四
翌日。県警本部六階談話室。
部屋の中央に置かれた机を挟み、塚原と相対した。監察官室の警部補が記録係として同席している。雰囲気は取調室に近い。
「今日、聞きたいのは三年前のことだ」
私は机の上に三年前、四月十一日の看守勤務日誌を置いた。塚原の目が見開かれたのを見逃さなかった。
「この看守勤務日誌は、昨日、科捜研で筆跡鑑定を行っている。その結果、巧妙に偽装しているが全て同一人物が書いたものという結果が出た。勤務員の署名も含めてな」
塚原は身じろぎせず日誌を見つめている。私は四月十二日の日誌を横に並べた。
「十一日の日誌の筆跡は、十二日の日誌の一部と一致した。この指示・注意事項欄だ。通常、この欄は留置管理係の係長が書くものだ。つまり、十一日の日誌は何らかの理由で只野係長が書き直したもの、いや改ざんしたものだ」
私は身を乗り出し、塚原に顔を近づけた。
「昨日、元署員の崎田さんに話を聞いてきた」
私の言葉に、塚原が顔を上げた。崎田の証言を話して聞かせる。
「君はこの日、当直勤務で、アレルギー症状の発症にも対応したはずだ。違うかね」
塚原の額に汗がにじんでいる。
「監察ってところは、そこまで調べるんですか」
塚原の問いには答えず、話を続ける。
「君が改ざん前の日誌を今も所持していると私は考えている。文書改ざんの動かぬ証拠だ。それをちらつかせれば、改ざんを命じた人間たちに少々のわがままを通すことができたんじゃないのか」
「確かに、日誌は俺が持っていますよ。何かあった時のお守り代わりに。別にそれをちらつかせて係長に何かを要求したことはありませんよ。相手が勝手に気を使ったのかもしれませんが」
塚原の口元に品のない笑みが張り付いた。責任の押し付け先を見つけた暗い喜び。ろくでもない言い訳を思いついたに違いない。
「日誌をまとめて書くようになったのも後で書き直しをさせられるかもしれないからですよ。もし、変わったことがあったら、書いてもいいか、係長にお伺いを立てるようにしていました」
私は塚原の言葉を無視した。戯言に付き合う気はない。
「聞きたいことがもう一つある。君が持っている日誌だが、誰の印鑑まで押されているんだ」
「係長までです」
つまり只野までは元の日誌のまま提出しようとしたわけだ。係長の次に押印するのは留置主任官だ。留置主任官は留置業務を主管する課の警部以上がその任につく。名越署の場合、警務課長の高田だ。
「どんな背景があろうと、不正行為に手を染める決断をしたのは君だ。どれだけ自分を正当化しようと、その事実は変わらない」
塚原の顔が強張った。
私はスマホを取り出し佐伯に電話をかけた。
「塚原巡査部長の聴取が終わりました。やはり、日誌の原本は彼が持っています。自宅捜索の手配をお願いします」
「おい、自宅まで捜索するのか」
塚原が椅子を倒して立ち上がった。記録係の警部補が彼の両肩を押さえた。
取り乱す塚原を私は無言で見つめた。きっと冷たい目をしているに違いない。
「部下がご迷惑をおかけいたしました」
マスクをして談話室に入ってきた只野が頭を下げた。年の割に白髪が多い。あくまでも塚原の上司として、この場に呼ばれたと思っているようだ。
「体調はどうだ」
「熱は下がりました。申し訳ありません、こんな時に休んでしまって」
只野は今日も名越署を体調不良で休んでいる。しかし、監察官室の事情聴取は体調不良で拒否できるものではない。彼の自宅まで、迎えを出し本部に連れてきた。
もっとも、ある理由から、彼の体調不良を疑っているが。
「只野係長、君に聞きたいことは二つ。一つは塚原巡査部長の素行不良をなぜ放置していたのか。二つ目は三年前の四月十一日に何が起きたか、だ」
「待ってください、監督不行き届きだったことは事実ですが、放置していたわけでは。それに三年前のこととは」
只野が腰を浮かせて抗議する。
「君の前に塚原巡査部長の事情聴取をしている。今頃うちの調査官が彼の自宅の捜索を始めている頃だ。三年前の看守勤務日誌を見つけるためにね。付け加えると、昨日は元署員の崎田さんからも話を聞いた」
只野の体から力が抜けた。
