酉埼に連れられ、戌井が会議室に入ってきた。休憩をとっていた様子はない。

「当直勤務中申しわけないが、頼みがある」

 藤島が事情を話した。

「承知しました。弁当の発注履歴と看守勤務日誌を突き合わせれば、いつから多く発注されているか分かると思います」

 戌井は藤島の指示に戸惑う素振りも見せずに、淡々と答えた。

「この件は、分かり次第、白峯さんに報告します。よろしいですか」

「構いません。塚原は、余った弁当を捨てるのがもったいないと自分を正当化する発言をしています。それは不正のトライアングルの一つの要因になります」

「不正のトライアングルですか」

 藤島が顎に手を当て、聞いてきた。

「不正を行う動機、不正を働いても仕方ないとする正当化、不正を可能にする機会。この三角形が成立した時に不正が発生するとされる理論です。今回の一件も、それぞれの要因を明らかにする必要があります。弁当の件も含め、引き続きご協力お願いします」

 私の言葉に、藤島が立ち上がり、深々と頭を下げた。高田も慌てて藤島に倣った。

 頭を上げた藤島の顔に、先ほどまでにはなかった疲れがにじんでいる。一晩徹夜した以上の疲れの色だ。

 署裏手の駐車場まで酉埼と戌井が見送ってくれた。

「白峯警視、質問よろしいでしょうか」

 見送りの礼を言おうと私が振り向くと、戌井が声をかけてきた。

 酉埼が戸惑いの表情を浮かべたが、私は話の続きを促した。

「答えられる質問なら。それと私のことはさん付けでいい」

「ありがとうございます。今回の件、三角形のどこに問題があったとお考えでしょうか」

 不意打ちのような質問だった。試されているのか。しかし、不思議と嫌な気持ちではない。

「いい質問だね」、と軽い口調で答えようとして気づいた。戌井の眼差しの切実さに。私を試しているわけでも、自分の知識をひけらかしているわけでもない。ただ純粋に答えを求めている。

 一呼吸置いて答えた。

「現時点では、本人の供述を聞いただけだ。動機と正当性は供述の中にあったが、その背景はこれからの調査で明らかにする。機会についても同様だ」

「個人を処分して終わりではない、ということでしょうか」

「当然だ。真の原因をつぶさなければ、問題は再発する」

 戌井の表情が和らいだ。彼が求めていた答えを示すことができたようだった。

「ぶしつけな質問、失礼いたしました」

 戌井が腰を折り、深く頭を下げた。

「構わんよ。背景を明らかにするためにも、君の協力が必要だ」

「早急に調査し、ご報告いたします」

「当直明けだ、無理はしないように」

 私の言葉に、酉埼と戌井は敬礼で応えてくれた。

 県警本部に戻る車中、考えていたのは戌井のことだった。

 戌井が発した質問の内容よりも、私に質問を投げかけた理由が気になった。切実な眼差し。告発状の送り主は戌井だろうか。酉埼から私の名を聞いている可能性はある。だが、露骨にそれをにおわす行動をとるだろうか。

