名越な ごし警察署一階小会議室。

 私を含め、四人の男がこの部屋に集まり、六時間ほどが経過した。すでに日付も変わっている。

 腕組みをしたまま動かず、時折時間を確認する以外は目を閉じている署長の藤島ふじ しま。対照的に落ち着かない様子で藤島の顔色をうかがっている警務課長の高田たか だ。二人とも五十代半ばで、制服ではなく半袖のワイシャツ姿だ。

 唯一制服を着ているのは警務係長の酉埼とり さきだ。三人の中で彼とだけ面識がある。今年、三十六歳になるはずだ。

 三人には、一度、退庁してから、密かにこの会議室に集まってもらった。三日前、監察官室に届いた匿名の告発状。その真偽を確かめるためにだ。

 留置係の署員が、当直勤務中、飲酒を含む複数の服務規程違反を犯している。告発状を書いた何者かは、そう訴えていた。内部事情を知る者でなければ書きえない内容で、信憑性は感じられた。

 何より、告発状の宛先は私だった。

 服務規程違反を告発された塚原つか はらは、今この時も、当直勤務中だ。

 ノックの音。反射的に時間を確認する。午前二時だ。

 酉埼がドアを開け、制服姿の男を室内に招き入れた。

 警務係の戌井いぬ い巡査部長。酉埼の部下だ。当直勤務の署員の中で、唯一事情を伝えてある。

 戌井が敬礼しようとするのを藤島が手で制した。

「挨拶は抜きだ。現状の説明を頼む」

「はい。塚原巡査部長が休憩に入った時間です」

 当直勤務中は部署ごとに交代で休憩をとる。むろん、事件や事故が起きればそれどころではない。

「確かか。中の様子は分からないはずだが」

「過去三ヶ月分の看守勤務日誌を確認いたしました。塚原巡査部長が当直の日は全て午前二時から、いわゆる後休憩をとっています」

 藤島の質問を予想していたかのように、戌井は淡々とした口調で答えた。臆する様子もない。

 休憩を前半、後半、どちらにとるか。それは早起きと夜更かしの選択に近いものがある。好みは人それぞれだが、大抵は偏りが出ないよう、当直ごとに変える。

 常に後休憩。その一点だけでも塚原の勤務態度がうかがえた。

 藤島も同じことを考えたのだろう。問うような視線を高田に向けた。高田は目を逸らし、うつむいた。

 小規模警察署に分類される名越署では、警務課に留置管理係が置かれている。そこで問題が起きれば、留置管理係の係長だけでなく、係を統括する警務課長の高田も責任を問われる。

 留置管理係長の只野ただ のは昨日から体調不良を理由に休んでいた。必然的に、この場で藤島の矛先は高田一人に向けられる。

 藤島は呆れたように鼻を鳴らすと、私に向き直った。

白峯しら みね監察官。手筈通りお願いします」

「ええ、私が塚原巡査部長を押さえます。酉埼係長は留置施設のフォローを頼みます」

 藤島にそう答え、戌井を見た。

「戌井君、協力に感謝する。すまないが、もう少しだけ手を貸してほしい」

 私の言葉に、戌井は酉埼をうかがう素振りを見せた。酉埼がうなずくのを確認すると、「承知しました」と答えた。

「では、同行を頼む。藤島署長、よろしいですね」

「構いません。酉埼、そのまま留置施設勤務に就いてもらうことになるが大丈夫か」

「問題ありません。過去に留置担当業務講習を受けています」

「頼む。事案確定後、速やかに交代の係員を手配する。いいな、高田」

 やや語気を強めた藤島の言葉に、高田は顔を上げ、小声で「承知いたしました」と答えた。

「酉埼、スペアキーだ」

 藤島が手提げ金庫から留置施設のスペアキーを取り出し、酉埼に手渡した。

「では、行きましょう」

 酉埼の言葉に、戌井がドアを開けた。

「白峯さん、ご無沙汰しています」

 会議室を出ると、小声で酉埼が話しかけてきた。

「妙な再会になったな」

 私が神無かん な中央署の刑事課長を務めていた時、酉埼は同署知能犯捜査係の刑事だった。

 その後、酉埼は警部補昇任と同時に本部捜査二課に異動。私も同じ時期に本部捜査一課の管理官になったが、殺人や強盗などの強行犯を担当する一課と、詐欺や横領などの知能犯を担当する二課では、職務上、接する機会はなく、県警本部内で時折姿を見かける程度だった。

