2
パトカーを降りると、秋穂が萩尾に言った。
「菅井から聞いた話とほぼ一致していますね」
「だから、呼び捨てはやめろと言ってるだろう」
「これからどうします?」
「落合に行く」
「落合……? 新宿区の?」
「そうだ」
「死体の件はどうするんです? ここにいたほうがいいんじゃないですか?」
「俺たちがここにいても、できることはないよ」
「えー、降参するってことですか?」
「誰が降参するって言った。おまえさん、ここにいたきゃいてもいいぞ」
「一人でいても仕方がないですよ。ハギさんに付いていきます」
萩尾は秋穂とともに、恵比寿の現場を離れ、落合に向かった。
恵比寿駅からJR山手線で高田馬場まで行き、東京メトロ東西線に乗り換えて落合駅まで行く。
駅を出て十分ほど歩くと、小学校のそばの住宅街にある安アパートに着いた。萩尾は、一階に並ぶドアの一つをノックした。
返事はない。さらにもう一度ノックする。
ドアが閉まったまま、中からかすかに声が聞こえた。
「誰だい?」
「萩尾だ」
ややあって、ドアが開いた。チェーンは掛けたままだった。白髪頭の痩せた男がドアの隙間から顔を見せた。
「本当にハギさんだ……」
「久しぶりだな、『ホトケの善蔵』」
「その二つ名は、もうナシですよ。盗人稼業は昔の話だ」
「ちょっと、教えてもらいたいことがあるんだがな……」
善蔵は秋穂を見た。警戒心に満ちた眼だ。
「そっちにいるのは誰だい?」
「ああ、俺の相方だ」
「え、ハギさんの奥さん?」
「ばか言うな。仕事の相方だよ」
「だろうな……。それで、教えてもらいたいことってのは、何だい?」
「ちょっと、込み入った話でな……」
「昼飯がまだなんだがな……」
「俺たちもだ。じゃあ、飯を食いながら話をするか……」
「近くに、馴染みのそば屋がある。昼時だが、座敷を空けさせれば、落ち着いて話もできる」
「わかった。そこに行こう」
三人は連れだって移動した。
古いそば屋で、店内は混み合っていたが、店主は座敷に上げてくれた。障子を閉めると個室になり、なるほど込み入った話もできそうだ。
秋穂が小声で言った。
「あの……。こちらの方は……」
「ああ。名前は室井善蔵。昔は『ホトケの善蔵』と呼ばれた盗人だ。善蔵、こっちは武田だ」
「室井です。よろしく」
店員が注文を取りに来て、武田はカツ丼、善蔵は天丼とかけそばのセット、そして萩尾はざるそばを注文した。
善蔵が言う。
「しかし、ハギさんはいつもざるそばだね。刑事はたいてい、そばはのびるから、捜査が延びるのにひっかけて敬遠するんだろう?」
「のびないうちに食えばいいんだよ」
秋穂が尋ねる。
「どうして『ホトケの』っていう二つ名があるんですか?」
「ああ……」
萩尾は苦笑した。「別に行いがいいとか、性格が温和だとかいうわけじゃないぞ。こいつはな、でかいものを消しちまうのが得意だったんだ」
「でかいものを消す……」
「そう。一度、兵庫県の寺から秘仏を消したことがある」
「秘仏を……」
「百年に一回しかご開帳をしない観音様だ。そいつを盗み出したんだ。それも、警察官なんかもいる衆目の前で消してみせたんだ」
「へえ……」
「盗人はな、代表的な仕事が通り名になることがある。秘仏を消してみせたんで、『ホトケの善蔵』ってわけだ」
秋穂は、興味津々の顔つきになった。
「どうやって消したんです?」
そこに注文したものが届いた。
善蔵が秋穂に言う。
「まずは、腹ごしらえだ」
彼は旺盛な食欲を見せた。秋穂と萩尾も箸を付けた。
善蔵が食べながら話しはじめた。
「観音様はね、最初からなかったんだ」
「え……」
秋穂が目を丸くする。「どういうことです?」
「寺のやつらと話がついていたのさ。寺は借金で火の車だった。バブルの最中にさ、よしゃあいいのに、土地売買に手を出したんだよ。バブルがはじけて、大損したわけだ。あの頃、そんな話がいっぱいあったよ。それで、困り果てた寺のやつらが、何とかならないかって、ほうぼうに相談していた。その話が俺の耳に入った」
秋穂が身を乗り出す。
「それで、観音様を……」
「秘仏なら、美術館なんかに貸し出すだけでもけっこうな金になる。けどね、悪い坊主がいてね、盗まれたことにすれば、保険金なんかも手に入る、なんて言いだしやがってね。それで、俺が一肌脱いだってわけだ」
