
けれど結局、奥さんの愛車のイカついフェイスのアルファードに乗り込んで埼玉県新座市にある須田SAFETY STEPに行き、そのままミーティングに参加したあと、奥さんの行きつけの居酒屋に移動した。そして今、頭島さんと一緒に夕食をご馳走になっている。
家出して練馬区に着いてからは、徒歩移動を除いては図書館やショッピングモールのフリースペースの椅子に静かに座っていただけの生活だった。立ちっぱなし動きっぱなしの一日を終えたときには、僕は完全にへたばってしまっていた。疲れすぎてまったく頭が働かなくなったのだ。
すべてのお皿を空にして僕が箸を置くのを待ち構えていたように、「それでどうする?」と、奥さんが訊ねた。
奥さん所有のアパートの空き部屋に泊まるか? というありがたい提案への答えを促されている。
今日一日、須田社長と奥さんと頭島さんにお世話になった。三人の人となりはもう分かったし、信頼してもいいと思い始めていた。何より僕はくたびれきっていた。雑務しかしていない僕よりもパイプを担いで運んで足場を組むという重労働をした奥さんと頭島さんは、はるかに疲れているはずだ。練馬区まで送って欲しいと言うのはさすがに気が引ける。
それに漫画喫茶では、フルフラットシートで横になって眠れると言っても、薄っぺらい壁越しに隣の個室の他人の気配を常に感じながらだから熟睡できない。そんな一夜を過ごすよりも、アパートの室内で安心して過ごす方が絶対にいい。心を決めて、「いいですか?」とお願いする。
「おうよ」
その一言で奥さんは了承してくれた。
「着いたぞ」
奥さんの声で目が覚めた。車内の時計を見ると、午後八時半を少し回っていた。居酒屋を出たあとに、コンビニエンスストアに寄った。それから十分程度しか経っていない。その短い間でも、満腹なのもあって僕はうとうとしてしまったらしい。
「すみません」と言ったけれど、寝起きで声が出ていない。
「疲れてんだし、いいってことよ」
軽く流して奥さんが説明する。
「見た目はボロいけど中はそうでもないから。――ただちょっと難があってな。まぁ、それは部屋に入ってから話すわ」
アパートの見た目は奥さんが言うほどボロくはなかった。外付けの階段に錆は浮いていないし、雨よけのプラスチックの波板も欠けていない。これなら室内もそんなに悪くはなさそうだ。一ヶ月前に彼女と同棲するために引っ越すまで奥さんが住んでいたぐらいだから、難があるといっても、そんなに大事ではないだろう。
一階の一番手前の部屋の扉を奥さんが鍵で開ける。薄暗い室内に入って壁のスイッチを押して灯りを点けた。1Kで六畳の部屋は畳敷きではなくフローリングだった。部屋の端に畳んだ布団が置かれている。想像していたよりも室内ははるかに綺麗だ。
「よっこらせ」と言いながら、奥さんが買ってきた飲み物や食べ物の詰まったビニールの買い物袋を床に置いた。
「俺が使っていたのでよければ、部屋にある物は何でも使ってくれ」
室内を見回す。冷蔵庫や電子レンジや洗濯機などの白物家電だけでなく、タオルやティッシュなどの生活に必要な物がそのままになっている。
「風呂とトイレはここな」とドアを指さす。ドアは一つだけだからユニット式だろう。
「そんで、エアコンのリモコン」
手渡されたリモコンはまだ新しそうだ。
「二年前に相続したときに空き部屋から徐々にリフォームして、エアコンも新しいのにしたんだ。俺がアヤと今住んでるとこのよりも効きがよくてしかも省エネで電気代も安い。技術の進歩? 企業努力っての? とにかく、どんどん良い物が出てくるもんだよな」
ヤンキーな見た目とは裏腹に、奥さんはちょいちょい含蓄のあるようなことを言う。つくづく見た目で人を判断してはならない。と思ったそのとき、室内の電気が消えた。
壁のスイッチに頭島さんが触れるか何かして、誤って消してしまったのだろうと一瞬思った。でもスイッチの前には誰もいなかったはずだ。頭島さんは風呂とトイレのドアの前に立っていた。
接触不良だろうか? でも二年以内にリフォームしたと聞いたばかりだ。
――もしかして。
目を閉じて気持ちを集中させる。何も感じない。
もう、以前のようではなくなっていたけれど、それでもたまにうっすらと何かを感じることもある。けれど今は何も感じない。