「頑張っているようでなによりだ」

 本部でしくじったという話は聞いていない。小規模警察署の係長職への異動は、警部昇任を期待されてのことだろう。他の部署より勤務時間が安定した警務係であれば、昇任試験の勉強時間を確保しやすいはずだ。

 他の署員に会うことなく、二階の留置施設に着き、事務室に入った。無人だ。部屋の奥にもう一つ、頑丈な鉄製のドアがある。大扉と呼ばれる留置施設の入口だ。

 酉埼が大扉の鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回した。

 本来は、インターホンで留置施設内の担当者を呼び出し、中から鍵を使って開錠してもらう。外からスペアキーを使って開錠するのは非常時だけだ。

 大扉を開け、酉埼を先頭に中に入る。全員が入ったところで酉埼が内側から施錠した。

 私は戌井と共に、休憩室のドアの前に立った。酉埼が少し先のドアの前に立つ。その中は被留置者の居室だ。

 戌井がノブに手をかけ、振り向いた。私がうなずくと戌井が一気にドアを開けた。

 私は休憩室に踏み込んだ。

「な、何だ、あんたは」

 六畳間に敷かれた布団の上で、あぐらを組んでいた男が身をのけぞらせた。塚原だ。制服を脱いだTシャツ姿で、右手にスマホを持っている。

 私の後から休憩室に入った戌井の顔を見て、塚原は声を荒らげた。

「戌井、どういうことだ、これは」

「彼には道案内を頼んだだけだ。名越署には不案内なものでね」

「あんたはいったい」

「本部監察官室の白峯だ。どういうことか、理由はわかるはずだが」

 布団脇の卓袱ちや ぶ台の上に視線を向けた。食べかけの弁当と蓋の開いたウイスキーのポケット瓶。言い逃れできる状況ではない。

 塚原が言葉に詰まり視線をそらした。

「その弁当、官弁かん べんだな」

 被留置者用に署が用意する弁当を官弁と呼ぶ。被留置者が自費で購入する弁当が自弁だ。

「いや、これは余ったので」

「余り物であっても署員が食べていいものではない。それを肴に寝酒とは随分羽を伸ばしているな」

 私の言葉に、塚原はスマホをそっと卓袱台の上に置いた。

「もし、今この時間、被留置者に緊急事態が起きたらどうするつもりだ」

 急病、あるいは自傷行為。残念なことだが、留置施設内での死亡事案は、毎年全国で数件起きている。

 私と酉埼は神無中央署時代、被疑者に死なれた経験があった。

「制服を着て立ちたまえ。詳しい話は別室で聞く」

 塚原が立ち上がり、身支度を終えるのを待った。のろのろとした動きの一部始終から目を離さない。

 私は戌井に卓袱台の上のものを全て持ってくるよう頼んだ。

 廊下に出ると酉埼が待っていた。

「看守勤務日誌ですが、二十二時から二時まで白紙でした」

 留置施設では巡回の記録を、看守勤務日誌に残さなければならない。塚原は巡回自体を怠っていたのか、あるいは日誌を後でまとめて記入しようとしていたのか。

「施設内の様子は?」

「被留置者が起きた気配はありません。相勤者には塚原が勤務から外れるとだけ伝えました。代わりに私が勤務に就くことも」

「ご苦労だが、しばらくここを頼む」

 酉埼はうなずき、鋭い視線を塚原に向けた。かつて経験した被疑者の死。それを思い出しているのかもしれない。

 会議室に戻ると、藤島たちの顔を見た塚原が喉を鳴らした。

「戌井君、ありがとう。助かったよ」

 戌井から弁当とウイスキーの瓶を受け取り、礼を言った。

「いえ、ご指示に従っただけです」

 直立不動で戌井が答えた。私とは目を合わせようとしない。

「戌井、ご苦労だった。勤務に戻ってくれ」

 藤島の言葉に敬礼を返し、戌井は会議室を出て行った。

 これから休憩に入るのだろうか。せめて朝までは何も起きず、少しでも仮眠をとってほしい。

 私はそう願った。

 