「方法は?」
「こういう盗みはね、手品といっしょだ。ある条件を与えて、思い込ませるんだ」
「思い込ませる」
「秘仏を消したときは、予告が必要だった。つまり、何月何日の何時何分に秘仏を盗むっていう予告だ。それで、秘仏が消える時間が特定できる。実は、それ以前から厨子の中から持ち出されていたんだが、なんせ、秘仏だ。ご開帳は百年に一度。誰も、そこにホトケさんがいないなんて思わない。指定した日時が、消えた日時だと人々は思い込むわけだ」
「盗みを演出したわけですね」
善蔵の機嫌がよくなってきた。
「そう。そして、そのためには、権威を持った協力者も必要だ。厨子の扉の中を確認して、たしかに秘仏はありますと証言してくれる坊主だ。秘仏だから、おいそれと覗くことはできない。地元の警察も二の足を踏む。だから、坊さんが、厨子の中を覗いて、そこにある、と言えば、それを信じるわけだ」
「そして、予告の日時がやってきて、またその坊さんが厨子の中を見る。そして、秘仏が消えたって、騒ぐわけですね?」
「そういうことだ」
「それで、その秘仏はどうなったんですか?」
「故買屋に持ち込もうとした段階で足がついてね。俺もその坊主もお縄さ。やっぱり、ホトケさん相手に悪いことはできねえ」
そばを食べ終わると、萩尾は言った。
「やっぱり、『ホトケの善蔵』に会いに来てよかったよ」
「あれ、何か訊きたいことがあったんじゃなかったのかい?」
萩尾は笑みを浮かべた。
「もう、教えてもらったよ」
3
そば屋を出て、善蔵と別れると、秋穂が言った。
「死体が消えたのは、『ホトケの善蔵』の手口と同じだということですね」
萩尾はこたえた。
「そうだな。同じような手品だったということだ。一見不可能に見えることには、必ずタネがある」
萩尾は落合駅のほうに歩き出していた。秋穂がそれを追ってきて言う。
「でも、いったいどんなタネが……」
萩尾は、考えながら言った。
「恵比寿の現場から消えた死体は、善蔵の仕事では秘仏に当たる」
「ええ、それはわかります。でも、秘仏は閉ざされた厨子の中にあって、誰も中を見られなかったわけですよね」
「そういうことだな」
「恵比寿の現場は閉ざされていたわけじゃありません。窓が開いていたんです。だから、通報されたんですよね」
「秘仏の厨子ほど完全に隠されてはいないが、恵比寿の現場も、ある程度隠されていると言っていい。まず、雑居ビルの空き家になっているフロアだ。ほとんど人が近寄らないはずだ。そして、ドアには鍵がかかっていた。窓も開いていたのは、ほんの五センチほどだ」
「でも、誰でも覗ける状態だったわけですよね」
「加藤芳雄が通報するまで、誰も覗こうとしなかったんだ。それは条件としては、誰も覗くことができない秘仏の厨子と同じことだと考えていいと思う」
秋穂が思案顔で言った。
「つまり、秘仏のときの犯行予告が、恵比寿の件では通報に当たるということでしょうか……」
「おまえさん、なかなか頭が回るじゃないか」
「三課ですからね。それくらいはわかります」
「だがな……」
萩尾は言った。「一つ気になることがある」
「何ですか? 気になることって……」
「足跡だ」
「足跡……」
「血だまりが固まって跡が残るまで、死体はあそこにあった。それを持ち出そうとすれば、必ず血だまりを踏むはずだ。死体を持ち出すのはたいへんだ。どうやったって、足跡が残るはずなんだ」
秋穂が考え込んだ。
「なるほど……」
「あの現場は、まるで死体が自分で起き上がって移動したように見える。そんなことはあり得ないだろう」
「もしかしたら、生きていたのかもしれませんね」
「それはないな。あの出血では生きていられないだろう。息があったとしても自力で動くのは無理だろう」
「まあ、そうですよねえ……」
「それにね、もし、被害者が生きていて、自力で動き出したんだとしたら、型が残るまで血だまりの中に倒れていたということと矛盾すると思う。もっと早い段階で移動しているはずだ」
「うーん……」
秋穂がまた考え込んだ。
もうじき落合駅だ。駅構内の人混みや、電車の中で事件の話をするわけにはいかない。
萩尾は言った。
「現場に戻るまで考えてみるよ」
秋穂がうなずいた。
地下鉄の中でも、JR山手線の中でも、萩尾と秋穂は、ほとんど会話をしなかった。