 接したのは短い時間だが、戌井の振る舞いと、告発状は結びつかない。印象でしかないが。

 六時半過ぎに県警本部に着いた。

 出勤時間にはまだ早い。一階のロビーにも人の姿はなかった。

 普段は使わない高層階用エレベーターのボタンを押した。さすがに徹夜明けで、六階まで階段を上る気力はない。

 監察官室のドアを開けた。部屋の一番奥、ひときわ大きいデスクに座る佐伯さ えきと目が合った。

「ご苦労だった」

「早いですね」

 挨拶よりも先にそんな言葉を口にしていた。

 監察官室室長である佐伯は誰よりも早く出勤し、誰よりも遅くこの部屋を出る。知ってはいたが、想像よりも三十分早い出勤だ。

「現認出来たか」

「ええ、告発状通りでした。引き続き、事案の背景を調査します」

「現認したんだ、必要ない。処分は追って決める。報告書をまとめてくれ」

「室長、お言葉ですが、背景を調査し問題の根本を突き詰めない限り、真の再発防止策を講じることは出来ません」

「今回は随分こだわるな。名指しで告発状が届いたからか」

「そうではありません」

 たとえ小さな問題でも、放置すれば重大な事態を引き起こす。

 神無中央署の刑事課長時代、酉埼たち知能犯捜査係が、半年間の捜査の末、特別背任の容疑で逮捕にこぎつけた被疑者が留置施設内で自殺した。紐状にした衣類で首を吊ったのだ。

 後の調査で、本来、十五分ごとに行う巡回を、一時間ごとにしか行っていなかったことが分かった。留置管理課の課長も、それを知っていながら放置していたのだ。

 被疑者死亡により、事件の全容を明らかにする道は閉ざされ、しばらくの間、刑事課と留置管理課の関係は険悪になった。

 同じことを繰り返したくない。

 束の間、無言で佐伯と向き合った。引くつもりはない。

 佐伯が鼻を鳴らした。

「二日だ。それで結果を出せ」

「承知しました」

 私は佐伯に深く頭を下げた。顔を上げた時、佐伯は椅子を百八十度回し、後ろを向いていた。

「徹夜明けだ、今日は自分の判断で上がっていいぞ」

 私はもう一度佐伯の背中に頭を下げた。

 自席でパソコンを立ち上げた。報告書を書く前に調べたいことがある。県警職員データベースにログインし、戌井の名を打ち込んだ。

 戌井は現在三十三歳。県警採用は六年前。東京の大学を卒業後、民間企業に就職し四年間勤めている。

 東部精器とう ぶ せい き。戌井が勤めていた会社名に覚えがあった。

 会社名で検索をかけると企業サイトの他、過去のニュース記事が現れた。

 東部精器は自動車部品メーカーで七年前に品質検査データ改ざん問題を起こしていた。当時、私もニュースで見た記憶がある。

 戌井が直接不正に関わっていたわけではないだろう。もし関わっていたら、県警に採用されることはなかったはずだ。

 六年前だと、同期の杉本すぎ もとが人事二課にいたころか。人事二課は警部補以下の人事と新人警察官の採用を担当している。

 気持ちを切り替え、報告書に取り掛かる。現認した事実だけを記す。途中経過だ。事案の背景を突き止めない限りこの報告書は完成しない。

 途中経過の報告書を佐伯に送り、続けて杉本にメールを送る。時間がある時、話をしたい。すぐに返信があった。十時ごろなら時間が取れる。一時間後だ。少し考え、一階の食堂で待っていると返した。

「では、本日はこれで上がります」

 佐伯に声をかけたが、反応はない。普段と同じだ。

 監察官室を出るとエレベーターに向かった。エレベーターのボタンを押そうとして思いとどまった。やはり、階段で降りよう。

 エレベーターではなく階段を使う。監察官室に配属された時に自分で決めたことだ。監察官である自分と、エレベーターで一緒になれば相手に余計な気を遣わせるからだ。疲れを理由にエレベーターを使えば、この先も理由を探して同じことを繰り返す。

 一階まで階段で降りた。普段は感じない疲労感と、いくらかの達成感を感じた。誰かが見ているわけではない。だからこそ、自分で決めたことを守る。それを続けていれば、道を踏み外すことは、多分ない。

 