 

 

 塚原は現在四十五歳。高校卒業後、県警に任官。警察学校卒業後は、東北地方最大の歓楽街を管轄する神無中央署稲荷町交番に配属。稲荷町交番に配属されるのは警察学校で座学の成績よりも逮捕術など術科の成績優秀者が多い。三年間の交番勤務の後、機動隊に異動。二年間の機動隊在籍中に巡査部長昇任試験に合格している。高校卒業者としては順調な昇任だ。その後、神無中央署留置管理課を経て刑事課組織犯罪対策係に配属。以後、四十歳まで、所轄と県警本部を行き来し、組織犯罪畑を歩んでいる。

 経歴を見る限り、ここまでは順調に警察官人生を送っていた。覚醒剤押収で県警本部長表彰を受けてもいる。

 変化があったのは四十歳の時だ。本部組織犯罪対策課から神無市内の交番に異動している。懲罰の記録はない。

 名越署警務課留置係配属は三年前だ。

 県警職員のデータベースで塚原の情報を事前に頭に入れ、現場を押さえるための準備を進めた。

 昨日、藤島に連絡を入れると、監督不行き届きを詫びた後で、協力を申し出てくれた。

「全面的に協力します。私もその場に立ち会わせていただきたい」

 藤島は今年四月に署長に就任したばかりで、その言葉には、いくらか気負いを感じた。

 そして、告発状通りの現場を押さえ、経歴のデータでしか知らなかった塚原本人と会議室で向き合っている。

 藤島たちには席を外してもらった。

 塚原は、藤島たちの前では神妙な面持ちで背中を丸めていたが、彼らが出ていくと、椅子の背もたれに深く寄り掛かった。緊張から解き放たれたというより、開き直った態度に見える。