萩尾はずっと考えていたのだ。
「ホトケの善蔵」の話を聞くうちに、たしかに今回の死体消失の謎が解けそうな気がしたのだ。
だが、完全にすっきりと説明がつくわけではない。
菅井にヒントだけでも教えてやれば、面目は立つのかもしれない。だが、それでは萩尾の三課としてのプライドが許さなかった。
何としても、完全に謎を解いてみせたい。
何か要素が欠けている。犯罪捜査は、パターンがわかっているだけではだめだ。細部まで明らかにしないと解決には至らないのだ。
萩尾の脳はフル回転している。過去のありとあらゆる経験を思い出し、記憶にあるデータと、今回の事件を照らし合わせていた。
やがて電車が恵比寿駅に着く。萩尾は電車を降り、駅を出て現場に向かった。その間も、終始無言だった。
こういうとき秋穂は、何も話しかけてこない。それがありがたかった。
現場には、黄色いビニールテープの規制線が張られており、その前に地域係員が一人立っていた。
萩尾は彼に尋ねた。
「捜査一課は、まだいるかい?」
「いえ、皆さん、渋谷署に行かれたようです」
「捜査本部ができるんだろうか……」
「さあ、自分には、そういうことは……」
それを聞いていた秋穂が言った。
「スピード逮捕されなければ、捜査本部ができるでしょうね。殺人のようですし……」
萩尾はうなずいて言った。
「じゃあ、俺たちも渋谷署に行ってみようか……」
歩き出そうとして、萩尾はふと気になって地域係員に尋ねた。
「現場の上の階にある、『恵比寿マーケティング』は、今日も通常通り営業しているのか?」
「は……? 『恵比寿マーケティング』ですか?」
彼はきょとんとした顔になった。
「通報者が勤めている会社だよ」
「さあ、どうでしょう。確認していませんが……。見てきましょうか?」
「いや、いい。俺が行ってくる」
萩尾は階段に向かった。エレベーターもあるが、どうせなら、通報者の加藤と同じ経路をたどろうと思った。
「どうして、『恵比寿マーケティング』の確認なんか……」
萩尾は階段を昇りながらこたえる。
「階下で事件があったんだ。どんな様子かと思ってね……」
会社名が書かれたドアをノックして開ける。その向こうは、ごく標準的なオフィスだった。スチールデスクが並び、その上にノートパソコンと電話がある。
壁際にはスチールの棚が並んでいた。手前にはウエストの高さくらいの棚があり、それが仕切りも兼ねている。
近くにいた女子社員が立ち上がり、応対してくれた。
「何かご用でしょうか」
萩尾は警察手帳を出し、開いてみせた。
女子社員は目を丸くして、緊張を露わにした。萩尾はその反応に違和感を覚えた。
「階下で事件があったのをご存じですね」
「ええ……」
「通報されたのは加藤芳雄さんという方なんですが、こちらにお勤めだとうかがいました。間違いありませんね」
「ええ。加藤はうちの社員ですが……」
萩尾は、他の社員の様子も観察していた。
「通常の営業をされているんですね」
「ええ、待ったなしの仕事が山積みですので……」
萩尾はうなずいた。
「お仕事中、お邪魔しました」
ビルの外に出て、地域係員に礼を言うと、萩尾は渋谷署のある明治通りのほうに向かって歩き出した。
そして、横に並んだ秋穂に言った。
「謎が解けたかもしれない」
渋谷署の講堂では、すでに捜査本部の準備が始まっていた。刑事たちは、立ったまま輪を作って情報交換をしている。
萩尾は、菅井を見つけて声をかけた。
「死体がどうやって消えたか、わかったと思う」
菅井が挑むような眼差しを向けてくる。
「本当か? あり得ないと言ってなかったか?」
「警察官が出入り口の外にいるのに、死体が消えるなんてあり得ない。そう言ったんだ」
菅井が怪訝そうな顔になる。
「同じことじゃないか……」
「いや、違う。思い込みだったんだ」
「思い込み……?」
萩尾は秋穂に言った。
「『ホトケの善蔵』が秘仏を盗み出した話をしてくれ」
「わかりました。正確には盗み出したわけじゃないですけどね……」
菅井は訝るような表情のまま、秋穂の説明を聞いていた。聞き終わると、彼は言った。
「それがどうしたと言うんだ。時間が惜しい。要点を言ってくれ」
「『ホトケの善蔵』の仕事のポイントは、坊さんの協力者がいたことだ。それで、不可能を可能にできた。今回の事件も、誰かが坊さんと同じく嘘をついているはずだ」