「なんだ、随分目が赤いな」

 私の正面に腰を下ろすなり、杉本が言った。朝のこの時間、食堂は閑散としている。

「何年振りかで徹夜した」

 私は買っておいた缶コーヒーを杉本に差し出しながら答えた。

「そんな時に相談事か」

 杉本が呆れたように言った。

「前に二課にいたよな」

「ああ、今の一個前が二課だ」

 現在、杉本は県警職員の技能教育や、倫理教育の推進を担う警務部教養企画課の課長だ。

「採用面接をした相手のことは、どれくらい覚えてる」

「新卒合格者はほとんど記憶に残らないな。大抵、しっかり面接の練習をしてくるから、画一的な受け答えにしかならない」

「転職組はどうだ」

 私の問いに、杉本は目を細めた。

「今抱えている案件に関係しているのか」

「いや、直接の対象者じゃない」

「そうか、自分が採用に関わった人間が、何かやらかしたとしたら、ちょっと気分が悪いからな」

 私も、元部下が問題を起こしたら同じ気持ちになるだろう。

「転職組の場合、志望理由にそれほど差はない。違うのは元の勤め先を辞めた理由だ。元の勤め先を悪く言うのはあまり印象が良くないな」

「戌井という男を覚えているか」

 杉本は少し考えうなずいた。

「一時、ニュースになった会社にいた男だな」

「そうだ」

「それならよく覚えている。印象に残っているからな」

「どんな印象だ」

 杉本がにやりと笑った。

「教えないぜ。つい一ヶ月前、受験者が面接で話した内容を漏洩して処分を受けたばかりだ」

 そう言うと短く刈り込まれた頭を撫でた。

「そうだったな」

 私は苦笑し、似たような髪型の頭をかいた。

 一ヶ月前、警察学校の同期二人が関わる事案で、私と杉本も連帯責任で頭を丸めた。

「一つだけ言えるのは、戌井のような経験をした人間が、うちの会社を変えるためには必要だと思っている。多分、白峯と気が合うはずだ」

 そうかもしれない。わずかに交わした言葉で、それは感じた。

「時間をとらせて悪かったな」

「いや、いい気晴らしになった。どうせ処分が下れば分かることだから何を追っているかは聞かないが、とりあえず寝ろよ」

 もう一度礼を言い、席を立った。

「白峯は自分を担当した面接官を覚えているか」

「いや、多分すぐに忘れたと思う」

「そうか。そうだよな」

 杉本は寂しそうに笑った。

 

 

 

 期限は二日。佐伯には帰ると言ったが、そのつもりはなかった。

 酉埼に電話をかける。彼はワンコールで電話に出た。

「まだ、署にいたのか」

「もちろんです。通常勤務ですから」

 確かに、公式には昨夜の酉埼は当直勤務ではない。

「今からそちらに行く。戌井君に頼んだ件、私にも手伝わせてくれないか」

「それは構いません。急ぐ事情ができた、ってことですか」

 察しが良い。私はそうだ、とだけ答えた。

「では会議室を確保しておきます」

 電話を終えると、地下鉄と電車を乗り継ぎ、名越署に向かう。

 十一時に名越署に着いた。

 警務課のカウンターに近づくと、奥から酉埼が出てきた。

「戌井が、三階の会議室で作業をしています」

「すまん、二人とも徹夜明けなのに」

「白峯さんも同じでしょう。それに署長からも最優先事項だと言われています」

 三階に上がり、会議室のドアを開けると、戌井が長机に広げた分厚いファイルから顔を上げ、立ち上がった。

「ご苦労様です」

 目が赤い。当直明けで書類の精査を続けていれば無理もない。

「戌井、分かったところまででいい、白峯さんに報告を頼む」

「承知しました。名越署の官弁は、長年、市内のさいわい食堂という定食屋に発注しています。こちらが発注履歴です」

 個人経営の食堂のようだ。官弁は一日三食、被留置者がいる限り、年中必要になる。店にとっては利益よりも負担の方が大きいはずだ。個人経営の店ならなおさらだ。

「発注履歴と、看守勤務日誌に記載された留置者の数を照合した結果、三年前の四月十二日以降、被留置者の数よりも一つ多く発注されていることが分かりました。こちらが四月十一日と、十二日の日誌です」