壁に近寄って奥さんがスイッチを押した。室内が明るくなったのと同時に僕は目を開ける。
「さっき言った難ってのがこれなんだよ。この部屋、たまに勝手に電気が消えるんだわ」
「勝手にですか?」
「そ」
奥さんが一言で答えた。
「たまになんだけれど、部屋にいるととつぜん電気が消えるんだよ。それでこの部屋だけ住人が居着かなくてさ。せっかくリフォームしたのに空けとくのももったいないんで俺が使ってたんだ。――飲み物が温くなっちまう。この話は座ってからにしようぜ」
奥さんはフローリングの上に胡座をかくと、袋の中の物を出して床に広げた。それを中心に車座で僕と頭島さんも床に座る。
僕は未成年だし、奥さんはこのあとも自宅に帰るために運転する。頭島さんだけはアルコールを飲める状況だったけれど、さすがは気遣いの人で口にしなかった。男三人、そのうち二人は成人だが、奥さんがダイエットコーラ、頭島さんが緑茶、僕はシンプルに水で乾杯してから口をつける。
「くぅ~っ、沁みるなぁ~!」
まるでビールのCMのような台詞を奥さんが口にした。頭島さんは無言でスナック菓子の袋を食べやすいように開けている。すべてご馳走して貰って、部屋にも泊まらせて貰うのに何もしていないのはマズいと思い、あわてて僕も乾き物の袋を開けようとする。そのとき、また部屋が暗くなった。
「チッ! またかよ」
舌打ちして奥さんが言う。
僕が立つ前に頭島さんがスイッチを押していた。だが頭島さんが床に座ると同時にまた電気が消えた。立ちあがろうとしたけれど、中腰になる前にまた頭島さんがスイッチを押していた。
「――悪ぃな。しかし今日はほんっと、よく消えるな」
苦虫を噛みつぶしたような顔でそう奥さんが言った直後に、また暗くなった。今度も頭島さんが電気を点けた。
「スイッチは換えた。ライトも他の部屋に付け替えて試したら問題なかった。配電も湯沢さん――同じ現場によく入る電気工事会社のお兄さんだ。仕事は早いし丁寧だし、付き合いがあるからってちょっと安くしてくれるので、なんかあったら頼むといい」
僕の表情から察して説明を付け足したあとに、「で、湯沢さんが全く問題ないって」と、奥さんが締め括った。
部屋の電気が消える物理的な原因はない。でも消える。こうなると、やっぱり……。
ポテトチップスの袋を開ける振りをして、俯いて二人に気づかれないように胸の中の息をすべて静かに吐き出した。目を閉じて気持ちを集中させる。やはり、何の気配も感じられない。
「貸してみな」
僕の手からポテトチップスの袋を取ると、奥さんは袋の裏の長い結着部分を引っ張って開いた。
「大人数で食べるときはパーティー開き。覚えときな、これ基――」
にやっと笑った奥さんが言い終える前にまた部屋が暗くなった。
「あ~、もう!」
苛立った声を奥さんが上げたそのとき、暗闇の中の空気が動いた。
どんっと床を打つ重い音が聞こえた。驚いて動けずにいると、部屋が明るくなった。スイッチを押したのは奥さんだった。スイッチに指を触れたまま、床の一点を見下ろしている。視線の先を僕も見る。そこには謎のポーズをとる頭島さんがいた。
頭島さんは足を開いて両膝を床につき、上半身を床と平行になる直前まで倒した体勢だった。その姿は何かに馬乗りになっているようにも見える。でも床の上には何もない。
そこで僕はあることに気づいた。頭島さんは両腕を突っ張っているが、床にはついていなかった。床から五~六センチくらい上のところで浮いている。大きく開いた両手は、何かを押さえているようにも見える。でも、やはりそこには何もない。力が込められているのは、半袖Tシャツからむき出しの腕に盛り上がった筋肉で分かる。
身体を支えているのは床についている両膝とつま先のみ。それで前傾姿勢をとるのは相当キツいはずだ。なぜこんなことをしているのか、まったく見当がつかない。
「足押さえろっ!」
低い怒号に身体がびくっとした。
「押さえろって言ってんだろうがっ!」
頭島さんが僕を睨みつけてそう叫んだ。それまでのぶっきらぼうだけれど、決して悪い人ではないし、怖くはないという印象がその形相で吹っ飛んだ。
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