「改めて自己紹介しよう。本部監察官室の白峯だ」

 私の言葉に、塚原は無反応だった。顔を上げようともしない。

「先ほど現認した非違事案について今から事情聴取を行う」

 警察では不祥事を非違事案と呼ぶ。塚原がわずかにうなずいた。

「まずは順番を聞きたい」

「順番ですか」

 あえて主語を省いた質問をすると、塚原が顔を上げた。

「スマホ、飲酒、官弁、最初に手を出したのはどれだと聞いている」

「それは……官弁です。夜食代を節約したくて。どうせ一個余って捨てるだけなんで、もったいないから食べても問題ないでしょう」

 最初に官弁に手を出した。つまりは何度も繰り返していたということだ。官弁は毎回余るのだろうか。

「それに味を占めたその後は」

「スマホです。弁当食べている間の暇つぶしで。別に休憩室以外で使っているわけじゃないですよ」

「飲酒についてはどんな言い訳をするつもりだ」

「……酒を飲むとすぐ眠れるんで。若いころは仮眠をとらなくても平気でしたが、最近はさすがにきつくなりましたから」

 塚原は机に視線を落とし、ぼそぼそとした口調で言った。

「本日の日誌、白紙だったが」

「後でまとめて書くつもりでした。どうせ、何も起きていませんし」

「何度、どうせと言うつもりだ」

 不意に感情が高ぶり、右手を握った。その拳を左手で押さえる。

 なぜ、こんな人間が警察官を続けているのか。

 塚原が顔を上げた。表情に脅えが浮かんでいる。

 私は今どんな表情をしているのだろう。

 感情のままに怒声を発し、握りしめた拳を机に叩きつけることが出来たら、一時でも気が晴れるのだろうか。思っただけで、結局大きく息を吐き、握った拳をほどいた。

 共に警察官を目指した友人は、教官の暴力に耐えかね警察学校を去った。その教官と同じ振る舞いはしない。友人を支えることが出来なかった自分に対する戒めだ。

「なぜ、規律を破った」

 目の前の男にも、刑事として上司や同僚の信頼を得ていた時期があったはずだ。何が足を踏み外すきっかけになったのか。

「……別に、何となくですよ。留置場の当直なんて暇なもんですから。今日だってお客さんは二人しかいない。どっちも六十過ぎの爺さんで窃盗の常習犯。留置場慣れしていて、朝まで高いびきです。巡回したって寝ている姿を確認して終わりですよ」

 不貞腐ふ て くされた態度。感情の揺らぎを感じた。留置管理係の仕事にやりがいを感じているわけではないようだ。

「つまらん言い訳だ」

 私は吐き捨てた。塚原の感情を揺さぶりたかった。

組対そ たいじゃ活躍していたようだが、何かしくじったのか」

「違う、俺はしくじってなんかいない」

 不意に塚原が声を荒らげた。

「俺は、ずっと現場で仕事をしたかった。それは上にも伝えていました。だけど、昇任試験を受けろと、交番勤務にまわされて」

 昇任を期待され、一時的に畑違いの部署に異動させられる。酉埼と同じだ。その期待に応えるか否かは本人次第だ。

「警部補に昇任すれば、いずれ組対に戻れたはずだ。君はそのための努力はしたのか」

 私の言葉に、塚原はうつむいた。それが彼の答えなのだろう。望まぬ異動は珍しい話ではない。期待されているからこそ、違う部署で経験を積むことを求められる。そこでやる気を失い、腐ってしまえば終わりだ。再び、期待を寄せられることはない。

 私とて、監察官という立場を望んだわけではない。

 私は藤島に電話をかけ、事情聴取が終わったことを伝えた。

 すぐに藤島たちが会議室に戻ってきた。

 それでも塚原は姿勢を正すことなく、うなだれている。

 不意に藤島が、机を叩いた。塚原の目の前だ。さすがに塚原の背筋が伸びた。

「自分の立場をわきまえろ」

 絞り出すように藤島が言った。精一杯感情を抑えているのだろう。すみません、とかすれ声で言った塚原に一瞥をくれると奥の席に腰を下ろした。

 酉埼も会議室に戻ってきた。高田が手配した交代要員が出勤したようだ。

「事情は説明したのか」

「いえ。まあ、察したようでしたが」

 酉埼は塚原を見下ろしながら答えた。

 塚原の行いは留置管理係内では周知の事実だったということか。

「処分が決まるまで塚原巡査部長には自宅待機してもらいます」

「分かりました。塚原、聞いた通りだ。警察手帳は私が預かる」

 藤島が塚原に手を差し出した。その手をしばらく凝視した後、胸ポケットから警察手帳を取り出し、藤島に差し出した。藤島は奪うように警察手帳を掴み取ると、会議室のドアを指さした。

 塚原は深々と頭を下げ、会議室を出て行った。それに応える者はいない。

「それでは、塚原巡査部長の供述内容を説明します」

 話が進むにつれ、藤島の目が徐々に細められていった。

「高田、なぜ官弁が余るんだ。人数分発注しているはずだろ」

「それは……只野係長が管理しているので、後ほど調べます」

 藤島の視線が険しくなった。耐え切れず、高田が目を逸らした。

「酉埼、戌井を呼んできてくれ。彼に調べさせよう」

 よろしいですね、と問いかけてきた藤島に私はうなずいた。

「署長、それは私が……」

「高田。お前も当事者側の人間だ。調査に介入させるわけにはいかん。私が今日の一件を直前までお前に告げなかった意味を考えるんだな。悪い報告を上げない人間を私は信用しない」

 藤島がそう言い放つと顔を背けた。一瞬、高田が憮然とした表情を浮かべた。

 

(つづく)