「とぼけることが時間の無駄だということを理解したか」
私はこの二日間で調査した内容を話した。私の話が進むにつれ、只野がどんどんうなだれていく。
「この日誌を筆跡鑑定にかけた結果、十一日の日誌は全て同じ人間の手で書かれていることが判明した。その筆跡は十二日の日誌の注意・指示事項欄と一致している」
私は日誌を机の上に置いた。
「君が十一日の日誌を書き直した。それは間違いないな」
しばらく只野は動かなかった。やがてがっくりと首を前に倒した。
「おっしゃる通り、私が書き直しました」
只野が語った経緯は崎田や塚原の証言と一致した。
「さいわい食堂は、老夫婦で切り盛りしています。官弁は負担が大きいので、そろそろ取引を辞めたいと言われていました。それで感謝状を贈り、ニュースにすることで何とか引き留めたんです。官弁の不足でクレームを入れたりしたら、それを理由にまた取引をやめると言われかねません。管内で他に引き受けてくれそうな所はありませんから」
私には只野の言葉が言い訳にしか聞こえなかった。老夫婦が経営する食堂ならば今後いつ店を閉めるか分からない。リスクを分散させるためにも複数の取引先を確保するべきだ。同じ食堂を使い続けることは問題を先送りにしているに過ぎない。
「それで官弁の不足を記録上は無かったことにし、内部的には元署員の崎田さんに責任を押しつけようとしたわけか」
只野が力なくうなずいた。
「日誌の改ざんは君の考えか」
只野の目が泳いでいる。保身、そのためにどう答えるか計算しているのだろう。
「一つ言っておく。君が日誌の改ざんに手を染めた事実がある限り、それが誰の考えだろうと処分は変わらない。保身を考えても無駄だ」
「高田……課長です。官弁が不足したことについては何も指示がありませんでしたが、当直勤務中に留置者にアレルギー症状が発症したことを報告すると、そんな日誌には印鑑を押せないと言われ、仕方なく書き直しました」
「担当者の印鑑はどうした。全員が納得したわけではないだろう」
「課長の指示だからと言って聞かせ、納得させました」
馬鹿なことを、と思った。自らの弱みを相手に握らせるに等しい行為だ。
「一つ目の質問に答えてもらっていなかったな。なぜ、塚原巡査部長の素行不良を放置していたのか」
只野の顔が苦し気にゆがんだ。
「日誌の原本が無くなっていることに気付いたのは、書き直した日誌に全員分の印鑑を押させた後でした。元々原本は保管しておくつもりでした。もしもの時のために。しばらくして、塚原さんの勤務中の態度が明らかに変わりました。休憩時間を守らなかったり、隠れて煙草を吸ったり、他の部下からも苦情が寄せられました。一度、注意をしたら日誌のことを持ち出されて……」
うつむく只野に、私は塚原に感じたものとは違う怒りを感じた。
只野の言葉にはどこか自分が被害者であるような響きが感じられた。責任を感じているようには思えない。
「つまり君は自らが改ざんした日誌をちらつかされ、塚原の素行不良を放置し、管理監督者責務を果たさず、新たな不祥事が起きるのを指をくわえて見ていたわけだ」
只野が唇を震わせた。「そんな……」と弱々しい声でつぶやいたが追及の手を緩める気はない。
彼に対しては、もう一つ疑念を抱いている。
「私がここまで調べるとは予想していなかったのか」
「どういう意味でしょう」
「君だろう、監察官室に告発状を送ってきたのは。しかも、私を名指しにして」
これ以上抗う気力はないようだ。
「塚原さんの態度がますます横暴になり、この先さらに何か要求してくるのではないかと不安になりました。それに、今の係に三年前のことを知っている人間はいないので、不信感を抱かれていることを感じていました。いずれ大きな問題を起こされたり、他の人間に内部告発される前に何とかしようと……」
「自分で対処するのではなく、監察官室を介入させようとしたわけか」
呆れた。もとはと言えば自分で蒔いた種だ。
「酉埼が、警務課の忘年会の席で白峯さんのことを、警察官として尊敬している、目標にしていると言っていました。目の前で、過去の上司を誉めるのは、今の上司にとっては不愉快なことでしょう。高田さんの顔は引きつっていましたが、酉埼は、分かってやっていた節がありました。彼にも高田さんに対して思うところがあったようです」