 戌井が差し出した書類を受け取った。看守勤務日誌だ。看守勤務日誌にはその日の留置者の数、担当署員の署名と捺印、巡回結果などが記されている。

 早いな、と思わずつぶやいた。

「毎月一日の記録を照合して絞り込みました」

 前職でどのような業務に就いていたのかは分からないが、記録を調べることには慣れているようだ。

「当時の署員で現在も留置管理係に残っているのは?」

「只野係長と塚原巡査部長の二人です。それ以外の署員は異動、または退職しています」

 塚原の名越署赴任は三年前の四月。赴任直後に何が起きたのか。

「退職者がいるのか」

 私の問いに、酉埼が日誌の担当者欄を指さした。

「はい。崎田さき た元巡査が退職しています。警務係の記録を調べましたが、この年の六月に退職、当時二十八歳でした」

 留置管理係で官弁に関わる何かが起き、その二ヶ月後に退職した署員がいる。無関係とは思えない。

「崎田元巡査の退職後の行方は?」

「神無市内の中古車販売店に就職しています。会計係で仲の良い署員がいて、昨年、そこから車を購入しています。名刺を借りておきました」

 酉埼が差し出した名刺を受け取った。全国チェーンの中古車販売店のものだ。

 戌井が私を見ている。まだ、話したいことがあるようだ。

「他に気づいたことは」

 私の問いに戌井はうなずいた。

「弁当の予備を発注するようになったのには理由があると考えられます。しかし、留置管理日誌にそれを示す記述はありません」

「不自然ではあるな」

「四月十一日の日誌ですが」

 戌井が日誌を手に取り、言葉を詰まらせた。

「気づいたことがあるなら遠慮せず聞かせてくれないか」

「分かりました。これからお話しすることに明確な根拠があるわけではありません」

 戌井が何かを決意したように顔を上げた。

「この日誌は書き直された可能性があります」

「書き直し、つまり」

「改ざんです」

 戌井の顔が苦いものを口に含んだようにゆがむ。一瞬、泣き顔に見えた。

「この日誌は全て同じ人物が書いたものと思われます」

 日誌の勤務員欄は担当署員が自筆で署名し押印する。その他の欄も、その時間ごとの担当職員が記入するので、全てを同じ人間が書くことはあり得ない。

「なぜ、そう思う」

 ボールペンの種類が違うのか、文字の太さが記入欄ごとにまちまちだ。筆跡も丁寧に書かれた部分もあれば幾分崩れたところもある。

 言われてみれば意図的に見えなくもない。

「わざと文字を角ばらせる、反対に丸文字にする、太さの異なるボールペンを複数使用する、これらは筆跡が異なるように見せる常套手段です。特に数字は文字の特徴を変えやすいです」

 戌井が十二日の日誌を横に並べた。

「比較すると分かりやすいかと思います。二日とも日勤者は同じです」

 十二日の日誌の方が統一感を感じられる。文字の太さは同じ。全て几帳面な文字が並んでいる。統一感はあるが、筆跡は明らかに異なる。

「よく、気付いたな」

 私の言葉に、戌井は目を伏せた。

「もう一点あります。被留置者名簿を確認したところ、卵アレルギーの被留置者が一名いました。弁当という食事に関わることなので念のためご報告いたします」

 良い着眼点をしている。被留置者にアレルギーや、宗教上の理由で口に出来ない食材がある場合、発注時に業者に伝え、食材を変えてもらう。それも業者には負担だろう。

 卵アレルギーの被留置者と官弁の不足。そして改ざんの疑いがある看守勤務日誌。全て同じ日の出来事だ。

「コピーを預からせてもらおう」

 県警の科学捜査研究所に依頼すれば筆跡鑑定は可能だ。佐伯の許可が必要ではあるが、戌井の発見を証明したい。

 戌井がコピーをとるため、会議室を出て行った。ドアが閉まるのを待って、酉埼に声をかけた。

「いい部下を持ったな」

「ええ、多少、周囲と壁を作るきらいがありますが優秀です。特に文書の扱いには見どころがありますね」

 酉埼は戌井の前職時代を知っているのだろうか。

 

(つづく)