「嘘を……?」
「そう。……でなければ、事件は成立しない」
「誰が嘘を言ってると……」
「一人しかいない。通報者の加藤だ。彼が通報したとき、部屋の中に死体があると言ったのは嘘だったんだ」
菅井はぽかんとした顔になった。
「でも、所轄の地域課や機捜の連中も確認したはずじゃ……」
「俺が聞いた限りじゃ、加藤以外の誰も死体を見たとは言っていない。血だまりは見ただろうがな。人が倒れているという通報だったんで、誰もがそこに死体があると思い込んだんだ」
秋穂が言った。
「たしかに、通報者以外、誰も死体を見たとは言ってませんね」
「ばかな……」
菅井が言った。「加藤は何のために嘘をついたと言うんだ」
「そこがずっとわからなかったんだ。だが、加藤が勤める『恵比寿マーケティング』を訪ねてみて理由がわかった気がした」
「どういうことだ?」
「俺は足跡のことが気になっていたんだ」
「足跡だって?」
「そう。一人で死体を動かそうと思ったら、どうしたって血だまりを踏んで、足跡が残るはずだ。だが、現場にはそれらしい足跡がなかった」
「それがどうかしたのか?」
「盗犯担当ならわかるんだよ。これは、複数の犯行だって……。それも最低でも三人だ。おそらく四、五人の犯行じゃないかな。加藤はその一人なんだ」
「加藤が……」
「『恵比寿マーケティング』を訪ねたとき、違和感を覚えた。それがなぜかようやくわかった。おそらく、社員たちが犯行に関与しているんだ。だから、刑事の俺が訪ねて行くと、彼らは異常に緊張した。違和感の正体は彼らの緊張感だったんだ」
「社員が複数で、犯行現場から死体が消えたように偽装したということか?」
「そういうことになるな」
「なぜだ? もしそうなら、彼らはなぜそんなことをしたんだ?」
「考えられる理由は一つ。犯行現場に警察の眼を惹き付けておくことだ。死体の身元を知られたくないので、どこかに遺棄したいが、現場は恵比寿の駅前だ。深夜まで人通りが多く、なかなか運び出せない。それで、死体を消してみせることにした。つまり……」
「つまり……?」
「死体はおそらく、『恵比寿マーケティング』の社内に隠されている。警察の眼をそらしておいて後で運び出すつもりなんだろう。社員たちの異常な緊張感は、そのせいもあるんじゃないかと、俺は思う」
「手配はしたんだろうな」
「それは、あんたらの仕事だろう。俺は、言われたとおり、死体を消した方法について考えただけだ」
菅井が管理官らしい人物のもとに駆けて行った。講堂内はにわかに慌ただしくなった。
萩尾は秋穂に言った。
「さて、俺たちの仕事は終わった。帰ろうか」
「いいんですか、それで……」
「もちろん、いいんだよ」
事件の顛末は、ほぼ萩尾の読みどおりだった。殺害されたのは、「恵比寿マーケティング」の社長だった。
ブラック企業で、普段から社員の怨みを買っていたらしい。決定的だったのは、自分で会社の資金を横領しておいて、それを部下のせいにしようとしたことだった。
社員は、加藤を入れて総勢で五名。その全員が犯行に加担したのだと言う。
遺体は、社長室に置かれた段ボールの箱の中から見つかった。これも、萩尾の読みどおりだった。
それを萩尾と秋穂に知らせてくれたのは、猪野係長だった。最後に猪野係長が言った。
「菅井が、協力ごくろうだったと言っていた」
それを聞いた秋穂が言った。
「それだけですか? 捜査一課はお手上げだったんですよ。その謎をハギさんが解いたのに……」
萩尾は言った。
「気にするな。俺たちは俺たちの仕事をしただけだ」
「上から目線の菅井が気に入らないんです」
「だから、呼び捨てにするなって。あいつだって、三課に一目置いているんだよ」
「そうでしょうか」
「じゃなきゃ、お呼びはかからなかったよ」
「そうかなあ……」
「一つ言っておくよ」
「何です?」
「俺たち三課は、目利きでなくちゃいけない。現場を見ただけでどんな手口か見破らなくちゃならないんだ」
秋穂の表情が引き締まる。
「はい」
萩尾は付け加えるように言った。
「プロがプロの相手をする。それが、三課のプライドだ」
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