「自分で告発状を出せば、こちらが動くタイミングも予測できる。それに合わせて都合よく休むことができたわけか」
只野は肯定も否定もしなかった。
「翌日から官弁を一個多く発注するよう指示したのも君か」
「いえ、高田課長の指示です。とりあえず数だけは不足しないようにしろと」
結局、只野は自分では何も判断していない。
事の善悪の判断すらも。
「待ちましたか」
談話室に入ってきた高田に問いかけると、「ええ、まあ」とあいまいにうなずき、遠慮がちに椅子に腰を下ろした。
三人はそれぞれ別の部屋に待機させていた。全員に監察官室の人間を付けている。それは複数の被疑者を取り調べる時と同じやり方だ。待っている間は落ち着かなかったはずだ。
「高田警部、あなたから聞きたいことは塚原巡査部長のことではありません」
只野の事情聴取の後、三年前の看守勤務日誌は机の上に置いたままにしていた。高田の目がそれにくぎ付けになっている。
「お察しの通り、聞きたいのは三年前の看守勤務日誌改ざんについてです」
高田が口を開きかけたが、私は構わず話を続けた。
「只野係長が改ざんの事実を認めました。また、塚原巡査部長の供述から、原本を彼が所持していることが分かり、現在彼の自宅を捜索中です」
高田が眼鏡を外し、目頭を揉んだ。表情が隠れる。眼鏡をかけ直すと不遜な笑みが口元に浮かんだ。
「失礼ですが、白峯警視は警務の経験がおありですか」
「いえ、刑事畑が長く、警務の経験はありません」
「そうですか。私は二十年ほど警務の仕事をしていますが、中々大変でしてね。綺麗ごとだけでは済まない面が多々ある。大なり小なり問題を起こす署員も多い。それらを全て処分していたら署の運営は立ちゆきませんよ」
「そのためには文書の改ざんも仕方がないとでも言うつもりですか」
いくらか語気を強めた。しかし高田の態度は変わらない。
「些細なことです。深刻な被害が出たわけではありません。その程度のことで地元業者との関係を悪化させることもない。名越署管内には弁当を配達してくれるような業者は他にありませんから。神無市のような都市部にいらっしゃる方にはお分かりいただけないかもしれませんが」
「看守勤務日誌の改ざんを只野係長に命じたことは認めるのですね」
「署の運営を最優先に考えた選択です」
悪びれる様子もなく認めた。
「その結果、一人の警察官が退職の道を選び、塚原の素行不良を黙認する弱みとなり、今回の不祥事につながっています」
「それは個人の問題でしょう。三年前の一件がなかったとしても、いずれ彼らは同じ選択をしたはずです」
「自分には責任がないとでも」
「署員がご迷惑をおかけした点については責任を痛感していますよ。今後、同様の事案が起きないよう署員教育を強化し、再発防止に務めます」
高田は薄笑いを浮かべ、原稿を読み上げるような口調で言った。
「さきほど、あなたは署の運営の大変さを説き、弁当業者確保の大変さを訴えていたが、他の業者を探す努力はしたんですか」
「もちろんです」
高田が胸を反らした。
私は一枚の書類を机の上に置いた。昨日、酉埼から送られた添付ファイルをプリントアウトしたものだ。
「名越署から車で三十分圏内にある弁当業者のリストです。全部で五件あります。いずれの業者にも、官弁の条件を伝え、配達可能の返答をもらっています」
リストにはデイサービスや介護施設向けの食事を提供している業者、宅配給食の会社が記載されている。全て酉埼が調べ、問い合わせをしたものだ。彼は数時間でこのリストを完成させた。
「いかがですか」
高田が口を開けたままリストを見ている。
「探せばあるんですよ。あなたは問題を直視せず、先送りしてきただけです」
私は一呼吸おいて続けた。
「もっともらしい言葉を並べて、自身の怠慢を誤魔化すことはやめるんだな」
高田の目が大きく見開かれた。
「あなたに署員教育や再発防止策を任せるのは、窃盗犯に防犯対策を任せるようなものだ。それ以前にあなたも処分の対象だ。他人事のような態度は改めるんだな」
高田の薄笑いが消えた。自身がこれまで積み上げてきたもの、積み上げたつもりだったものが、すでに土台から崩れていたことをようやく悟ったようだ。
五
翌日。塚原に停職三ヶ月の懲戒処分が決まった。
高田と只野の処分は決まっていない。塚原の自宅から、日誌の原本が押収され、虚偽有印公文書作成容疑で捜査が始まったからだ。処分は捜査の結果をもって下される。
三人とも、依願退職を申し出た。塚原の分は受理されたが、残る二人の分は警務部長預かりとなった。慰留するためではない。捜査の結果、起訴あるいは書類送検されれば懲戒免職になる可能性があるからだ。依願退職であれば退職金が支給されるが、懲戒免職の場合、退職金は支払われない。
「三年前の事案を掘り返したことには、本部長も警務部長もいい顔はしなかった」
佐伯はそう言ったが、機嫌は良さそうだった。
私は名越署を訪れた。通されたのは会議室ではなく、署長室だ。そこには藤島だけでなく、酉埼と戌井の姿もあった。
「この度は、大変ご迷惑をおかけしました。今後一層、署員の倫理意識向上と規律遵守を徹底します」
藤島が深々と頭を下げた。高田も昨日同じような言葉を口にした。しかし、藤島の言葉には真摯な響きがあった。
少し、署の体制の話をした。暫定的に副署長が警務課長を、酉埼が留置管理係長を兼務するという。秋の人事異動はすでに内示が出ている。人を動かすには難しいタイミングだ。当面は署内でやりくりするしかない。
「酉埼には負担をかけてしまうが、頼む。戌井もサポートしてくれ」
頭を下げた藤島の言葉に、二人は背筋を伸ばした。
二人は、全力で与えられた職務をこなすだろう。だが、それで良いのか。無理な勤務体制と、その結果個人に伸し掛かる業務負荷。それが、新たな不正を呼ぶ要因になりはしないか。
負の連鎖。わたしは脳裏に浮かんだ言葉を打ち消した。
酉埼と戌井が駐車場まで見送ってくれた。
「二人には、今回の件で随分助けられた。礼を言う」
「いえ、うちの署の不始末ですから」
酉埼が首を振った。戌井は無言だ。
戌井は、今回の結末に納得をしているだろうか。
「戌井君。君は転職して良かったと思っているか」
崎田は即答した。転職して良かったと。
戌井が答えを口にするまで、いくらか時間が必要だった。
「分かりません。ですが、少なくても後悔はしていません。白峯さんのおかげです」
「私一人の力などたかが知れている。君たちの協力で掴むことができた事実があり、組織がそれを受け入れたということだ」
恐らくは、佐伯が私の知らないところで上層部に働きかけたのだろう。本部長と警務部長はいい顔をしなかった。佐伯はそう表現したが、それ以上の抵抗があったに違いない。
「私も、警察という組織に幻滅したことがある。だいぶ昔の話だがね。その後も、組織の嫌な面は何度も見てきた。組織への不満なら両手で収まらないほどある。だが、不満を抱えて愚痴っているだけでは現状は変わらない。上司に不満があるなら、自分がその立場に立って変えていけばいい。私は、三十年間、そう思いながら警察官を続けている」
戌井が真剣な顔で私を見ていた。
「君のような経験をした人間が組織を変えていくために必要だと、私は思う」
「二次面接の際、面接官の方に同じことを言われました」
戌井が懐かしむように言った。杉本に教えたら喜ぶだろう。
「白峯さんにも目を付けられましたか。私が二課に戻る時、引っ張ろうと思ってたんですけどね」
酉埼がにやりと笑った。確かに、戌井の能力は二課向きかもしれない。
「戌井君。君は警察という環境に身を置くため、この道を選んだのかもしれない。だが、今度は警察の中で、何を目指すか、どんな道に進むか、考えてみてほしい」
「二課の道も本気で考えてくれよ」
「戌井君を二課に引っ張りたければ、早く昇任することだ。兼務できついとは思うが」
酉埼が肩をすくめた。彼ならば両立させる。そんな予感はあった。
私と酉埼のやり取りを見て、戌井が声を出して笑った。
彼の笑顔を初めてみた。
彼とはまた一緒に働きたい。
その時は、共に肩を並べて。